8-8.狂気の種を植えた者/呉島 勇吾
それは、本当に何の前触れもない出来事だった。
朝、真樹が何事もなかったように俺の家に迎えに来て、俺も何事もなかったようにその車に乗り、校門の前で降りた時のことだ。
「呉島 勇吾! 俺とピアノで勝負しろ!」
突然そう怒鳴りつけられて、俺に理解できたことは、相手が俺と、勝負をしたがっているということだけだった。だが、それだけで十分だった。
「いつ、どこで、どうやって?」
俺が聞くと、後ろから真樹が割って入った。
俺の横を通り過ぎて行く時、「だからイヤだったんだ……」と、俺には聴こえるが相手には聴こえないという微妙な声量で愚痴を吐いた。
「天野くん、彼はコンクールの準備で忙しいの。悪いけど、動画の企画は別でやってくれない?」
「ああ、お前が天野 ミゲルか」
言われてみると、ケルト系の顔立ちをしている。ポルトガルだかスペインだかと、日本人のハーフらしい。
「真樹さん、俺がこの学校に来たのは、呉島 勇吾に会うためだ。そして社長がそれに許可を出した。そもそも、社長が俺に声をかけたのは、呉島と俺がカチ合えば、面白いことになりそうだって考えたからじゃないのか?」
真樹はそれに反論する。
「アタシにとっては全然面白くないわ。あなたのマネジメントは社長の担当、アタシは実務を代行してるだけだけど、呉島のマネジメントはアタシに裁量があるの。コンクールが終わってからにしてちょうだい」
「真樹さんさぁ、そもそも、コンクールが終わった後、呉島を日本に戻すつもりあるの? 社長とアンタの方針が、俺には食い違ってるように見えるけどね」
「それは事務所と呉島の間で話し合うべきことよ」
というやり取りを、俺は首をかしげながら眺めた。
そして、真樹の肩を掴んだ。
「引っ込んでろ。こいつは俺をご指名だ」
「そう来なくっちゃ」と天野が笑う。存分に敵意を含んだ笑い方だった。「ヘルシンキのサロンでピアノを弾いたのを覚えてるか?」
「いいや? 全然」
俺が答えると、天野の目尻がぴくりと引きつった。
校門を通る生徒たちが、何が起こっているのかと歩調を緩めながら通り過ぎていく。その微妙な速度の揺らぎが校門付近にやがて人だかりを作った。
その人垣に、寧々が大きな体を縮こめながら割り込んで、「ミゲルくん!」と声をあげた。
「寧々……」俺は思わず声を漏らした。
「真正面って言っても、何もこんなところで……」寧々は天野に向かって困ったように眉尻を下げる。
どういうことだ? 俺は始めから何も事情を知らないが、この件には寧々が噛んでいるのか? そして寧々は、天野の側についているのだろうか。
真樹が口角を吊り上げた。
「なるほど、篠崎さん、いい選択だと思いますよ。天野は今後も日本で活動するでしょうし。私は、男も仕事もそう器用に乗り換えられませんが」
「ややこしいこと言わないで下さい!」寧々はほとんど叫ぶように言った。
天野はこれに機を見たとばかりに、寧々の手首を掴んだ。
「勇吾、可愛い彼女だね。俺にくれよ」
「ちょっと!」驚いた寧々が抗議の声をあげる。「勇吾くん! これは、そういうことじゃないから!」
真樹は呆れたようにため息をついたが、その仕草はどこか芝居がかっていた。
「あのね。子どもの痴話喧嘩に付き合っている暇はないの。惚れた腫れたは他所でやってちょうだい。呉島の仕事を管理してるのはアタシ。勝負だか何だか知らないけど……」
「柴田さん、だからこれは痴話喧嘩とかじゃなくてですね……」と寧々が割って入る。
「おい」俺はその下らないやり取りにうんざりして罵った。
「外野が、ごちゃごちゃうるせぇぞ。
天野。てめぇも女ぁダシにすりゃ揺さぶりがきくとでも思ったかよ。悪魔の俺も反吐の出る下衆だぜ。
社長の言うことには、俺ぁピアニストの屍を積み上げた山の上に立ってるらしい。上等だぜ。てめぇもブッ殺してその屍の山に積んでやるよ」
天野は俺の胸ぐらを掴んだ。
「俺は、お前を許さない!」
「知らねえよ。で? いつやるんだ? 俺ぁ今からだって構わねえぜ」
天野は俺を睨みつけて、噛み締めた奥歯を鳴らした。
「土曜の夕方、17時、学校の音楽室を押さえた。俺の動画チャンネルから生配信する。アンケート機能を使って視聴者に投票してもらう。どっちのピアノが良かったか」
俺は嘲笑った。
「なるほど。てめぇの庭なら、俺に勝てると思ったか。面白え。やってやるよ」
真樹が露骨に舌打ちをした。
「勇吾、こうなるともう、アンタ止まんないでしょ。
いいわ、天野くん。その代わり、機材やスタッフの調達はこっちで仕切る。半端なもん流してもらっちゃ困るから」
「ああ、助かるよ真樹さん。呉島側の告知も好きにやってくれていい。何せ、俺のチャンネル登録者は30万人いるからね。どれだけの票田を確保できるか見ものだよ」
それを聞くと、真樹の表情から、もともと希薄だった天野への関心が、ふっと消えたように見えた。
「アンタ、呉島には勝てないわ。舐めてる。音楽も、呉島も、聴衆も。
デカい口叩いて、結局、顔とキャラクターでついたファンには音楽の善し悪しなんかまともに評価出来ないと思ってるでしょ。悪いけど役者が違う」
天野はそれに答えなかった。
ふと身を翻した真樹の表情に、俺は違和感を覚えた。
こうなることを最初から知っていた、いやむしろ、予定されていた作為を完了した、そんなふうに見えた。
真樹は車のドアを開け、俺に声をかけた。
「勇吾、アンタはどうする? これから学校って感じでもないんじゃない?」
「いや、俺は寧々に聞くことがある」
「もういいでしょ、その女。何言ったところで、嘘か本当か分かりゃしない」
「それを信じるか信じねえかは俺の決めることだ」
真樹はフンと鼻を鳴らして車に乗り込み、走り去って行った。
それを区切りに、人だかりからポツリポツリと人が離れて、校舎の玄関に吸い込まれて行った。
その人混みに紛れて天野もいつの間にか姿を消し、後には俺と寧々だけが残された。
雨粒が一つ、重苦しい曇天から俺の頬に垂れた。
「下らねえ誤解で無駄なすれ違いを演じるのは御免だ。端的に答えてくれ。
寧々、お前は天野の側についてるのか?」
寧々は最初、こんがらがった事情をどう説明すべきか戸惑うようにおろおろしていたが、俺がたずねると、途端に落ち着きを取り戻して答えた。
「これは、天野 ミゲルと勇吾くんの戦い。私はどちら側でもない。ただ私は私の戦いのために、天野 ミゲルと取引をした」
「必要なことだったんだな?」
寧々はうなずいた。その目には決然とした意志が宿っていた。
「勇吾くんが戦う土曜、私も、雲の上の人たちと戦う。
だから勇吾くん、あなたも、天才ではなかった人たちの音楽と闘志に報いて」
「お前とは不思議な縁があるな。分かった。お前を信じる」
俺たちが玄関のひさしに入った時、背後で雷鳴が轟いた。
そしてそれを呼び声に、烈しい雨が降った。
✳︎
教室に入ると、俺は真樹にメールを打って、ヘルシンキのサロンで弾いた時の、観客リストを取り寄せた。
返信があったのは昼過ぎで、ちょうど添付ファイルを開いたタイミングで着信があった。
俺のピアノで、実際に人が死んでいた。とらえようによっては、そういう話だった。
「珍しくもねえ話さ。親の方が熱くなって、子どもがそれについていけなかった。アタシがアンタの担当になって間もないころ、舞台裏でアンタに縋り付いてきたヤベェ女、覚えてねえか?」
「ああ……」と俺は声を漏らした。
「死んだのはその女の娘だ。天野 ミゲルと同門だった」
10歳の頃、勝ち過ぎたことと、客席に向かって中指を立てたことを理由に、大半のコンクールを出禁になっていた時期だ。
バラキレフの『東洋幻想曲《イスラメイ》』を弾き終え、控え室に戻ろうという途中だった。
イヤに陽気なナレーターが、この曲は、音楽史上初の職業指揮者であり、高名なピアニストでもあったハンス・フォン・ビューローが「史上最も難しい」と評した曲で、ちなみにビューローはリストの娘コジマと結婚した後ワーグナーにその妻を寝取られた、とかいう下世話な蘊蓄で笑いをとっているのを遠巻きに聞いていると、どこからどう入って来たのか、一人の女が制止する真樹や警備員を振り払って、“初めまして”も“こんばんは”もなく俺にあれこれと質問をした。
一日にどれくらいピアノを弾くか。
指の練習はどうしているのか。
この作曲家の楽譜はどの版を使うべきか。
楽曲分析は何を参考にしているか。
ピアノを弾かない時間は何をしているのか。
あまり矢継ぎ早にまくし立てるので、俺はどの質問にどのタイミングで答えればいいのか困惑したが、その女の質問は要約すれば、「どうしたら呉島 勇吾になれるのか」ということだった。
俺はそうした質問に、まとめて答えた。
トイレや風呂に行く以外、腕と指が動く限り弾く。右手でパンを食っているなら左手で。自分がいつ眠っているのかは自分でもよく分からない。ベンチタイプの椅子を使うと眠った拍子にひっくり返って頭を打つので、背もたれのある椅子に替えた。目が覚めた時押さえている鍵盤で何の曲をどこまで弾いたかわかるので、その続きを弾く。ずっとそうやっていると、その内どうしても腕も指も動かなくなる時があるので、仕方なく譜面や作曲家の伝記を読む。それで上手くなるかは知らないが、俺はそうしているし、そうしたくないなら辞めたらいいと思う。
その女の質問に対してこの答えが適当だったか、俺にはあまり自信がなかったが、女はいたく感激したらしかった。
言い訳が許されるとすれば、その女が俺の言ったことを自分でやるならともかく、自分の娘にやらせようとしているなんて俺は知らなかったし、事実俺はそうやって生きていた。────
「クソ。俺にどうしろってんだよ」
「宣言通りブチ殺せよ。アンタに出来ることなんてそれだけさ」
俺は電話を切って、それから吐き捨てた。
「分かったよ。これも、弾きゃいいんだろ」
雨は止みそうもなかった。