8-4.オンディーヌ/呉島 勇吾
鍵盤から指を離した時、真樹は俺に抗議した。
「おい、てめぇナメてんのか。そりゃルドヴィカ・ゲレメクのコピーだろ」
俺は口の端を吊り上げた。
フレデリック・ショパン『舟歌Op.60』
俺は動画で観たルドヴィカをそっくり真似て、これを弾いた。
「どうだ。完コピだろ?」
「誰がんなことしろっつったよ。アタシはアンタのショパンを聴かせろと言ったんだ」
「それはアンタがピアノを弾くことが条件だ。俺はそう言った。それに、フロアがピザ臭くて気分が乗らねえ」
「てめぇも食ったろうが」
俺は椅子から立ち上がって、真樹の手首を掴んだ。
「俺はな、ここのところ、アンタのことについて色々と考えたよ。アンタはマネージャーとしても営業マンとしても、優秀なんだろう。感謝もしてる。
だけど、だからこそ、こんな手をした女を俺の小間使いにはしておけねえんだ。これは、ピアノ弾きの手だよ。今まで、気付けなくて悪かった」
「やめろ!」真樹は俺の手を振り払って声を荒げた。「てめぇ、今さら人格者気取りか? アタシがお前に求めてんのはそんなことじゃねえ」
「俺はな、やろうと思えばアンタの求めるようなピアノを弾けるよ。だが、それは今俺がやりてえ音楽じゃねえ」
「だったらなんだ? てめぇのやりてえ音楽ってのは、一掴みいくらの安っぽいラブソングみてえな、甘ったるい音楽か? 下らねえ」
「アンタは、自分がなれなかった理想のピアニスト像を俺に重ねようとして、そのズレにイラついてるだけじゃねえのか?」
真樹は俺の制服の襟を掴んで、近くのソファに引き倒した。振り上げた手を固く握り、そして俺の頬をかすめるように、ソファのクッションに叩きつけ、覆いかぶさるように俺の両手を押さえつける。
「お前が5歳から10歳までの間、時々こっちのテレビで演奏が放送された。知らねえだろ」
「知らねえよ。俺は向こうにいた」
「その間、普通4倍とか5倍とかある芸大ピアノ科の倍率が下がり続けて、お前が10歳の頃にはとうとう定員割れを起こした」
「関係ねえだろ。アンタはその頃、もう24とか5とかだった」
「23だよボケ」
「ウッソだぁ。アンタ今29だろ? 俺今15だぜ。5年前の話だろ?」
「アタシは4月生まれなんだよ。アンタ10月生まれだろ。今は受験の2月とか3月の話をしてるんだ」
「誤差にしがみついてんじゃねえよ」
「うるせぇ。それだけのピアニストを、お前は殺してきたって話だよ。
人間ってのはな、もしかしたらなれるかもしれないものに憧れるんだ。そのレベルを、お前は軽く超えてた。
お前のピアノを聴いた時、ピアニストが思うのは『私もああなりたい』じゃない。『私はもう要らない』だ。
何時間もピアノの前に齧り付いて、地獄みてえな練習の先が、悪魔に喰い殺されるだけの未来だぜ。想像出来るか? この救いのなさが」
「だったらどうするよ。ここで俺を殴りゃ気が済むか? ならそうすりゃいい」
「そんなもんで済むわけねえだろ!」
真樹は俺に馬乗りになって襟ぐりを強く引き寄せ、それから、押しつけるように唇を重ねた。
一瞬、何が起きたか分からなかった。
自分の唇を貪るようにしている女のことを、なぜ彼女はこうしているのか、彼女は今後どういう人生を歩むのかと、イヤに客観的に考えた。
それからふと我に返って真樹を押し返し、ソファの背もたれか何かを掴んでもがいた。
「脈絡がねえんだよ。最低限、順序ってもんがあんだろ」
だが、真樹はそれをさらに上から押さえつける。ほのかに、化粧と香水の匂いがした。
「これが大人の順序だよ、勇吾」
「何がしてえんだ、アンタは」
「アタシも正直迷ってる。なあ、どうすりゃいい? アタシはアンタの喉笛を噛み切りたくもあるし、めちゃくちゃにキスしてえとも思うよ。
気が狂いそうな練習の先に、それでも何かあるはずと夢見ていた希望を摘み取った悪魔だ。憎いだけならとっくに殺してるさ」
俺はもう一度真樹を押し退け、身をよじって抜け出すと、立ち上がって身構えた。
「それが、どうしてこうなるんだ。俺に彼女がいるのは知ってんだろ」
「関係あるかよ。ベートーヴェンもリストもドビュッシーも、女関係はメチャクチャだろうが。マトモなのはブラームスとラヴェルくらいじゃねえのか?」
「アホか。もっといるわ。大体そいつら死ぬまで独身じゃねえか」
「アンタもそうなりたくなきゃ、ここらでアタシに手ェ出しとけよ」
「そりゃ犯罪だろ。俺が何歳だと思ってんだ」
「関係ねえ。なぁ。理由をくれよ、勇吾。それさえありゃ、アタシは小間使いにだってピアニストにだってなるさ」
真樹はソファに腰を落ち着けたまま、乱れた髪を手櫛で整えると、上目遣いに俺を見つめた。
「理由はテメェの手の中にあるだろうが!」
俺がそう叫ぶと、フロアの入り口にある重い防音扉がまるで木戸のように軽々と、音をたてて開いた。
驚いてそちらを振り返る。
「勇吾くん!」
左手に掴んだ木刀を腰にあてた寧々が、扉を押し開けた右手の小指を柄尻にかけた。
獲物に飛びかかる寸前のネコ科の猛獣のように、真樹を鋭く睨みながら脱力して背を丸め、かかとを軽く浮かせた左足は靴の上からも5本の指で床をしっかり掴んでいるように見えた。
一瞬に色々なことが頭をよぎった。
キスは浮気に入るのか? 相手から無理やりされた場合は?
寧々はなぜここにいる? 部活は終わったのか?
真樹は何を余裕かましてやがるんだ?
寧々ならその位置から一足で真樹の脳天に切っ先が届くか?────
「寧々! 俺は大丈夫だ!」と叫ぶように言った。
お前は人を傷つけてはいけない。
しかし寧々は構えを解かなかった。歯の隙間から、触れれば火傷するような熱のこもった息を吐き、木刀でも一太刀で真樹の首を飛ばしそうな殺気を撒き散らしている。
一方真樹は、ソファからゆっくりと立ち上がると、優雅な動作で会釈をした。
女としての格の違いを見せつけるように。
「これは、篠崎さん。突然のことでご挨拶が遅れまして、失礼しました」
そこでやっと、寧々の居姿から、ふっと殺気がやわらいだ。
構えを解いて、丸めていた背を伸ばす。
しかし、寧々と真樹との間には、形容しがたい緊張感が張りつめたままだった。
「何をなさっていたんですか?」と寧々がたずねる。
「打合せですよ。コンクールが近いので。ウチの呉島が今時点でどれだけのショパンを弾くか、その確認です。それ次第で私は呉島の今後の営業展開を考えなければなりませんから」
嘘ではなかった。それだけに、反論が少し遅れた。
「言い争う声が聞こえました。あなた、勇吾くんに何を言ったの?」
寧々の左手は木刀の身を掴んでいたが、親指が鍔にかかっていた。俺にはその木刀が、鞘に納まった真剣に見えた。その親指で鯉口を切り、腰を引けば一瞬で本身の刀が鞘を走って真樹の肩口を斬りつける、そういう身構えだった。
俺は真樹に視線を送った。(今日はもう帰れ)という意味の視線を。
しかし真樹は鼻先をわずかに逸らして否定する。
そして俺に視線を投げた。(誰が帰るかエロ餓鬼が。アタシを追っ払ってイチャつこうったってそうはいかねえんだよ)という意味の視線を。
「ウチの呉島の気性をよくご存知でしょう? 私がピアノを弾かなきゃ自分のピアノを聴かせないってゴネるんですよ。私は一線を退いた身ですし、まして呉島の前でなんて、とてもとても……」
まるで被害者は私だとでも言うように真樹は首を振ったが、口元には薄笑いが浮かんでいた。
これは音楽と、その商売が分かる者同士の話だ。部外者が首を突っ込む余地はない。真樹の薄笑いはそう言っていた。
俺は短く鼻から息を吸って、それから口をひらいた。
「そうか真樹。俺の見込み違いだった。今後も、マネージャーとして、よろしく頼む」
真樹の目尻が一瞬吊り上がった。
プレイヤーとしての俺を理解出来るというなら、自分もプレイヤーだということを示せ。
俺は真樹を見つめた。
お前は、こんなところにいてはいけない。
真樹は、ごく短い間、視線を右下に逸らし、舌打ちをした。
そして、ピアノの前へと進み、椅子の高さを調整した。美しい仕草だった。
音もなくそこへ腰を下ろし、天井を見つめる。それから目をつむり、静かに息を吸って、鍵盤を叩いた。
モーリス・ラヴェル『夜のガスパール』より第1曲「オンディーヌ」
水の飛沫を一粒ずつ描き出すような、細かい右手の連打の響きが、優雅で幻想的な旋律を形作る。
ラヴェルはフランスの詩人アロイジウス・ベルトランの同名の詩集から着想を得て、中でも幻想的で怪奇性の濃い『オンディーヌ』『絞首台』『スカルボ』の3篇を、ピアノ曲に仕上げた。
俺は10歳の頃、パリのステージでこれを終曲の『スカルボ』まで弾き、以来公のステージに立つのをやめた。真樹がマネージャーとして俺の前に現れたのは、その1週間後のことだった。
これは、ピアニストとしての真樹を殺した音楽だ。
その光景を呆然と眺めていた寧々の指先が、寄る方なく彷徨うように俺の手を探しているのに気付いて、俺はその手を握った。
真樹のピアノは絶えず続く32分音符の水滴を、ごく小さな音で、しかしその一粒一粒が手を伸ばせば触れられるほど鮮明に、そして肌に痛いくらいの冷たさで描き出した。
人間の男に恋をした水の精オンディーヌは、結婚して湖の王になって欲しいと男に頼む。しかし男は人間の娘が好きだと言い、それを断る。オンディーヌは悔やみ、しばらく泣くと、やがてけたたましく嗤い、烈しい雨の中に消える。
真樹のピアノはこう語っていた。
────聴けよ、勇吾。女って生き物は、こういうふうに男を愛し、そして怨むんだ────
俺の首に腕を回して、澄んだ深い水底に引きずり込むように、音量が増した。
それは官能的で美しい、幻想的でいて鮮烈な怨嗟の声だった。