1-7.ここではない、どこかへ/呉島 勇吾
『フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール』といえば、日本の素人でもある程度通じるのだという。
俺はこの4月、ワルシャワでその事前審査を受け、4月30日の今日、結果を聞いた。
『通過』だ。しかし、俺の心は、ちっとも晴れやかではなかった。
まず、俺の得意とするのはリストやプロコフィエフであり、ショパンではない。もちろん弾くことはできる。何をどうすべきかも分かる。だが、俺自身が、ほとんどショパンの楽曲に共感したことがないのだ。
これを受けたのは、ひとえに事務所の方針だった。
「今時、正確な演奏が聞きたいだけなら、CDを聞けばすむ。では聴衆がコンサートに足を運ぶ動機は何か、それは、一つには『タレント性』であり、もう一つには『根拠』だ」マネージャーの柴田 真樹は、俺に向かってそう言った。
聴衆は、3歳から海外に渡り、5歳でデビュー、6歳の頃にはハンガリーの音楽学校に入学、11歳でパリの国立高等音楽院へ進むと、これを飛び級で卒業した天才児、そのストーリーを聴きにくるのだ。
そして、このストーリーは、都度アップグレードされなければならない。俺が天才であるという根拠を、分かりやすい形で聴衆に示すこと、つまり、俺のストーリーに『フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール、ファイナリスト』の一文を付け加えろ、というのが事務所からのオーダーだ。
この国では、エリザベート王妃国際音楽コンクールも、チャイコフスキー国際コンクールも、そこら辺の奴には通じない。
だから、この国でこれまでと同等に稼ぐには、ショパン・コンクールの少なくともファイナルに残ることが必須なのだという。
しかし、あの会場で俺がやったことといえば、審査員のご機嫌をうかがうように、人好きのする歌い方や、呼吸の仕方を演じて見せただけだ。
おそらく俺は、本選の一次か二次で落とされる。そんな上っ面の表現は、プロの審査員の耳を欺きおおせるものではないし、俺の本気のショパンは彼らの好みに合わないだろう。
事務所の社長や真樹は、それを分かっている節がある。俺がピアノで飯を食っていくためには、事務所の力が不可欠で、事務所はその事実を盾に、俺を意に沿わせようとしている。
大方、俺の鼻っ柱をへし折って、扱いやすくしようとでもいった腹だろう。
先日の及川の言葉が、耳の奥に残っている。
── 「特別な才能を持っていると、周りの人間が下らなく見えますか」──
「クソったれ!」と声に出して地面に唾を吐く。
何が特別だ。てめぇに、俺の何が分かる。
真樹の迎えを断って、川沿いの道を歩いている時、川のほとりで遊んでいるガキの笑い声や、ババァの自転車のチェーンの音、車のクラクション、全てが癇に障ってブチきれそうだった。
川のせせらぎの音は俺の心をちっとも癒しやしなかったし、おまけに靴の中に砂利まで入る。
川を渡る橋の手前に差しかかった時、その橋の下、暮れかけた夕日が落とす影の際に、座り込んでいる女を見つけて足を止めた。その大きな身体と、横に置いた竹刀袋ですぐに分かる。篠崎 寧々だ。大きな身体を丸く縮こまらせて、川が流れていくのを眺めている。
俺はその時、どうしてそうしようと思ったのか、上手く説明が出来ない。たまたま、河川敷に降りていく階段が、ちょうどすぐ側にあったからかもしれないし、鬱屈した気分を共有するには、おあつらえ向きの相手だと思ったからかもしれない。
とにかく、俺は河川敷に降りる階段を足早に降って、彼女の背に声をかけた。
「よう」
彼女は怯えるように一瞬背をビクッと慄かせて、振り向いた。
「呉島くん……」
「あまり、元気そうではねえな」
俺がそう言うと、彼女は力なく笑った。
「傷、治って良かったね」
俺は自分の頬や鼻先に手をあてる。
「ああ、お前が絆創膏貼ってくれたからだな」
「今思えば、あんなの、全然意味なかった。ほっぺも耳も怪我してたのに、鼻だけ貼っても」
俺はそのことについて、少し考えた。
「いや、あれは多分、俺にとって意味があった。それもかなり大きな」
「鼻に絆創膏を貼ったことが?」
俺は彼女の隣に、微妙な距離を空けて、腰を下ろした。
「俺ぁな、どこに行ってもトラブルばかり起こしてきた。俺の周りにゃ、俺のピアノで金を稼ぐことしか考えてねえようなヤツが多すぎたし、それと同じくらい敵意を向けてくるヤツも多かった。しかも悪いことに、俺は相手のそういう態度に敏感だった。
お前が俺の鼻に絆創膏を貼ってくれた時、俺はそういうヤツらのことを、ほんの少しの間、忘れることができたよ。
きっと、意味なんかなくても、お前が俺に、何かをしてくれようとしたのが分かったからだ」
「私も、怪我をしたことがあるから」と彼女は言った。
「足……膝か?」と俺は尋ねた。
彼女は目を丸くして、俺の顔をのぞき込む。
「どうして……分かるの?」
「お前と初めて会った時、足音のリズムが、ほんの少し、歪に感じた」
「すごい……」と言ってから、彼女はうつむいた。「でも、もう治ってるの」
「そうか」とだけ言って、俺は水面を眺めた。彼女にとって、それが必ずしもいいことではなかったのだと俺は思った。俺にとって、コンクールの予備審査を通過したのが必ずしもいいことでなかったのと同じように。
「私ね、今日、部活サボっちゃった」彼女はほとんど泣き出しそうな顔で、そう言った。
辛気くせえ女だ、と俺はため息をついた。俺と一緒で、と。
「なあ、今から、どっか行っちまわねえ?」
「どこか……って、どこへ?」
「さあ。こういう場合、一体どこへ行ったらいいのか、教えてくれよ。クソみてえなことしか起こらねえような時、そういう気分を忘れてパーッとやるにはどこへ行ったらいいのかを」
彼女はその場にうずくまったまま、膝の間に顔をうずめた。
「クレープが食べたい」と彼女は言った。
「クレープ? いいじゃねえか」
「チョコと、バナナのヤツ。それと、パンケーキ」
「最高だな。カマしてやろうぜ」
「でも、お金が、5百円しかない……」その声からは、それが彼女にとって、どれだけ悲しいことなのか、ありありと伝わってきた。
「おいおい……俺を誰だと思ってんだ。プロのピアニストだぜ? プロってのはな、それで金をもらってるって意味だ。5歳のころからだぜ。クレープ? パンケーキ? まるで相手にならねえわ。ダースで食わしてやる。ついて来い」
俺はそう言うと、彼女の手を握った。彼女は顔を上げて俺を見る。
「そんなに食べられない……」
「言葉のアヤだよ。行くぜ」