9-3.俺の魂に火を/呉島 勇吾
竹刀を打ち合う小気味の良い乾いた音が、高い天井に反響して交錯していった。
寧々は相手の竹刀の背を柄尻で叩き落とすようにしながら、剣先で脳天をとらえた。
白い袴の裾を翻して相手の横を抜けて行く姿は、バレエのステップのように伸びやかで優雅だった。
彼女の背に結え付けられた襷と同じ白い旗が、音を立てて3本挙がる。
美しい競技だと思った。
あくまで部内試合、しかも休日とあって体育館のギャラリーはまばらだった。
部員の父兄と友人がちらほら、そして遠くに、天野 ミゲルの姿があった。
天野は、今日の夕方行われる俺との勝負に勝ったら、デートをしようと寧々を誘ったらしい。
寧々は勝ってから言えと答えたそうだが、俺は昨夜から今朝にかけて、この話を思い出すたびに、胸のあたりがザワついて、何とも言えず苛立たしい気分になった。
しかし、寧々の剣道には、そういうササクレ立った気分を洗い流すような清廉さがあった。
この剣道部では『下剋上戦』と呼ばれているらしいが、彼女たちはここで、公式戦の出場枠を巡って熾烈な争いを繰り広げている。
まず、現・団体戦Aチームへの挑戦権を賭けて、Bチーム以下の予選リーグが戦われる。そこで勝ち上がった5名が、Aチームの選手全員と戦い、勝ち数が多い者から新たな団体戦Aチームを編成する。
寧々はこの予選リーグCブロックを全試合二本勝ち、応援の甲斐もないほどの快勝で、危なげなく通過した。
素人の俺の目には、他の部員と寧々との間には、実力的にかなりの隔たりがあるように感じたが、寧々の話によると、ここ数日で彼女が先輩たちから受けた助言と指導が、彼女を大きく成長させたという。
彼女の話に見出しをつけるとすれば、『敵から学ぶ』ということだった。
寧々は相手の弱点を探し出すことでなく、むしろ長所や考え方を、自分の技術や戦術に組み込むという方向に舵を切った。
面白いのは、同じ競技をしていても、全く違う考え方をする人間がいるらしいということだった。
Aチームの中堅でナオという先輩は、自分の技を面と突きに絞り、隙と見れば全て打つという、覚悟から発する気迫で敵を圧倒していた。
一方で同じチームの次鋒、キリコという2年生は、練習における打突の回数、その内有効打数、被打数を全て数値化し、その数値を高度化するためには剣道のセオリーや慣習的に良いとされる立ち回りから外れることにも躊躇がなかった。
また副将の琴子という3年生は、相手の心理につけ込み、またこれを動かすことに長けているのだそうだ。
それぞれが、それぞれの戦略を持って戦っている。寧々は先輩たちのそうした技や考え方を学び、自分の戦略を確立しようとしていた。
俺にはない発想だ。
寧々のそうした姿勢は、試合のたびに彼女がする礼に現れていた。
彼女の礼には、単なるレギュレーションとしての動作というのを超えた、深い意味が込められているように見えた。
ああ、これが『敬意』か、と俺は思った。
✳︎
寧々の予選が終わった時点で、ギャラリーから廊下に出て、アリーナの入り口に向かった。
ひょっとすると、試合の合間にアリーナを離れた寧々に会えたりするのではないかと期待したのだ。
スポーツ選手に憧れるというのは、こういう感覚なのかと思った。
競技に最適化された動作や、その動作の集合として現れる技、あるいはそこから垣間見える精神、そうしたものの美しさは、言葉にできない霊感のようなものを感じさせた。
そういう選手を間近で一目見たくて、俺は首を伸ばしてアリーナを覗き込んだ。
すると、アリーナの方からそれに気付いた誰かが、寧々の肩を叩いて俺を指した。
ちょうど面を外した寧々が振り向く。
ほとんど有頂天になりかけたが、そのことが急に気恥ずかしくなって、小さく手を振った。
寧々は竹刀を掴んだまま、小走りにこちらへ駆け寄ってきてくれた。
「観ててくれた?」
「ああ。引くほど強えな」
「え、ウソ……引く?」
寧々は真に受けたようで、不安と驚きの混じったような複雑な顔をする。
「言葉のアヤだよ。まあ実際、お前に軽口叩くのもほどほどにしとこうとは思ったが」
寧々はふふっと笑った。
「今日は調子がいいの。すごく。でもここからは、完全に格上の人たちとの戦いになる。しかも5連戦だよ。めっちゃキツい」
「楽しそうだな」
彼女を見ていると、俺にも自然と笑みが溢れた。
「うん! 楽しい!」
俺は寧々に耳打ちした。
「お前の好きなところはたくさんあるが、最初に心を打ったのは、その内気な態度の陰に途方もねえ闘志を隠してるところだった」
寧々も俺に耳打ちを返す。
「私が勇吾くんを好きなのは、好戦的な態度の裏に、優しさを隠してるところ。もちろん、他にもたくさんあるけど。私たち、反対だね」
「だが、根っこは一緒だ」
俺たちは拳を打ち合わせた。
体育館から、選手の集合を呼びかける号令が聞こえた。
予選の最終試合が終わったのだ。
寧々は小さく手を振って、小走りにアリーナへと戻って行った。彼女の戦場へ。
✳︎
ギャラリーまで駆け戻り、息を切らして手すりから身を乗り出す俺に、面を付けた寧々が顔を向けた。面金の間からかすかに覗く彼女の目に、俺は小さな声で呟いた。
「やっちまえ、寧々」
鼈甲色の胴の上から、寧々は拳で胸を叩いた。
正方形に区切られた試合場の外で、彼女は2回、小さく跳ねた。
と思うと、もう一度、今度は高くジャンプし、股を広げてバスドラムとスネアドラムを同時に叩いたような、腹に響く強烈な音を立てて床を踏む。
周囲の風景が、陽炎のように歪んで見えるほどの凄まじい殺気だった。
彼女は試合場の端を示す白線を跨ぐと、相手と示し合わせたように、浅く、しかし丁寧な礼をした。
凄いことだと思った。
「これからお前を竹の棒で叩きのめす」という凶暴な闘志と、一種の信仰とも思えるような敬虔な所作が、そこには何の矛盾もなく共存していた。
そしてその直後から、ひとたび均衡が崩れれば審判の合図さえ待たずに斬りかかるような緊張感で、じりじりと互いに間合いを詰め、剣を抜き、しゃがんで、立った。
審判が「始め!」と告げる。
寧々は両手を振りかぶった。
相手は寧々が「琴子先輩」と呼ぶ副将で、心理を突いて相手を動かし、それに応じて返す技が得意だという選手で、寧々が到底手に負えないとしていた3年生の一人だったが、これまでの試合を見る限り、俺はそういう評価も彼女特有の謙遜だったのではないかと思った。
しかし、それが剣道という競技に対する無知からくる誤解だったということを、俺は試合が始まって早々思い知ることになった。
先ほどまで優雅な舞踏のようにさえ見えた寧々の剣道が、ここに来てはっきりそれと分かるほど乱れ始めたのだ。
寧々の打突は素人目に見ても、相手の動作に導かれていた。
だがそれは、俺がはたから見ているからで、直接対峙すれば「そう動かなければ獲られる」ということなのだと理解できた。
これまで俺が寧々の剣道に見ていた美は、今や相手の手にあった。かすかな動作で相手を動かし、理合に適った技で応える。
まるで相手と対話するような流麗な所作で、むしろその理合を崩しているのは寧々だった。
しかし、これこそが寧々の剣道だと俺は思った。
技には理合があって、理合に適った技には美が宿る。
だがこれは、戦いなのだ。
競っているのは美しさではない。どちらが先に、相手を叩っ斬るかという勝負なのだ。
相手が小手を匂わせるように剣先を上げ、寧々は面を打ちにかかる。その技が返されるより速く、寧々は相手に身体をぶつけ、その技を潰す。
相手は密着した状態から、引きながらの面を匂わせたと思うと、素早く手首を返して胴を打つ。
寧々はそれを肘で受けた。道着の布一枚を隔てて、硬い竹刀が寧々の肘を打つ鈍い音が、ギャラリーまで響いた。
俺は奥歯を強く噛んだ。
再び距離をとって、寧々は両手を高く掲げて構え直す。
そして、高く長い咆哮をあげた。
まるで、正しさに、自然に、理合に抗うようだった。
「頑張れ、寧々……」俺は呟いた。
強引に面を打ちにかかる。寧々の竹刀は相手の面を打つが、腹を突き返され、旗は上がらない。
試合場の外にいた他の部員が、何かエールのようなことを叫んだ。どうやらそれは、試合の制限時間が迫っているという合図らしかった。
すると、相手の動きに変化があった。剣道を知らない俺は、その動きの変化を上手く表現することが出来なかったが、言うなら、何かリズムのようなものが変わった気がした。
思えば、相手は格上なのだ。引き分けで終わるわけにはいかない。焦っているのは、むしろ相手の方なのかもしれない。
俺がそう思った瞬間だった。寧々がまた、左手一本で打ちにかかった。身体をやや半身にして左脚を前に踏み出し、右足で床を蹴った。
相手は寧々の胴を突き返そうと手を伸ばす。が、その剣先は寧々の胴の丸みに滑って、彼女の右肩を突いた。
「痛っ……!」思わず声が漏れる。
しかし寧々は止まらなかった。右肩を突かれたまま左手の竹刀を振り下ろし、乾いた音を響かせて脳天に叩きつけると、そのまま前に出る。
相手の竹刀は寧々の肩に食い込んだまま、大きくしなり、やがてへし折れた。
審判は揃って一瞬の逡巡を見せた後で、旗を挙げた。
「面有り!」と主審が宣言する。
「信じられねえ……」と独りごちた。
相手の竹刀を肩に突き立て、それをへし折りながら面をとったのだ。あの内気で、優しく、恥ずかしがり屋な寧々が。
元の位置に帰り、再び「始め」の合図がかかった直後に試合終了を告げる笛が鳴った。
寧々は勝った。そして、俺の魂に火をつけた。