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9-1. Spin it around so I can spit in its face/呉島 勇吾

 3歳の頃に俺を買い取った、教育大の野呂教授は、取材に応じてこう話した。


「一言で言えば、嫉妬と、恐怖です。3歳になったばかりで保育園のピアノに初めて触り、そこの職員が弾いた音楽を完全に再現した。

 彼のご両親──正確には義理のですね──が私のところに彼を連れて来た時、教育者としての野心が、私に彼を内弟子にとることを即断させました。

 しかし、彼を迎えて一月経った時点で、私が彼より優れていたのは、手の大きさと知っている曲の数くらいでした。天才なんて生優しいものじゃありませんよ。人智を超えている────」


 社長(ジジィ)は俺の生い立ちを──おそらく都合の良いように多少脚色して──、あるテレビ局に売った。


 取材は海外の音楽学校にも及んだが、そこでは何人かの元教員が取材を拒否した。

 俺は知らなかったが、俺の在学中、そこでは教員の退職が相次ぎ、また懲罰的な解任なども出たらしい。


 当時を知る人間で取材に応じたのは、俺の知る限りブダペストの教員の中で一番不真面目で、レッスン中はただ俺に「好きな曲を好きなだけ弾け」とだけ言って、脇でウンウン(うなず)いていただけの女の教員だった。


 俺の知っているころより、彼女はだいぶ太っていた。


「私は早い段階でプロの演奏家の道を諦め、指導の道へ進みました。

 彼のピアノを聴いた時、その選択が正しかったと私は安堵しました。

 ピアニストとしてのプライドなんか持っていたら、とても正気じゃいられませんよ。

 もちろん、指導者としてのプライドも傷つきましたけどね。

 何せ、我々が彼に教えるべきことなど、何もなかった。

 だから、演奏会やコンクールと、出来るだけ彼を外に出したんです。彼に必要なのは教育より実績だったし、何より学校の中に置いておくのは危険だった。

 彼は気性がとてつもなく荒かったけれど、それ以上に生徒からも教員からも、強烈な嫉妬を買い続けていましたから」


 パリ国立高等音楽院のピアノ科主任はこう答えた。ひょうきんな感じのする薄い白髪の爺さんだった。


「パリ国立高等音楽院(コンセルヴァトワール)は彼を正当に評価しました。

 本校では現在、第1課程3年、第2課程2年の完全5年制を採っていますが、彼には特例で飛び級を認めた。

 彼に必要だったのは、演奏技法ではなく音楽史や和声法といった知識でした。それすらあっという間に習得してしまいましたが。

『ベートーヴェンのこのフレーズは、バッハのこれだよね』と、こういうことを、教える前からやるわけです。

 分かり易いようにそう言いましたが、実際にはこれの何倍も難解な解釈を即座にやる。とにかく音楽の理解がとてつもなく早い」


 ピアノのテクニックについて尋ねられると、教授は自分の耳を指し、それをピクピク動かして見せた。


「これ、出来ない人もいるでしょ? 彼の技法はこういうものです。『何故か分からないが彼には出来る』それ以上説明のしようがない。

 ピアノも身体活動である以上、筋力を必要とします。連続で速く指を動かしたり、遠くの鍵盤を押さえたり。大きな音を出すために体重を増やす人さえいる。

 ですが彼は小さな身体で『そんなに力まなくったって、こうすれば音が出るじゃない』って涼しい顔をして、フォルテ3つとか4つとかの音を出すんですよ」


 映像は再びブダペストの教員に戻った。


 日本に帰りたがるようなことはなかったのか、という記者の問いかけに、教員は答えた。


「少なくとも、表面上はありませんでした。それより、とにかくピアノにしがみ付いて離れなかった。彼は寮に入っていましたが、寮母さんが我々に泣きつくんです。

『ピアノを弾かせろと暴れて手に負えない。風呂と食事を済ませたら学校に置いてくれ』って。

 ですから、夜間警備員は彼の挙動を、彼は警備員の居眠りを、互いに監視しあっていました」


──眠らなかったんですか?


「彼の睡眠は極めて不規則でしたが、時間にすればそれなりに眠ったと思います。

 興味のない授業ではよく寝ていましたから」


 番組では、俺の身柄が実の母親からその兄夫婦へ、そして教授の手引きでヨーロッパへ渡ると、ブダペストやパリの学校に籍を置きながらヨーロッパ中転々とピアノを弾いて回り、輝かしい功績を残す一方で孤独を深め、そして消えたというふうに紹介された。


 しかし俺が家畜同然に連れ回され、目隠しをされたり、香水臭いババァに撫で回されたりしながらピアノを弾いたことや、酔っ払いに絡まれて喧嘩になり、ドイツかどこかの留置所にブチ込まれたことなどは、この特集では取り上げられなかった。


 一方で番組は、俺の最後のステージに言及した。驚いたことに映像が残っていたらしい。


 ステージで弾いているのはラヴェルの『夜のガスパール』第3曲「スカルボ」

 それは唐突だった。

Fraude(まがいもの)!」と野太い男の声があがる。


 10歳の俺は構わず最後まで弾ききると、その不気味な残響の中で、椅子から立ち上がり、その椅子を前蹴りに蹴倒した。客席に伸ばした左手にモザイクがかかった。中指を立てたからだ。


 そこでヤジを飛ばした男は、楽壇における、ある派閥に属する学者であり、その派閥はショパン国際の審査員にも食い込んでいると番組は報じた。


 社長(ジジィ)の目的は、おそらくこれだった。


「政治というのは、どこの世界にもある」とジジィは言った。「ロビー活動でキミを有利にするなどと考える必要はない。しかし、その逆は考えるべきだ」


 この特集は15ヶ国語に翻訳され、世界中に配信されたそうだ。


  ✳︎


 レクサスの後部座席で、動画サイトに上げられた一連の報道を観ていた。


 このところ、雑誌だのテレビだのの記者に追い回されることが増えた。これが元凶らしい。


「やり方はアタシも気にくわねえが、アンタが『1980年』みてえな下らねえ目に合わねえ方法を、他に思いつくわけでもねえ」

 真樹はハンドルを握って前を向いたまま言った。


 1980年の第10回ショパン国際ピアノコンクールで、それまで数々の国際コンクールを獲ってきた優勝候補の1人が予選で敗退すると、これに抗議したある審査員が辞任、大きな騒動となった。


 表向きは彼の演奏解釈が奇抜すぎたためとされているが、25点満点の審査において、彼に0点、または1点をつけたのはいずれも当時共産圏の審査員だった。


 敗退したピアニスト本人は、モントリオール国際コンクール優勝後、モスクワ音楽院のピアノ科主任であった教授から、今回のショパン国際ピアノコンクールを捨てる代わりに2年後のチャイコフスキー国際コンクールで1位を取らせるという提案を受けたと語っている。


 真実など俺の知ったことではないが、いい演奏さえすれば勝てるという状況を作るには、多少の工夫が必要らしい。


「効果はあんのかね」


「さあな。少なくとも、『不自然な審査をすれば疑われるぞ』という牽制くらいにはなるだろう」


 レクサスが学校に近づくと、校門前には人だかりが出来ていた。手に手にマイクだのカメラだのをものものしく構えて、こちらを待ち構えている。


 彼らが後部座席に俺の姿をみとめると、一斉にフラッシュが焚かれ、ガラス越しにも目が眩むようだった。


「アンタらは俺を、【悪童】で売るんだな」と俺は確認した。


「今のアンタならそれが出来るとジジィは判断した」

 レクサスは路肩に停まった。


 人だかりが一斉に駆け寄る。


 車のドアを開けて踏み出す。


 その背中に、真樹が言った。

「失われた夢に想いを馳せるのは、死んでいくヤツらに任せておけ。

 勇吾、アンタは前を見ろ」


 俺はフンっと鼻を鳴らした。


「呉島さん!」「呉島 勇吾さん!」口々に名前が呼ばれる。


 シャッターの音がうるさかった。


 俺は落ち着き払って口を開いた。

「邪魔でしょう。普通に考えて。他の生徒も通る」


 しかし、連中は気にする様子もなかった。それどころか、校門を塞いで俺の行手を阻む。

「ご自身の生い立ちについて、ご自身の口からお聞かせ願えませんか!」とその中の誰かが言った。


 こちらも無視をきめこむ。その手の質問には答えない。


「現在、教授とのご関係は!」

「実の親御さんとは会われたんでしょうか!」

「生活はどのように?」


 学校の職員が駆けつけて、記者に道を開けろと注意した。

 

 その間を抜ける途中、記者の作る人垣を分けて、一際背の小さい女が顔を出した。

「あの、ショパン・コンクールに対する自信のほどは!」


 必死にそう聞く背の小さい女の記者に、俺は微笑みかけた。

「やっとまともな質問が聞けた。お宅、どこの記者?」


 そう聞くと、記者は会社と自分の名前を名乗った。地方のテレビ局だった。カメラはどこかと尋ね、記者の指すカメラに顔を向けて睨みつけた。


「俺がナンバー・ワンだ。コンクールに出るような奴はみんなそう思ってるし、『よしんば入賞して仕事が増えれば御の字』なんてこすっからい了見の奴がいるとすりゃ、俺じゃなくても他の誰かが格の違いを見せつけるさ」


 記者団の中にどよめきが起こった。


「コンテスタントの中で、注目しているピアニストは?」

 小さな女は勢いを得たように続けた。


「いない。ピアノ弾きは全員敵だ」


「動画配信者、ミゲルさんとの対決が話題ですが!」と横から便乗した別の記者が言った。天野が自身のSNSで大々的に告知を打っているらしい。


「俺にとっちゃ、アイドルの始球式だ。だが、白々しい空振りで笑いを誘うつもりはねえ。遠慮なくバックスタンドに叩き込む」


 また別のところから声があがった。さっきから言動がどうの、生い立ちがどうのとしつこく食い下がっていた男の記者だ。

「他のコンテスタントに対して、敬意は?」


 俺はさっきの小さな記者が指した地方局のカメラに向かって、最後に噛みつくように言った。


「その日ワルシャワに集まるのは選りすぐりの若手ピアニストだ。

 俺が気に入らねえヤツぁ、当代最高の若手奏者たちに『悪魔狩り』を期待するといい。

 ソイツらが端から喰われる様を見せてやる」


 強い言葉を吐きながら、俺はどこか虚ろだった。

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