9-4.Allegro con fuoco(速く、火のように)/篠崎 寧々
試合開始とほとんど同時に、マユは私の右小手に飛びかかり、辛うじてかわした私に猛烈な速度で体当たりをした。
「ネネてめぇ、強すぎだろ。ぶっ殺す」
副将の琴子先輩との試合を、私は時間ギリギリで一本勝ちに討ち取り、次鋒のキリコ先輩には一本を取られたものの、二本を取り返して勝利していた。
「マユ、あんたこそ、ぶっ倒してやるからチョロチョロすんな」と返す。
面金の隙間から私を睨むマユの目が、笑った。
楽しい。
私とマユは、子どもがはしゃぎ回るように戦った。
彼女の速さに翻弄されながらも、私はそれを力で押し返して上から叩き、マユもその速さに任せて互いに攻めまくった。
マユは私の不意を突いて小手を取り、私は離れ際に突きを取って、勝負はラストの一本。時間は迫っていた。
マユが私の突垂に剣先を伸ばした。これを柄尻で叩き落としながら、剣先で面をとらえる。
私は負けず嫌いのマユが、取られた突きを取り返しに来るのではと想像していた。ほんの、それだけの差だった。
「面あり! 勝負あり!」
礼をして場外へ出ると、勇吾くんを見上げて、自分の胸を拳で叩いた。
勇吾くんは、力強くうなずく。
あなたが見ていてくれるなら、私は無敵だ。
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中堅のナオ先輩と向かい合って、「始め!」の合図がかかると、2人は膠着した。
彼女と同じく打つべき機会を全て打つと決めた私に、以前のような隙は無い。しかし、それはナオ先輩も一緒だった。互いに、打つべき所がない。
なら、作ってやればいい。リスクをとって、隙を見せ、相手がそこに打突する時、私は相手がいつ、どう崩れるのかを知っている。
そう考えた瞬間だった。首が千切れるかと思うような強烈な諸手突きが、私の突垂を押し込んだ。
「突きあり!」
主審が告げる。
ゾッとした。それは、突きを誘おうと頭で考え始めたその瞬間だった。『「あ……打てるかも」の「あ」の前』を打つ。こんなに一瞬なのか。
そこから先は必死だった。打てば打ち返されるのを身を翻してかわし、相手の突きを叩き落としながら面を打ち返しても、彼女の体当たりの速度に間に合わない。
と、その時は唐突にやって来た。私が何かを思ったその瞬間に、ナオ先輩はまた私の首を目掛けて剣先を伸ばす。
『「あ……打てるかも」の「あ」の前』
私はわずかに身体を捻り、右上から左下へ、袈裟懸けに竹刀を振り下ろした。
奈央先輩の剣先が突垂をわずかに外れて私の首の皮を刮ぐようにかすめていく。
乾いた音が高く、体育館の天井に響いた。
「胴あり……」主審をしていた3年生の先輩が、戸惑うように言った。
私の竹刀が、突きを放って空いたナオ先輩の逆胴を打ったのだ。
開始線に戻り、「勝負!」と主審が言った次の瞬間に、笛が鳴った。
引き分けだ。
私は仰向けにひっくり返って大声で泣きながら駄々をこねる寸前だった。
勝てなかった……!
しかし、それと同時に、ナオ先輩に対する深い尊敬の念が湧いて、私は彼女に深く、長く礼をした。彼女はこういう戦いを、面と突きだけで戦ってきたのだ。
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3勝0敗1引き分け。
他の部員の戦績が分からなかった。だから、まだ、何も決まってはいない。Aチームのメンバーが、みんな4勝1敗以上なら、私は大将のアヤカ先輩に勝たなければAチームにも入れない。
しかし、これを勝てば、私のAチーム入りは確実、ナオ先輩がどこかでもう一度引き分ければ、大将は私だ。
アヤカ先輩の待つ試合場へ向かい、その場外に立つと、私は一度目をつむった。怖い。
目を開けて正面を見据えた時、面に覆われたアヤカ先輩の表情は見えなかった。
微笑んでいるようにも思えたし、私を倒そうと息巻いているようにも、全く意に介していないようにも思えた。
「寧々! 勝て!」
不意にギャラリーから声が上がった。勇吾くんだった。
大きく息を吐きながら、荒馬のように首を振った。そして、試合場の白線を跨いだ。
「今日から私が女王だ」
声に出してそう言った。
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アヤカ先輩の剣線が、揺らぐように私の左小手に向き始めたと思うと、彼女は急激な速度で跳んだ。私は面を目掛けて振り下ろす。
入った、と思った。先輩の打ち込みが空を斬り、私の剣先が彼女の面をとらえる。そう思った。
が、次の瞬間、彼女の竹刀は軌道を変えた。私の面打ちを受けて、手首を返す。
右胴に乾いた音が響いた。
「胴あり!」
彼女が一足に跳んで、着地するまでの出来事だった。
気合や意気込み、覚悟だけでは超えられない壁がある、と私は思った。
開始線に戻る途中、またギャラリーに目をやる。
勇吾くんは、こちらを見ていた。彼は狼狽えてもいなかったし、祈るようでも、心配しているようでもなかった。ただただ、確信しているという目つきで、私を静かに見下ろしていた。
相手は私より明らかに強い。でも、そういうことは関係がないのだ。
音楽を知らない私が彼を信じているように、剣道を知らない彼は私を信じている。
私の剣道は勇吾くんのピアノほど優雅ではないし、ことによれば泥臭くて不細工でさえあるかもしれない。
だが、灼けつくような闘志を絶やさず戦い続けている限り、私は彼と繋がっている。
上段に振りかぶって、私は吼えた。
『上段の構え』は『火の位』だ。ただそうあるだけで相手がその熱さに手を引っ込めるような、火の構えでなくてはならない。
そして、剣の重心が、頂点から下へ自然に落下する軌道に沿って、余計な力を加えず、ただ真っ直ぐに振る。
速く、火のように。
私の振り下ろした竹刀は、アヤカ先輩の頭上に吸い込まれるように、彼女の面を打った。
それに遅れて反応した先輩の竹刀が、私の脇に喰い込んだ。構わず前に出る。先輩の竹刀はぐにゃりと曲がって、折れた。
雷鳴のような拍手と歓声が起きる。
自分が面を取ったのだと気づくのに時間がかかった。いや、実はそれほどの時間ではなかったのかもしれない。意識が時間を拡張して、時の流れが曖昧だった。
しかし、「面あり!」という主審の声が聴こえると、自分が彼女から一本を取ったのだという認識は、私を急に現実に引き戻すのと同時に、足が震えるほどの恐怖をもたらした。
これに勝てば、私は団体戦の大将として、試合に立つことになるかもしれない。
開始線に戻ると、先輩が竹刀を替える間に目をつむった。
──「戦って、勝て。俺はそうする」──
思えばあの時、私はもう、勇吾くんが好きだったな。そう思った。
「勝負!」と合図がかかった。
私はもう一度、とても自然に、竹刀を振った。
✳︎
「最後の二本は神がかっていたな」
部長のアヤカ先輩はそう言って笑った。
試合後の挨拶に行って互いに座礼した直後だ。
「自分でも、どうやったのか分からなくて……」
これは謙遜ではなく、本当にそうだった。
「技の起こりが、まるで分からなかった。『え?』という感じだったぞ。この私が。こんなことは初めてだ」
アヤカ先輩は負けたとは思えないくらい、嬉しそうで生き生きとしていた。考えてみれば、彼女は2年の頃から負けはおろか引き分けすらなかったのだ。
もしかすると、彼女は寂しかったのかもしれない。
「いずれにしても、再現性がなくてはな。今回の試合を振り返って、またあの技が出せるように稽古しよう。
私も、今回の試合で火がついた。明日からの私は修羅だぞ。次は負けん」
「は……はい! よろしくお願いします!」
私が怯えながら礼をすると、アヤカ先輩はいよいよ声を出して笑った。
「彼が待ってるんだろう。行きなさい」
「ハイ! 失礼します!」
私は大急ぎで制服に着替えると、体育館を後にした。
ここに、新たな団体戦Aチームは決定した。
先鋒 平坂 マユ(3勝1敗1分 取得本数7本)
次鋒 逢沢 琴子(4勝1敗0分 取得本数7本)
中堅 北条 彩香(4勝1敗0分 取得本数8本)
副将 篠崎 寧々(4勝0敗1分 取得本数8本)
大将 岩城 奈央(4勝0敗1分 取得本数9本)
私は大将の座を逃したが、この日だけで相手の竹刀を2本も折ったことから、【破壊王】と呼ばれることになってしまった。
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音楽室への階段を駆け上がった。
さすがにアドレナリンも底をついたようで、連戦の疲労が腕にも腰にも太ももにも重くのしかかってきたが、本番前の勇吾くんに、一目会わなければ気が済まなかった。
「寧々……」と声がして、私は驚いて足を止めた。
3階の踊場だった。
誰かとすれ違った気はしたが、あまりに慌てていたし、こんなところで会うとは思っていなかったし、まだ視野が面金の範囲のままだった。
私は勇吾くんに会おうと急いでいたのに、当の本人を追い越してさらに先の階段を2、3段登ってしまっていたのだ。
「ご、ごめん……でも、なんでこんな所に?」と慌てて引き返す。
「控え室は3階だ。客はみんな中央階段を昇ってくるから、体育館に近い西階段で待てば、人目につかず会えると思った」
「制服なんだね」
私は勇吾くんのブレザーを指して言った。初めて彼のピアノを聴いた日みたいに、彼の正装が見たいという密かな欲望があった。
「いや、着替える。俺は今日、奴を本気でブチのめす。正装はそのための戦闘服だ」
「天野くんは、それだけの相手?」
考えてみれば、私は天野の実力について何も知らなかった。本人によれば、東京のジュニアコンクールで優勝したという。簡単な相手ではないのかもしれない。
しかし、勇吾くんはきっぱりと否定した。
「いや、全く相手にならねえよ」
首を傾げた。
「じゃあ、なんで……」
「ヤツぁ俺の女に粉をかけた」
俺……の、女? とその言葉を頭の中で反芻してから、ハッとした。
あ! 私だ!
その言い方には、彼の怒りがこもっていた。彼は、意外というと語弊があるかもしれないけど、今までそういう言い回しをしたことはなかった。
そういう言い方はあまり好きではないはずなのに、彼に言われるとなぜかむず痒かった。
「勝って」
「ああ。今度は俺の番だ」
私たちは互いの手のひらを打ち合わせた。