8-9.迷いを捨てて/篠崎 寧々
最近、勇吾くんとはどうなのか、と聞かれて、私は一時答えに窮したが、当たり障りのない範囲で、彼にピアノを教えてもらったことなんかを話した。
「個人レッスン? は? エッロ! それもう性行為じゃん!」
マユが声をあげた。
放課後の格技室にどよめきが起きる。
「そういう発想する人の方が絶対エロいと思う」と私は抗議した。「それに、家族みんなだし」
「どういう家族だよ」マユは怯えるような目で私を見る。
「普通の家族だもん!」
私がムキになると、マユは笑ってから、声をひそめた。
「冗談だよ。でも、あんた気をつけなよ。今、先輩方もみんな殺気立ってるから。『彼氏持ちは殺せ』って」
「そっち?」
「私もそっち側だよ。それにAチームの先鋒も譲るつもりはないからね。とにかく、アンタとナオ先輩は的にかけられる」
「ナオ先輩? 中堅の?」
思わず前のめりになった。失礼かもしれないけど、意外だった。この剣道部の中でも、特別堂々とした剣道をする人で、口に出しはしないが「自分、不器用ですから」というタイプだ。
「そう。歳下の彼氏いるの知らない?」
「全然知らなかった」
「今、あんたとナオ先輩は徹底的に研究されてるからね。2人とも別の意味で特殊だし」とマユは言った。
確かに、女子で身長179センチ(公式記録は2学期の身体測定で182.0センチに更新)の上段選手というのもあまりいないだろうが、ほとんど面と諸手突きしか打たないのにあれだけ勝てる選手というのもナオ先輩以外に見たことがない。
しかし逆に言うと、その面と諸手突きのカラクリさえ攻略出来れば、ナオ先輩は崩せるのかもしれない。
私は顔の前で手を組んだ。
そうすれば、枠が1つ空く。
部活が始まって基本稽古を一通り終えると、休憩を挟み、互角稽古に入る。
向かい合って2列に並び、3分間の稽古をすると、順繰りに回って相手を替える。
上段はリスキーな構えだ。
中段なら不意の飛び込み面も、自分が構えを崩さず相手の腹を突き返せば一本にはならないし、左右の胴は隠されて、小手も剣の軌道を変えなければ打てないが、上段は左右の胴も、突垂も小手も大きく露出した状態で戦うことになる。
しかし上から浴びせる打突は最初から振りかぶっている分圧倒的に速い。その上私は体格に恵まれ、片手素振りを毎日100回しているのだ。
相手の同級生が左の小手を打つために振りかぶるより速く、私の打突は相手の面をとらえた。
鍔迫り合いから別れて、再び上段に構え直すと、相手の突きを柄尻で叩き落とすと同時に、また面を浴びせる。
今は、余計なことは考えない。天野 ミゲルの怨念も、勇吾くんとの関係も、『後で考えること』のフォルダに入れて、目の前の戦いに集中する。
この戦場もまた、片手間に生き残れるような場所ではないのだ。
その次の相手が、件のナオ先輩だった。
礼をして構える。
「始め」の号令がかかった時、私は自分の思い上がりを恥じた。
「面と突きを攻略すれば……」それが出来ないから今まで勝てなかったのだ。
まず構え合った時点で、そのどっしりした体格からにじみ出る圧力に怯んだ。
打つべき場所が見当たらない。上段に振りかぶった両手を少しでも下ろせば、そこから面を打たれるイメージしかわかずに足がすくむ。
と、その瞬間に喉を突かれた衝撃で私は後ろによろめいた。
諸手突きをくらったと気付くのに少し時間がかかった。
構え直して面を打ちにかかるが、真っ直ぐに振りかぶったナオ先輩の竹刀は、私の剣の軌道を真ん中から割って、吸い込まれるように面を打った。
強すぎる。
それから私も果敢に攻めたが、打ちにかかれば面を返され、居つけば突かれ、全く歯が立たない。しかし、私は自分でも意外なほど、落ち込んではいなかった。
私の中にあった誤解が自然に解けて、やるべきことが分かったような気がしたからだ。
私は先輩たちを倒すことに躍起になって、彼女たちに勝てる剣道を、自分の中だけから捻り出そうとしていた。
なんて傲慢な考えだろう。私は勇吾くんの何を見ていたのか。彼は他者の感情や優しさを、必死に学ぼうとしていた。そして、それを自分の音楽に反映させた。彼のような掛け値なしの天才が、そうやって人から学ぼうとしているのだ。
稽古が終わると、私はナオ先輩に声をかけた。そして、帰りに寄り道して少しアドバイスを頂けませんかと頼んだ。
ナオ先輩は、「……ッス」と答えた。それはシャイな彼女の承諾の言葉だった。
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ナオ先輩と2人というのは初めてで、少し緊張した。柔道家のようにどっしりした体型の無口な彼女は、ファストフード店のテーブルを挟んでもなかなかの圧力があった。
「すみません……急に」と恐縮しながら私が言うと、ナオ先輩は顔を横に振った。
「自分、人見知りで……先輩らしいこととか……逆に……ッス」
所々聞き取れない部分もあったが、補完して要約すると、人見知りで後輩指導が出来ていなかったので、聞いてきてくれて逆に嬉しい、というくらいの意味だった。
この人は、私に似ているな、と思った。
「あの、ずっと不思議で……先輩は、立ち合いの中でほとんど面と突きしか使わないのに、どうしてあんなに入るのかなって。私も面か突きがくるって分かって身構えてて、不意を突かれたのとも違うっていうか……」
ナオ先輩は、ポテトのLサイズを3、4本ずつ摘んでいた手を止め、アイスコーヒーのLサイズの紙コップ(彼女はストローを断って蓋を外していた)に口をつけ、一口飲んだ。
そして、「自分、不器用なんで……」と本当に言った。
「でも、不器用な人はあんなに勝てないんじゃ……」
「いや、本当に……小手とか胴とか、面も左右正面打ち分けたりとか、本当、無理で……」
女子にしては低い声で、申し訳なさそうに言う。地区ベスト3の選手なのに、恐縮しきっているみたいだった。
私は彼女のテンポに合わせて、続きを待った。すると、続く言葉を求められていると気付いたのか、やや緊張した様子で、彼女は言った。
「だから……下手な小手で崩れるくらいなら、面と突きだけ……代わりに、打てそうと思った時は……全部打つって決めて……実際は……『あ……打てるかも……』って思う時の、『あ』の前を全部打つっていうか……『返されるかも……』って迷うことを捨てて……」
私は思わず口を押さえた。道理で、強いワケだ。彼女の強さの秘訣は、覚悟にあった。
彼女は迷うことを捨てた。面を打とうか、小手を打とうか、打てば打ち返されるだろうか……そういう迷いを全部捨てて、『あ、打てるかも……』の『あ』より前を全部打つ。最初からその腹づもりだから、構えからして違う。その気迫が、相手を崩すのだ。
「本当に、勉強になります。何か、お礼が出来るといいんですが……」
私がそう言うと、立ち合いでは迷わないことであれだけの戦果を挙げるナオ先輩は、少し迷うように視線を泳がして、遠慮がちに言った。
「先輩にもらった恩は、後輩に返すものだから……でも……じゃあ、彼氏の話を……」
私たちはそれから、とてもゆっくりなテンポで、互いの恋の話をした。
私は初め、勇吾くんとの出会いや夏休みの思い出、彼は甘いものが好きで、意外に照れ屋な部分があったりすることなんかを話した。
でもその内、勇吾くんがもうすぐワルシャワに飛び立って、もう帰ってこないのではないかと思っていることや、マネージャーが彼に特別な思いを寄せているらしいということ、彼の突出した才能が、周りのピアニストや、ひいては彼自身をも傷つけてきたこと、そういうことがこぼれ出してしまって、先輩に詫びた。
「ごめんなさい。こんなこと。何て答えればいいのって感じですよね」
ナオ先輩は首を横に振った。
「私も、剣道以外は……迷ってばかりなので……でも……剣線で相手の中心をとるみたいに……自分の気持ちも真っ直ぐ相手の中心を取ったと思った時……私は上手くいったから……」
それから、私もナオ先輩の彼氏のことや、その馴れ初めについて聞いた。
それは、岩のような不惑の剣を持つ彼女の、とてもかわいい恋の話だった。
✳︎
家に帰ると、電子ピアノの音がした。勇吾くんの家で教わって以来、うちの家族はみんな、完全にハマっていた。
私は自分の部屋に荷物を置き、急いで部屋着に着替えた。
リビングに下りると、ピアノを弾いているのはお母さんだった。
私は家の電話機のある棚に、車屋さんだとか保険屋さんだとかの名刺がしまってある引き出しを開けて、その中をあらためた。
「寧々、アンタ何してんの?」とお母さんが手を止めて聞く。
「ちょっと、探し物を……」
お母さんは怪訝そうな顔をしたが、「ちゃんと元に戻してよ」と言うきりだった。
探し物は拍子抜けするほどすぐに見つかった。
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私はそれを引き抜いて、ポケットに隠した。
ごちゃごちゃした駆け引きは、私には向かない。
中心をとって、前に跳ぶ。迷いを捨てて。
勇吾くんにメッセージを打った。
「土曜の試合、絶対来てね!
私がどういうふうに戦うか、観てて!」
夜の報道番組で、『ピアニスト呉島 勇吾、その壮絶な半生』という特集が放送されたのは、その日のことだった。