8-1.碧い目の男/篠崎 寧々
私の誕生日、勇吾くんは1枚のCDをくれた。
彼はささやかなお祝いの言葉とともにそれを渡すと、そそくさと帰ってしまった。
CDのジャケットは真っ白で、写真もイラストも無かったが、ケースを開くと、彼の細くとがった字で、曲目とそれを聴くべきシーンがびっしりと書き込まれていた。
「楽しい気分になりたい時」「上手く寝付けない時」「寂しい気持ちの時」「勇気が必要な時」……──
これは、私だけに向けられたものだ。それが伝わって、すごく嬉しかった。
音楽はいつもスマホで聴くから、CDプレイヤーを探さなければならなかったが、ほとんど使われていないコンポがリビングのシルバーラックにあって、そんな目立つところにあったものが、これまでその存在を忘れられていたことに少し驚いた。
CDを入れて、トラック数が表示された時、私はおや? と首をかしげた。
ざっと数えた曲数と、数が合わないように思えた。
改めて、CDの裏ジャケットに書かれた曲目を数える。やはり、1つ合わなかった。
書き忘れか。それとも、何か特別な意図があるのだろうか?
私は少し考えたが、一度疑問はわきによけて、まずはそのCDを聴いてみることにした。
【はじめに】
・『イギリス組曲第3番BWV808』より
「プレリュード」
ヨハン・セバスティアン・バッハ
スピーカーから音が流れた時、「あ……」と声が出てからそのことに気付いた。
──それぞれのメロディが、対等に独立しながら調和する──
彼の言っていたことは、これだと思った。
不思議な体験だった。
それは雪の結晶みたいに、計算され尽くしているようで、しかしまるで人の手によるものではないような、自然で幾何学的な美しさだった。
彼のような、荒々しく激しい気性の人が、どうしてこうも優雅で、理性的で、言うなら完璧な音楽を、それでいて淡い色のクレヨンで描かれたような暖かさで弾くことが出来るのだろう。
「不思議ねぇ……」
お母さんも、スピーカーから流れる音楽に耳を傾けながら言った。
「素敵だし、簡単そうではないけど、あれだけ派手なテクニックを持った人が、一番最初に選ぶ曲には思えない」
私はそれを聞くと、胸の内側が温かくなった。
メッセージがあるからだ。
あと一月もすれば、彼はワルシャワへ飛び立つ。別々の場所で別々のことをしていても、私たちは調和している。対等に、それぞれの物語の中で、しっかりと歩みながら。
彼はそうありたいと願っている。そして、その願いをこうやって表現した。まるで、音楽の神様に祈るみたいに。
✳︎
夏休みは振り返ればあっという間だった。
始業式の朝、私は勇吾くんと一緒に学校に行きたくて誘ってみたけど、9月の下旬に帰るはずだったマネージャーさんが、どういうわけか戻っていて、また送り迎えの日々に戻ってしまうのだそうだった。
私はそれを残念がってはいけないのかもしれないけれど、正直に言えば泣きそうだった。
いいもんね。どうせ明日からは朝練だし、と半ばふくれながら教室に入り、少しして朝のホームルームの時間になると、担任の先生は、転校生の男の子を一人連れてきた。
教室にどよめきが起きた。
緩くカールした栗色の髪と、緑色の瞳をした、絵本の中から抜け出してきた王子様みたいな正統派のイケメンだった。
「東京から転校してきた天野くんだ」
もう少し何かあってもいいのではないかと疑問を感じるほど、担任の先生が簡潔な紹介をすると、彼は先生の合図も待たず教壇に立って自己紹介を始めた。
「みなさん、おはようございます。天野 ミゲルです」
彼は黒板にチョークで自分の名前を横書きに書くと、最後にハートをつけた。
「日本とポルトガルのハーフで、音楽と映画が大好き。3歳からピアノを習ってて、去年は東京のジュニアコンクールで優勝しました。映画のBGMとか、J-POPをピアノで弾く動画配信もやってます。
最近、この学校にいる呉島 勇吾くんと同じ事務所に所属しました。それから……」と続ける。
心臓が、一拍強く脈打った。と同時に、色々なことが一度に理解できた。
先生の紹介が不親切なくらい簡潔だったのは、天野くんが胸焼けするほど自己主張の強い性格だからで、勇吾くんのマネージャーが東京へ行ったのは、仕事を減らした勇吾くんの代わりに彼の担当になったから、そして戻ってきたのは彼がこちらに引っ越してきたからだ。
ポケットのスマホがブブッと震えて、机の下でこっそり見ると、マユからだった。
「転校生の印象送れ」
さすが、マユは耳が早い。
「正統派王子なれど、ややチャラし」と私は返した。
「至急接触。紹介せよ」
ホームルームが終わると、彼の周りには人だかりができた。
過剰にちやほやされるのも、本人にとっていかがなものかと心配したが、彼はそういう状況を楽しんでいるようにも見えた。
マユからは紹介の指令が下っていたが、彼を取り囲む輪の中に入り込むには、私は身体が大きすぎたし、気が小さすぎた。
諦めて教室を出ると、その廊下に勇吾くんがいた。
「おはよう」と声をかけた。
「ああ、おはよう」勇吾くんは優しく答えてくれたけど、少し、機嫌が悪そうに見えた。
「今朝ね、転校生が来たよ。勇吾くんと同じ事務所だって」
「ああ、聞いてる」
勇吾くんは顔をしかめた。
「会ったの?」
「いや、マネージャーから聞いた。何の用か知らねえが、そいつのせいでマネージャーが帰ってきちまった」
やっぱり、と私はうなずいて、本題に入った。
「ところで、実は相談が2つほどありまして……」
「何だ?」
「私、試合がね、10月にあるの」
勇吾くんはまた顔をしかめた。
「マジかよ。ワルシャワだわ俺」
「うん。それでね、何か、『ガンバレ』的な、メッセージが欲しくて」
「当日にってこと?」
「そう」
「分かった。任しとけ。ポーランドの時差はマイナス7時間だから、夜中の12時に送れば、朝の7時に届くはずだ。さすがに早いか?」
「ううん。十分。本当に、一言でいいので」
「分かった。それと、もう一つは?」
「それが、ウチの家族がね──いや、私もなんだけど、ピアノに興味持っちゃって、弾いてみたいなって」
勇吾くんは、それを聞くと目を細めた。
「へぇ……」
私は急に不安になって、取り繕うように言葉を並べた。
「いや! もちろん、勇吾くんみたいになりたいってわけじゃなくて、簡単な曲でも、ちょっと弾けたら面白そうだな、みたいな……。勇吾くんがそんな半端な思いでやってないのは知ってるから、こんなこと、相談するのも失礼かもしれないけど……」
「あのな、寧々……」と名前を呼ばれて、私は少しビクッとした。
「あんまり、そういうふうに気を使わないでくれ。俺は確かにその筋じゃ、鬼だ悪魔だって言われちゃいるが、ピアノ弾いてるヤツを皆殺しにしようとしてるワケじゃねえ。
お前にだけは、『プロのピアニスト』って感じに扱われたくねえんだ」
やってしまった、と思った。確かに、こういう遠慮は反対に彼を寂しい気持ちにさせるのかもしれない。
「ごめん、私……」
「いや、いい。でも、そういや楽器がねえだろ」
「それが、ほとんど衝動買いで、電子ピアノを買ってしまいまして……」
「おぉ……思い切ったな、じゃあ、教えに行くよ。俺で良ければ」
「え? 勇吾くんが来てくれたらみんな絶対喜ぶけど、さすがにそこまでは……」
「俺はお前の家族が好きだ。かえって迷惑か?」
「そんなワケないよ。でも、勇吾くんは練習とか、いいの?」
「コンクールのことを言ってるなら、俺は必要さえあれば、全ての課題曲を今弾ける。
それにな、実は俺にとっても、何か発見があるかもしれねえと思ってるんだ。
ピアニストとしてのショパンってのは、大きいホールで演奏することを好まなかった。
じゃあ、何をしてたかっつーと、貴族なんかが集まる小さいサロンだとか、自宅でピアノを弾いた他は、もっぱら人にピアノを教えてた」
そうか……。私は改めて、ため息に近い感嘆を覚えた。勇吾くんはピアニストの中でも、完全に規格外の存在で、彼に必要なのはピアノの練習ではなく、感情の体験なのだ。
少なくとも彼はそう考えている。
そしてきっと、私と同じように、彼がワルシャワに行くまでの限られた時間を、大切に過ごそうとしているのだと思った。
私は、ちょっとした予感から、その場でお父さんに電話をした。
「勇吾くんが、教えに来てくれるって……」
私がそう言い終わらないうちに、お父さんは電話越しにも血相をかえて「今日! 今日の夕方は?」とまくし立てた。
「え、まあ、今日は始業式だから部活も早く終わるけど……」
「迎えに行く! 呉島さんの予定聞いてみて! ご迷惑じゃなければ!」
声が漏れていたみたいで、呉島くんはOKサインを見せる。
「なら、俺の家に来るといい。本物のピアノが弾ける」
私はちょっと初心者向けの曲を聞いてみようというくらいのつもりだったのが、あれよと言う間に話が進んで、その展開の速さに怯んだ。
そして、勇吾くんが人にものを、それもピアノを教えるというのがどういう感じなのか想像して、身震いした。
──「このド下手クソ! これしきのことも出来ねえクズが、よくピアノに触ろうなんて思ったもんだな! クソして寝ろ!」──
このくらいのことは覚悟した方がいいかもしれない……。