9-5.空虚5度の響きの中に、あなたの心の置き場所を/呉島 勇吾
取ってつけたように『出演者控室』と貼紙のされた教室で、俺は制服を脱ぎ、ズボンを履き替え、シャツのボタンをとめた。
黒いエナメルの革靴を履き、白のベストを着て、その上からイヴニングコートを羽織った時、控室の引戸がノックされた。
「勇吾、入るぞ」
返事をすると、引き戸が開き、手に白の蝶タイを持った真樹が入る。
「ん」と顎を上げると、真樹は俺の首に手を回し、タイを結んだ。
それからシャツの袖を黒光りするオニキスのカフスボタンで留め、シャツやベストのシワを伸ばし、上着の襟を正して血のように紅いポケットチーフを胸に飾る。
ここまでの正装は、よほど格式の高い演奏会でもない限りは滅多にしない。
整髪料を手にとり、俺の髪を撫でつけると、「アンタ、髪伸びたね」と真樹は言った。
ウェットティッシュで手を拭い、近くにあった椅子を引っ張ってきて、俺をそこに座らせる。
それからスマホを取り出し、動画サイトを開いて、ちょうど俺の正面にあたる窓際に立てかけた。
液晶画面に映る音楽室には、そこが土曜の音楽室とは思えないほどたくさんの人が詰めかけていた。
吹奏楽部や合唱部といった、普段から音楽に関心のある生徒やその父兄、天野 ミゲルの動画のファンや、俺の報道に好奇心を刺激された連中、そういう人たちが押し寄せたのだそうだ。
客席の後ろの方からプロのスタッフがちゃんとした機材で撮影しているらしい。
時間になると、ステージを残して音楽室の照明が消された。
暗幕を締め切った音楽室はフッと暗くなって、ステージの奥、音楽準備室につながる扉が開き、そこから天野が制服で現れた。
天野は、太々しいほど堂々としていた。
それと同時に、ステージ奥のスクリーンには、動画サイトの傍に映るのと同じコメント欄が映し出された。
「キタ!」
「ミゲルー!」
「呉島 勇吾を出せ」
ぽつりぽつりとコメントがつき始めていた。
「ご来場頂きました皆さん、そしてこのチャンネルをご覧の皆さん、こんにちは。ミゲルです。
会場には、本当に入りきらないくらいのお客さんが来てくれて、それから動画の方も、かなりの方が入ってくれてます。ありがとうございます。そして、今回この共演を受けてくれた、呉島 勇吾に、感謝を」
天野がそう言うと、次々とコメントが寄せられ、目で追えないような速さで流れていった。天野は続けて、イベントの流れや投票のし方などについて、簡単に説明した。
まず天野が2曲、それから俺が2曲、それぞれ弾く。
視聴者は2択のアンケートに票を投じる。投票期限は、演奏が終わってから1時間。
「なあ、真樹」俺は目を向けずに彼女を呼んだ。
「何?」
「アンタは、俺がいて、不幸だったか?」
「どうだろうね。手は早えし、口は悪いし、部屋は片付けねえしな」
「そうか……」と言った時、背中が柔らかく温かいものに包まれて、俺は驚いたというよりは、少し意外だな、というふうに思った。とても、優しい感触だった。
真樹は俺の耳元に囁いた。
「勇吾、アタシがピアノを辞めたのはさ、確かに、アンタがいるならアタシはもう要らないと思ったからだ。だけど、アンタはアタシを背負わなくていいよ。他の誰がアンタに夢を背負わせたとしても、アタシの分だけは背負わなくていい」
「ああ、分かった」
画面の中で、天野は挨拶を終えると、曲目について説明を始めた。
フレデリック・ショパン『スケルツォ3番Op.39』
彼がそう言うと、コメントは加速した。
「ショパコンの出場者にショパンで勝負!」
「剛気!」
「いやそれは無謀だろ……」
だが、作曲の背景、音楽の構造、そもそもスケルツォという音楽を一曲の独立した楽曲として扱ったのはショパンが最初で──といった天野の説明は、とても真面目で、丁寧で、真摯だった。
「今回、曲目を事前に公表しなかったのは、プログラムを予想する楽しみもあると考えたのが理由の1つですが、何より俺自身が『呉島 勇吾と正面から戦う』というのがどういうことなのか、考えている最中だったからです。
でも結局は、俺が今一番自信を持って弾ける曲を弾くだけです。
そしてそれは、奇しくもショパンでした。
まずは今の自分が、テクニックと音楽性を最高のレベルで両立出来る曲を選びました。俺は、本気で勝ちに行く」
天野はそう言い切ると、ピアノの前に座った。腰の落ち着く位置を探すように、何度か椅子や尻を動かして、やがて止まると、大きく息を吸って、鍵盤に覆いかぶさるように身を乗り出して、それからうごめくように指を動かした。
地の底から聴こえるような、拍子も調性も曖昧な短いフレーズに、天から光が射すような和音が応えた。
端的に言って、下手ではなかった。
多少演出過剰で、テンポや音量の揺らし方が恣意的ではあったが、好みの範疇と言えなくもなかったし、ミスも少なかった。
だが、それ以上のものは何もなかった。
俺は天野がもう少し、俺に対する怨恨だとか、女の死への悲しみだとか、そういったものを込めてくるのだと思っていた。
だが、そうしたものを音楽に込めるだけのテクニックが、天野にはないのだ。
結局のところ、自分の鳴らしたい音を鳴らす方法を指が知っていなければ、ピアノというのは思った通りになど鳴らない。
深い情念さえ持っていれば、勝手にそういう音が鳴るというものではないのだ。
最後の華やかな和音を鳴らし、天野がペダルから足を放すと、ほとんどそれと同時に客席からは拍手が沸いた。
動画サイトのコメント欄にも、概ね好意的な感想が寄せられている。
それは元々の天野のファンもいるのだろうが、顔とキャラクターで売るようなピアノ弾きが案外弾いたというので、天野を見直す声もあるようだった。
天野は拍手を受けながらその場に立つと、また話し始めた。
俺には理解が出来なかった。
1曲弾いて、立って喋って、また弾いて……プログラム全体のテンポ感が気にならないのだろうか?
「次の曲は、同じくフレデリック・ショパンの『舟歌』です」
天野がそう言うと、俺は真樹にスマホを返して立ち上がった。
これ以上、聴く価値はない。
彼女も「あーあ」とこぼす。
「バカが。あいつの手に負える音楽じゃねえよ」
真樹のスマホからは、これはショパンでも屈指の難曲で、これに挑戦する自分の意気込みはどうで……といったことを、執念深く説明する天野の声が聴こえていた。
控室の入り口へ進むと、真樹がドアを開けた。
真樹は俺の少し前を歩き、先へ進んで行く。
階段を4階まで昇ると、音楽室に入りきらなかった人たちが、開け放たれた入り口の付近に固まって、中を覗き込んでいたが、その内の誰かが俺に気付くと、にわかにザワめきが起こった。
俺は唇の前に人差し指を立ててみせる。
観客の喧騒なんかが俺の勝因になってはたまらない。
先行していた真樹が、音楽準備室の扉を開けて、俺を先へと促した。
天野の舟歌は、終結句に差し掛かろうとしていた。
「俺はずっと、社長の手のひらの上で踊らされてるようで、それが気に食わなかった」
準備室の扉を閉めた真樹に向かって、俺はそう言った。
「ああ、アタシもそうさ」
「あのジジィに一泡吹かせるには、どうすりゃいいか考えた。
俺があのジジィの想像より、はるか上を行くピアニストになることだ」
「出来そうか?」
「ジジィは俺という人間の全てを、音楽に込めろと言った。だが俺は全く違うアプローチで、俺の考える音楽の頂を目指す。
真樹、アンタの心にも、そういう音楽が響けばいいんだが」
天野が最後の和音を鳴らした。
拍手が鳴って、音楽室と準備室をつなぐドアが開いた。
背もたれ付きのピアノ椅子を抱えて真樹が出て行くと、天野がそれにすれ違って準備室へと入り、俺を睨んだ。
「どうだよ、呉島」
「どうって?」と俺は首を傾げた。何について聞かれているのか分からなかった。
天野は憎々しげに顔をしかめる。
「俺のピアノだ。お前はこれに勝てるかよ」
少し、何と答えるべきか迷った。驚いたことに、天野にとってあの演奏は会心の出来だったらしいのだ。ミスをあまりしなかったからだろうか。
「日本という狭い国の、東京という狭い街で、お前はその中でも同年代に限れば一番ピアノが上手いのかもしれない。
だが、世界で、そして歴史上、死者さえ含めた四次元的視点で、最強のピアニストは俺だ」
俺は躊躇いなく大口を叩く。そして、それに見合う男であり続けるのだ。
俺にはその覚悟がある。
音楽室へ続くドアが、再び開いた。
✳︎
ステージに出ると、客席はどよめいた。
妙な生い立ちでメディアに取り沙汰された人間を間近に見たからかもしれないし、彼らの想像を超えて大仰な服装をしているせいかもしれない。
客席から見て一番奥にはスクリーンが動画サイトのコメント欄を映している。英語、ドイツ語、フランス語、ピンイン、ハングル、簡体字といったものまで混じって、文字が滝のように流れていた。
ピアノの縁に手をついて、客席を見渡すと、後ろの方に、寧々の顔が見えて目を細めた。
礼をして、椅子に座り、鍵盤に指を落とした。
──モーリス・ラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』──
客席に一瞬戸惑うような空気が流れたが、それはすぐにおさまって、彼らは息をひそめて耳を澄ました。
空虚5度の響きが音楽室に漂う。
和音というのは3度の音(※ドミソのミ)で性格が決まる。
ドミソならば、明るい、楽しい、優しいといったポジティブな響き、このミに♭が付けば、暗い、悲しい、腹立たしいといったネガティヴな響きというふうに。
この3度の音を抜いた時、その響きは長調でも短調でもなくなるのだ。
その時、音楽には何が込められるべきだろう。俺は、それを聴衆に委ねた。
色んな奴が、色んな想いを、俺にぶつけ、あるいは背負わせ、あるいは捧げ、あるいはそっと寄り添うようにそばに置いてくれた。
そういう人たちの想いが、そういう人たちの心の中で、俺の音楽と一緒に響きますように。