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8-3.野心/篠崎 寧々

「ねえ、君、呉島 勇吾の彼女だったりする?」


 始業式が終わって部活に向かおうとする途中、転校生の天野くんが尋ねてきて狼狽(うろた)えた。


 ちょうど体育館のわきを抜けて格技室へ向かう人気(ひとけ)の少ない辺りで、そういう場所に男の子と2人きりというのはあまり好ましくなかったし、正直に言うと苦手なタイプだった。


 ひとたび心を許せば、クラブだとかフェスだとかいったパーティー・ピープルの群れに放り込まれそうな、そんな(おもむき)を感じる。


「えと……いかにも、私が勇吾くんの彼女ですが……」


「いかにも!」

 天野くんが噴き出すのを見て、変な言い方だったと恥ずかしくなった。

「君、かわいいね。恥ずかしがり屋なのかな?」


「かわっ……! いえ、あのー、ご用件は……」

 自分の顔がどんどん赤くなっていくのが、そこに感じる熱で分かった。私は人見知りで、初対面にはめっぽう弱いのだ。


「ああ、ごめんね急に。今朝、廊下で話してるの見かけちゃってさ。よかったら仲介してもらえないかなって」

 今朝勇吾くんとも話したが、彼らは同じ事務所にいながら、まだ直接会ったことはないそうだった。


 彼の態度は明朗で、一見無邪気にも見えるが、何か裏がありそうにも思えた。


「事務所のマネージャーさんとかは?」と聞いてみる。同じ事務所なのだから、私を通すよりずっと話が早そうなものだ。


「会わせてくれないんだよ。気性が荒くて何が起きるか分からないからって。そんなふうに見えなかったけどなぁ」


 私は少し考えた。

 勇吾くんに新しいお友だちができるのは、喜ぶべきことだ。そういう機会があるのなら、私は進んで協力すべきだとさえ思う。けれど、この陽気な態度の裏に見え隠れする、不穏な空気は何だろう。


「天野くんは……」

 私が口を開くと、彼はすぐにそれを遮った。


「ミゲル! ミゲルって呼んで!」


「えと、その、ミゲルくんは、どうしてこの学校に?」


「それはもう、呉島 勇吾だよ。俺、ピアノで動画配信とかやってんじゃん。同年代でショパコン出るヤツいるってなったら、これは会うしかないなって」


 彼の用件は、要約すれば、勇吾くんと動画サイトで共演したいということだった。


 ショパン・コンクールの出場者で、このところ話題にのぼり始めた『謎のピアニスト』呉島 勇吾との共演は、天野くんのチャンネルにとっても客引きになるし、勇吾くんにとっても宣伝になる。


 言い分はもっともらしかったが、言動がいちいち芝居がかっていて、素直に納得出来なかったし、単純に気乗りがしなかった。


 勇吾くんのコンクールは迫っていて、私たちの時間は限られていたし、これは勇吾くんを好きになってから初めて気付いたことだけど、私はスキンシップに対する欲が中々強くて(マユはこれについて『団地妻も裸足で逃げ出すド淫乱』などと表現したが、さすがに語弊があると思う)、とにかく、いろんな建前を取っ払って本音を言えば、2人の時間を邪魔されたくなかった。


「本人に聞いてみる」と私は言った。これは、いわば保留だった。「私には何の権限もないから、期待はしないで欲しいけど」


「ありがとう。ごめんね、こんな人気(ひとけ)のないところで、不安だったよね」

 天野くんは言った。


 その時唐突に、私は天野くんがその紳士的な態度の裏に隠したものの正体に気付いてしまった。これは、敵意だ。きっと、勇吾くんに対する。


「大丈夫。肉弾戦になれば私はべらぼうに強いから」


 天野くんは声を出して笑った。

「君、実はファイターだね。俺たち、きっと似てるよ」


  ✳︎


 左足から膝をつき、脇に竹刀を置いて、正座する。


 部長が「黙想──!」と号令をかけるのに従って、膝の上に手で輪を作り、目をつむった。


 頭の中の色々な考え事を、『後で考えること』のフォルダに入れる。稽古に集中するための儀式だ。けれど今日は、そのフォルダに入れるべきことが多かった。


 マネージャーさんが帰って来たこと、勇吾くんがピアノを教えてくれること、彼はあと一月もすれば、ワルシャワに飛び立ってしまうこと、そして、天野 ミゲルについて────


 顧問の先生が乾いた音で手を叩くと、部長が「やめ」の号令をかけて、それから礼をした。


 それを受けて、先生が口を開く。


「夏休みの合宿と、このところの稽古には一定の成果があった。中でも大きく成長が見られた部員が何人かいる。そこで、改めて部内選考試合を組んで、この先の公式戦を戦う出場メンバーを再考する。互恵院名物『下剋上戦』だ」


 それを聞くと、私は大きく息を吸い込んだ。血液がいつもより早く循環するように感じた。


 チャンスだ。


 まず団体戦のAチーム、それから個人戦の出場枠を狙う。


 こういう気持ちを、野心というのかもしれない。


 これまでも、剣道で戦うことは楽しかった。勝てば嬉しかったし、負ければ悔しかった。けれど、勇吾くんと出会ってから、私のそういう気持ちはいよいよ抑えがたいほど大きく、強くなっていった。


 彼がそれをもたらしたのではない。元々私の中にあった、そういう気持ちに、彼は火をつけたのだ。


 私は自分の戦場で戦う。


 そして、出来ればその姿を、勇吾くんに見てほしい。彼のピアノが私を時に勇気づけ、時に癒し、時に恋をさせたように、私の戦う姿が、彼を支えてくれたらいい。


 稽古の最後、切り返しを終えると、「マユとネネがいよいよヤバい……」先輩たちの誰かがそう言った。


 元からAチームに食い込んでいたマユは当然として、私もここのところは大分勝ちを積み上げていて、Aチームを脅かす脅威として具体的に認識され始めているようだったが、追い上げているのは私だけではなかったし、何より私にとっては、やはりAチームの壁は厚かった。


 独特の間合い取りでこちらの打突をことごとくいなし、巧みなフェイントで攻めてくる次鋒のキリコ先輩も苦手だし、先鋒のマユは打突のスピードにも磨きがかかって、一度ペースに乗せれば手がつけられない速さだったが、中堅から大将にかけての3年生がとにかく強すぎて手に負えなかった。


 中堅のナオ先輩は竹を割ったような正剣で、小手先の技は一切通用しないし、自身は正面打ちと諸手(もろて)突きだけでとんでもない勝ち数を積み上げていた。


 副将の琴子先輩は部内一の業師(わざし)で、その流麗な返し技を取られた後で、私はいつも自分が立合いの駆け引きで動かされていたのだと気付く。


 そして、この剣道部の部長にしてAチームの大将、北条 彩香先輩。

 地区強豪レベルのこの剣道部において、2年生の頃から全国上位に食い込む選手で、当然個人戦全国優勝を照準に入れていた。

 部内試合では1年の頃から無敗、2年からは全勝、引き分けすらないという突出ぶりで、絶対女王として君臨している。


 彼女の剣道には、およそ特徴というものが無かった。面も小手も胴も突きも打つし、仕掛け技も返し技も同じレベルで使う。

 定規で引いたような正面打ちを決めたかと思えば、反則を誘ってポイントを稼いだりもする。多彩で、クレバーで、隙がないのだ。


「面取れ!」という部長の号令で面を外した時、自分の口角が上がっていることに気付いた。


 楽しい。こんなに強い人たちに、挑戦するチャンスがある。そこで戦い抜いて、勝つことができたら、一体どういう気分だろう。


「黙想──!」

 この号令とともに、また目をつむった。今日の稽古を振り返り、「後で考えること」のフォルダから、一つ一つの考え事を取り出していく。


「やめ!」と再び号令がかかって、礼をする。そして日常の自分に帰ってくると、私は急に怖くなった。


 だって、私の周りには強い人が多すぎる。全然勝てる気がしない。


 怖い。勇吾くんに今すぐ会いたい。そして彼の膝に頭を乗っけて寝そべって、喉をゴロゴロ鳴らしながら、ずるずるに甘やかされたい。


 可愛い可愛いって言いながら、頭をなでクリなでクリして欲しい。


「よし!」と私は誰にともなくそう言って、竹刀を掴んで立ち上がった。


 お父さんが勇吾くんのお家に迎えに行くより早く、私は彼のお家に行こう。そしてべろんべろんに甘やかしてもらうのだ。


 挨拶もそこそこに、素早く制服に着替えると、竹刀袋と鞄を担いで格技室を出た。


  ✳︎


 小走りで駅まで急ぎ、電車に揺られながら、「勇吾くんちに直接行きます」とお父さんにメッセージを入れた。そこからまた小走りで彼の家へ急いだ。


 勇吾くんには連絡しない。「来ちゃった……」っていうのをやるためだ。


 彼の家、地下へ続く階段をそろりそろりと降りて、生唾を飲み込む。これは……ことによると、大変なことになりますよ……。


 分厚い防音扉の横にある、チャイムに指を伸ばしかけた時、その扉の向こうから、争うような物音が聴こえた。


 それから、トゲのある、でも少し幼い怒鳴り声。間違いない。勇吾くんだ。


 私は急いで竹刀袋を肩から下ろし、木刀をつかんで腰にあてた。

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