8-2.戦の支度をする前に/呉島 勇吾
始業式に向かう途中で酒井に声をかけられた。
「この前、また西高とあたったわ」
「勝ったか?」
「余裕のダブルスコア」
俺たちは互いの拳を打ち合わせた。
酒井といえば、夏休みの中頃、俺は酒井と笹森を祭りに誘い、途中で霧のように消えた。
だが、笹森はそこで特段具体的な行動には出なかったそうだ。思いを伝えるとか、強引に唇を奪うとか。
笹森には笹森の考え方やものの感じ方がある。まどろっこしいとは思うがそれはそれでいいのだろう。
そもそも、酒井ほど勘のいい男が、笹森の好意に気づかないはずはないし、笹森にしても、あの面子で祭りに行けば好意が暴露するということはある程度覚悟していたはずだが、あまりそういうことを根掘り葉掘り聞くのも野暮だと気付けるくらいには、俺も人の気持ちを考えられるようになっていた。
「で、どうなの笹森とは」
しかし野暮なことに気付くか否かと、野暮なことを聞くか聞かないかはまた別の話だ。
「どうもなってないなぁ。笹森さん勉強ガチだし、俺も部活忙しいから」と言って、ふと思い出したように続けた。「ユーゴが記者に絡まれた時さ、笹森さん、急に法律の話とか持ち出して記者追っ払ったじゃん。彼女、裁判官目指してんだって」
「アイツが裁判官か……この国は住みにくくなりそうだ」
酒井は笑った。
酒井も笹森も、それぞれの戦場で戦っている。
俺もそろそろ、喧嘩の支度をするべきだ。
✳︎
俺は日本の学校の始業式というのをこの日初めて味わったが、およそ無意味で退屈という面において、ここまで練り上げられた催しが出来るのかと、一種感心に近い感情を覚えた。
始業式を終え、帰り支度を整えると、早々に教室を出た。
夕方、寧々の家族にレッスンをつけることになっている。
電子ピアノを衝動買いしたそうだ。寧々は時々目を見張るような瞬発力を見せるが、彼女のそういう素質も遺伝なのかもしれない。
初めてピアノを触る人に、俺は何を伝えるべきか、練習する曲はどういったものがいいか、不思議とそういうことを考えるのが楽しかった。
俺は、あの優しい家族が、俺のやっていることに興味を持ってくれたことが嬉しいのかもしれない。
しかし、その前にやることがあった。
玄関を出て、校門の横に停まったレクサスの窓を叩く。
スマホを見ていた真樹が、内側から助手席のドアを開けた。
「乗れ」
真樹が俺を助手席に乗せるのは珍しいことだった。
「どうした?」とたずねると、真樹はさっきまで見ていた自分のスマホと、ワイヤレスのイヤホンを俺に差し出した。
そこの動画を見ろという意味だ。
「アンタも、余裕こいてらんないかもよ」
画面はスタインウェイのロゴが大写しになったところで停まっていて、そのピアノを弾いている人間が映っていなかった。
「天野 ミゲルか?」と当てずっぽうに聞く。
真樹が新しく担当しているピアノ弾きで、俺と同い年、動画サイトでの配信を中心に活動しているらしいが、そいつがわざわざこちらに転校して来たせいで、真樹の目を逃れて羽を伸ばしていた俺の自由は終わりを告げた。
「違えよ。あんな三下、眼中にねえわ」
真樹が何か愚痴を吐いたが、俺は構わずイヤホンをはめ、動画の再生ボタンをタップした。
そのピアノ弾きは、背の低い、茶色く長い髪のボサボサした若い女だった。
『舟歌Op.60』
ヴェネツィアのゴンドラ漕ぎの歌に由来するもので、軽快さの中にも哀愁の漂う音楽だ。
「上手えな……」
思わず動画に引き込まれた。音楽が進むにつれ、次々と景色が移り変わって行く。しかしその中心には、特定の思想のようなものが一貫していた。
「ははっ! すげえぞ。何だコイツ!」
『舟歌』は、ショパンの中でも難しい部類に入る。
これはテクニックというよりセンスとインテリジェンスの問題で、叙情的、描写的でありながら形式的でもあり、反復するリズムの中に全く対照的な内容が込められたり、複数のフレーズが何層も重なったりという構造に、分析と解釈が不十分なピアノ弾きは、頓珍漢でまとまりのない、あるいは退屈な演奏をすることになる。
しかし液晶画面の中で丁寧に鍵盤を撫でていくその女は、そうした音楽を完全に掌握していた。
彼女の音楽に一貫しているのは『確信』だった。いやむしろ、自分こそが当事者だと言っているようにさえ聴こえる。
曖昧な証言から事実を探り出そうとしている人たちの間に割り込んで、「いいえ、彼はその時、正確にはこう言ったの」とショパンの仕草や口調を真似て、真実を述べているみたいだった。
「ルドヴィカ・ゲレメク。ポーランド人だ。お前の1個上、今年17歳になった」
「ショパンの姉と同じ名前だ」
ショパンに最初にピアノを教えたのはこの姉で、特にポーランドの舞曲『マズルカ』に関心が高かった。
現存するだけでも実に58曲のマズルカを書いたショパンが、この姉の書いたマズルカを親友に自慢する手紙が残されている。
「誕生日も4月6日、ショパンの姉と同じだそうだ。それで、ショパンを本当に自分の弟だと思ってる」
「ん?」
俺は顔をしかめた。どういうことだ?
「自分がショパンの姉、ルドヴィカの生まれ変わりだとガチで信じてんだと」
「やっべぇな……」
俺は別の意味で警戒心を強めた。
「ショパンにしか興味がねえらしい。シューマンもベートーヴェンもモーツァルトもバッハも弾かない。
弾かせても聴けたもんじゃねえそうだ。だが、ショパンだけはコレだ」
こみ上げてきた笑いが喉の奥を鳴らした。
「なるほど。ショパン・コンクールが『ピアノ弾き』でなく『ショパン弾き』のコンクールだとすりゃ、こいつはその筆頭ってワケだ」
真樹はうなずいた。
「そう。あれは上手けりゃ優勝ってコンクールじゃねえ。『ヴィルトゥオーゾ』って言葉は、そこでは批判の意味で使われる。『音楽の内容を軽視して技巧をひけらかす』って意味でな。
音楽の審査なんてどこでもそうだが、このコンクールは中でも特段、主観的で感覚的だ」
「だからこそ、俺がここで勝つことには特別な意味がある」
「勝てるか?」
「勝つさ」
真樹はフンと鼻を鳴らした。
いつの間にか、車は俺の家まで近付いていた。
「なら、あんたの今のショパンをアタシに聴かせてみな」
家の前で車が停まると、俺はそれに答えず助手席を降りて、シャッターを開け、ピアノが2つ並んだ家の中まで入った。そしてその後を追いすがってきた真樹に向かって、言った。
「いいさ。聴かせてやる。だが、条件がある。2つ」
「条件だぁ? 調子こいてんじゃねえぞ」
真樹は眉根を寄せて俺を睨む。
「まあ、聞けよ。まず1つ、先に飯を食わせろ。俺は腹が減った」
真樹は拍子抜けしたように、表情を緩めてため息をついた。
「何だよ、そんなことか。大仰な言い方すんじゃねえよ」
「いや、マジで切実だ。朝飯を食いそびれた」
俺は冷蔵庫から買い置きの弁当を出してレンジで温めた。
「しょうがねえヤツだ。で、もう一つは?」
「食ったら話す」
「おい、ナメてんじゃねえ。今言わねえと、アタシがその弁当食うからな」
真樹は電子レンジを指す。
俺は顎を突き出して真樹を見下した。
「させるかよ。『ネギ塩豚カルビ弁当』だぞ。俺はこの弁当が世界で一番好きだ。
世の中にある弁当の中で一番って意味じゃねえ。世界中の『ネギ塩豚カルビ弁当』が好きなヤツの中で、俺が一番って意味だ」
「豚カルビだか牛サガリだか知らねえけど、関係ねえんだわ。最後まで条件も聞かねえで食わすわけにはいかねえっつー話だよ」
「おいコラ、真樹てめぇ、牛サガリとか、はるか格上を引き合いに出してんじゃねえよ。話が変わってくんだろうが」
真樹は聞こえよがしに舌打ちをする。
「だから知らねえんだわ、マジで。クソッ……てめぇのせいでアタシまで腹減って来たろうが。おい、夜、焼肉行くぞ」
「だから夜は予定あるんだって。1人で行けよ」
「てめぇブッ殺されてえのか。アラサー女が1人で焼肉食いに行くってのが、どういうことか分かって言ってんのか? 全部諦めたと思われんだろうが」
「それこそ知らねえわ。だったら適当になんか買って来いよ」
「妥協した上にわざわざ外出たら完全に負けだろ。もういいわ。てめぇその弁当半分よこせ」
「ふざけんじゃねえぞ。端っこのたくあんでギリだわ」
電子レンジが鳴った。それはいつもと同じ、間抜けで安っぽい響きだったが、この瞬間の俺と真樹にとっては、試合開始のゴングと同じ意味合いを持っていた。
「よっしゃ、クソガキ、今日こそコロス!」
「やってみろや、クソババァ!」
額を突き合わせて睨み合う。と、その時互いの腹が同時に鳴った。
俺は途端にバカバカしくなった。
「もういいよ。半分やるわ」
「別に本気で欲しかったわけじゃねえ。ピザでも取るわ。てめえにはやんねー。クソして寝ろ」
「あぁ?」
「もういいわ下らねえ。その弁当半分寄越せ。ピザ半分やるから」
といったところで俺たちは和解したが、ピザの注文でまた揉めた。
結局それぞれ食いたいものを頼んでシェアすることで一応の合意をみたが、弁当を半分ずつ食ってから配達に来るまで大分待たされた。
「で、結局、何だったんだよ、条件って」真樹が呆れたような調子で聞いた。
俺はソファの背もたれに沈み込んだ。
「真樹、あんたピアノ弾けよ。それが条件だ」
真樹はため息をついた。
「何言い出すかと思えば……アタシはもう、ピアノは辞めた。この話はそれで終わりだ」
「いいや、終わってねえ。ナメんじゃねえぞ。手ぇ見りゃ分かんだよ。アンタの手はピアノを諦めたヤツのそれじゃねえ」
ピアノも身体活動である以上、練習すれば筋肉はつくし、やめれば落ちる。手を見れば、上手いか下手かはさておき、練習の程度くらいは分かる。
「まぁ、考えとくよ」と真樹は言った。
俺は食い下がろうとしたが、その時ちょうどピザの配達が来たことで、話はうやむやになった。
いつも真正面からぶつかってきた真樹が、話をはぐらかしたことが、俺は寂しかった。