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9-2.彼の魂に火を/篠崎 寧々

 教室では、みんながスマホをテレビに繋いで身を寄せ合っていた。


 校門に記者が押し寄せ、この学校が生中継されていたからだ。


 先日、報道番組では特集が組まれ、勇吾くんの生い立ちがスキャンダルみたいに報じられた。


 私はその時すぐ彼に電話をしたが、彼はこうなることをあらかじめ知っていたみたいだった。


 勇吾くんはあまり詳しく話さなかったけど、この展開自体が、彼の所属する事務所が仕掛けたことのような、そんなニュアンスが感じられた。


 彼が未成年ということもあってか、少しの間、メディアも様子見をしていたようだったが、どういう事情か、とうとうこの日、雪崩れ込むように学校へと記者団が殺到したのだ。


 自分のスマホをテレビに繋ぐと、すでに勇吾くんは去った後で、スタジオで2、3コメントがあって、それから司会をしているタレントが現地リポーターを呼んだ。


「はい! こちら呉島 勇吾さんの通う互恵院学園前です!」

 花森という女性のリポーターは言った。背の小さな、可愛い感じの人だった。


「花森さん、印象はいかがでしたか? こちらからは、前評判通りのかなり荒々しい印象でしたが」


「ハイ! えーと、カッコよかったです!」


「いや、花森さんの好みの話じゃなくて!」


 司会がツッコミを入れると、スタジオにドッと笑いが起きるのに合わせて、教室がどよめいた。


「あ、いや、えーとですね……彼は生い立ちだとか、言動だとかいった、音楽に関係のないことばかり聞かれるのに辟易(へきえき)した様子だったんですが、私がコンクールのことを聞くと、一瞬ですけど、微笑みかけてくれたんですね」


「それで花森さん、ポッとなっちゃったわけだ!」と司会がからかうように言うと、リポーターの花森さんは恥ずかしそうに頬を押さえた。


「いえ! あの……はい! 伝わりましたでしょうか、独特の色気がありますね! そして、ご覧になったと思いますが、わざわざ当局のカメラに向けてコメントを下さいました!」


「なるほど。花森さん、彼、未成年ですから、くれぐれもお願いしますね!」


「あ、えっと……ハイ! がんばります!」

 これがまたスタジオの笑いを誘う。


 私はちょっと、ムッとした。


 何さ、あの女! と思わないでもなかった。


 しかし、そんなことよりもっと、私の怒りに触れるものがある。


 大人たちはまた、勇吾くんを見世物にしようとしている。


 勇吾くんはこの2、3日、行く先々で記者に追い回されたそうだ。彼は、逃げることを覚えたと冗談めかして言ったが、だいぶ消耗しているように見えた。


 私は教室を出て勇吾くんのところへ駆けつけようかと思ったが、ちょうどその時、担任の先生が教室に入って来た。


 スマホを机の下に隠し、メッセージを送る。

 「勇吾くん、大丈夫?」


 すぐに返信があった。

 「取材か? 別にどうってことねえ」


 「私には本当のことを言って。

  大丈夫?」


 「心配しなくていい。俺は無傷だ。

  けど、ちょっと疲れたな。

  今日も部活頑張れ。

  明日の試合は俺も観に行く」


 ちょっと疲れた。その短い一文に、私は途方もない重々しさを感じた。


  ✳︎


「彼、やってくれるじゃん」

 朝のホームルームが終わった時、唐突にかけられた声に、私は驚いて肩をすくめた。


 天野 ミゲルだ。

 少し解釈に時間がかかったが、どうやら天野は、彼らの対決にあたって、天野のチャンネル登録者数に対抗する目的で勇吾くんがメディアを利用したと考えているらしかった。


「ねえ……」と天野 ミゲルに問いかけた。「彼はなぜ、ショパン・コンクールに出るんだと思う?」


「それはクイズ? それとも、意見を求めてる?」


 私は後者だと答えた。

「彼に、必要だとは思えない」


 勇吾くんが今まで【消えた神童】であったことには、そうなったタイミングで現れたマネージャーの柴田さんの存在が関係していると思われた。


 柴田さんは、メディアの目に触れないようなやり方で、彼に相当なお金を稼がせていた。


 そう考えると、彼にはもともとメディアへの露出など必要でなく、もっと言えばコンクールに出る意味さえ疑わしかった。


 彼は今の時点ですでに、演奏家として十分すぎるほど生活できていたし、自分の演奏を広く聴いてもらいたいとも、自分の演奏を評価してもらいたいとも思っていない。


 本質的に、戦って勝ちたいという欲求はあるにせよ、『審査員の評価を集められた方が勝ち』という種類の戦いが、彼の好みに合うかというと、いささか怪しかった。


 天野は少し考えてから口を開いた。

「多分、苦手だからじゃないかな。あるいは、人からそう思われているから」


「勇吾くんが、ショパンを?」

 信じられなかった。彼に苦手な音楽など存在するのか?


「ショパンっていうのは、音楽の歴史では突然変異みたいな作曲家だ。

 例えばシューベルトは、ベートーヴェンやモーツァルトの影響を受けて大作曲家になったし、シューマンはそのシューベルトの影響を受けたっていうふうに、系譜を辿れるんだ。

 でもショパンは他の作曲家に比べてそういう影響が極端に少ない。

 もちろん、バッハを勉強した形跡はあるし、他からの影響が全くなかったわけじゃないけど、ショパンを演奏する場合、そういう系譜を辿るより、むしろもっと重要なことがある」


「それは?」


「『人の心を思うこと』だ。

 20歳でウィーンへ旅立って以来2度と帰ることが出来なかった祖国ポーランドを想って、ショパンは祖国の舞曲ポロネーズを16曲、マズルカを58曲書いてる。

 その他にも、彼の人生を辿れば、その境遇が楽曲に反映されてるのが分かるんだ。

 どうだろう。呉島 勇吾には、人の心を思うことが出来ると思うかい?」


 私はゆっくりと目をつむった。

 鼻から大きく空気をを吸い込み、そしてゆっくりと吐いた。


「反対に聞くけど、人の心を思えない人のことを、私が好きになると思う?」


 天野は形の良い口元に、涼しげな笑みを浮かべた。

「ねえ、呉島 勇吾に勝ったらさ、俺とデートしてよ」


「はっ……?」

 思わず素っ頓狂な声が出て自分でもびっくりした。突然何を言い出すのだ?


「俺、君のこと、結構好きだな。優しいけど芯があるところとか、背の高いところとか」


 そのやり取りに聴き耳を立てていたクラスメイトたちが、不意にザワめいた。


 クラスにきたばかりのイケメン転校生が、唐突に口説き始めたのだ。


 なんだか正体の分からないものに心が波立ったけれど、私の答えは明らかだった。

「勝ってから言って」


「やった。これで理由が1つ増えた」

 そう言って笑う彼の(あお)い目は、私を通して、呉島 勇吾と、そして失われた誰かを見ていた。それから、付け加えるように彼は言った。「そういえば明日、試合なんだって? 応援に行っていい?」


「戦う私が、怖くないなら」と私は答えた。


「見どころは?」

 天野は挑発するように聞く。


「剣道は、礼に始まり礼に終わる。戦う相手に敬意を示すこと」


  ✳︎


「そりゃ、俺にとっても中々難しいテーマだ」

 帰り道、駅の近くの公園で、勇吾くんはそう言った。


 明日の『下剋上戦』に備えて私の部活が早く終わるので、帰りを待っていてくれたのだ。


 2人ベンチに並んで座ると、私は天野 ミゲルとのやり取りについて、一部始終を話した。


 私はマネージャーの柴田さんを敵だと思っていること。

 彼女と戦うには、ピアニストにとっての勇吾くんがどういう存在なのか知るべきだと思ったこと。

 天野 ミゲルの過去について。

 天野は勇吾くんに勝ったら私をデートに連れて行こうとしていること。

 私がそれに何と答えたか。

 そして、剣道家は戦う相手に敬意を払うこと。


 そういうことが必要だった。私は私の気持ちを、真っ直ぐに伝えなければならない。


「言いたいことは沢山ありすぎて、どれから言っていいのか分からない。でも、これだけは言わせて。

 勇吾くん、ピアノで人は死なないよ。私だって、絶対敵わない相手がいたら、絶望するかもしれない。誰かに夢を負わせて無茶なことをさせるかもしれない。でもそれは、強かった人のせいじゃないよ」


「だが、天野にとっちゃ、そうじゃねえ」

 勇吾くんは、何か諦観めいた感じで、寂しそうに笑った。

 まるで仲間はずれにされた子どもみたいな、心細い声だった。

「みんなが俺のこと、『悪魔』って呼ぶんだ」


 私はただうなずいて、続きを待った。


「どうしてなのかなって、考えた。

 夢を見たピアノ弾きは、人生のほとんどをピアノに捧げる。その先に何もなかった時、恨む相手もいねえんじゃやり切れねえ。だから、ヤツらには『悪魔』が必要だったんだ」


 私は、勇吾くんの手を握った。彼の手は冷えきって凍えそうだった。

 だけどその奥に、確かに脈打つものがあった。彼は、人間だ。


「でもあなたは、音楽を手放すつもりはない」

 私はいつか彼が私にそうしたように、問いかけた。


「ああ。俺は、ピアノ弾きどもの悪魔でいつづける。もう登れそうにねえヤツらの夢を刈り取って、俺が“上”まで連れて行く」

 勇吾くんは、真っ直ぐに前を向いてそう言った。途方もなく遠いどこかを、しかし確かに、彼は見つめていた。


 やっぱり、彼はそういう人なのだと思った。


 弱者になんか脇目も振らないという顔をしながら、本当は、夢の途中に散華(さんげ)した人たちのことを想っている。


 何て不器用で、何て下手くそに生きる人なのだろう。


 人の心の分からない人なんかじゃない。むしろ痛々しいほど敏感で、繊細なのだ。


 私は彼を抱きしめて、ゆっくりと、丁寧に唇を重ねた。


「明日の試合、観てて。戦い抜くから」


 9月の夜は、もう肌寒かった。


 左手の小指に、私は力を込めた。

 私の剣が火花を散らして、彼の魂に火をつける。

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