7-9.ピアニストたちの亡霊/呉島 勇吾
電車で空港まで45分、それから飛行機で40分かけて羽田に着くと、ちょうど日の沈んだころだった。それぞれの乗り物に乗っていたのはたいした時間じゃないのに、待ち時間が長くて辟易した。
空腹を感じて案内板から飯屋を探し、3階の蕎麦屋で天丼を頼むと、俺はスマホで店の写真を撮って寧々に送った。
「羽田に着いたぞ。俺はこれから晩飯を食う。
海鮮天丼を頼んだ。来たらまた送る」
すぐに返信があった。
「天丼いいな。私はね、かぼちゃの天ぷらが一番大好き
こっちは、部活が終わって帰ってきたところだよ」
それから、写真が送られて来た。
上下白の道着袴で、恥ずかしそうにピースサインを鼻先に出し、目は横に逸らしている。
「次の試合は応援に行く」
そう送ってスマホをポケットにしまうと、ちょうど天丼が運ばれてきた。
丼からはみ出る大きな天ぷらと、甘辛いタレは、なんとなく彼女を彷彿とさせたが、そのことは言わないでおいた。お前は天丼に似ていると言われて喜ぶ女はあまりいないように思えたからだ。
✳︎
羽田の国内線第2ターミナルに乗り付けたレクサスは、後部座席に俺を乗せて首都高を抜ける。
「あんた、ちゃんと飯食ってんの?」
ハンドルを握りながら、真樹はそう言った。
「ああ、食ってるよ。日本はいいな。そこら辺のコンビニやスーパーで売ってる弁当が普通に美味い」
真樹はフロントガラスを睨んだまま顔をしかめる。
「ちゃんとしたもん食えよ」
「さっきは海鮮天丼を食ったぞ」
「は?」
「海鮮天丼だよ。エビとか、魚……何だあれ、アジ? とかが乗ってる」
「そうじゃねえよ。あんた飯食ったの?」
「ああ、腹が減ったからな。俺は腹が減った時には、飯を食うんだ」
「当たり前だろ。ナメてんのか」と真樹が言うので、俺は首をかしげた。
俺が空港に着いたのはちょうど日の暮れるころ、世界中の誰もが晩飯を意識し始める時間帯で、俺が腹を空かすのは何も不自然なことではない。
俺だって真樹が突っかかってこなければ、腹が減った時に飯を食うなんて当たり前のことを説明するつもりはなかった。
「そうじゃなくて、何勝手に食ってんだよ」
「なんでアンタの許可が要るんだ」
「お前よー、久しぶりに会って、時計見たら飯時だわ。じゃあ『一緒に夕食でも』ってなるだろうが。普通はよー」
「……謎が謎を呼ぶ」
「難しいことは何も言ってねえんだよなぁ……」
真樹は大袈裟にため息をついた。
ルーム・ミラー越しに見えた彼女の目には、化粧で隠してはいるがクマが透けて見えた。
「アンタこそ、やつれたんじゃねえのか?」
「あのジジィ、ロクでもねえのばっか拾ってきやがる。スタジオが空いたのもな、今担当してんのがドタキャンしやがったからだ」
「アンタの毒舌に耐え兼ねたんだだろ」
「ちげぇよ。動画サイトの収録とカブったんだと。ナメやがって。
ソイツな、アンタに文句垂れてたぜ。アンタの動画がバズったせいで、ソイツの動画の視聴者が減ったって。土俵が違うっつーのバカが」
「何でそんなヤツ拾ってきたんだ、あのジジィは」
「親が金持ちなんだと。ちょっとしたハコ押さえて集客してやれば、ハコ代から事務用品まで丸ごと請求書が通る」
つまり、そいつと事務所の契約は、俺と同じく集客やコンサートのセッティングを代行する業務委託契約だが、俺と違うのは、そいつはただ人前に出て目立つことが目的で、金は客じゃなく親から出るということだ。
「違う世界の住人だな。悪いが興味がねえ」
「ああ。ただの愚痴だよ。それよりアタシは腹が減った。付き合え」
「ああ? だから俺は食ったって。ピアノ弾きてえんだけど」
「うるせぇ、知るか。アタシががっつり肉食ってる横でパフェでもつついてろボケ」
首都高を駆けるレクサスは唸るようなエンジン音をあげ、ハンドルはいつもよりキツかった。
それから適当なファミレスに入り、飯を食う真樹の向かいでパフェを食って、ホテルに着いた。俺はその都度寧々に写真つきで連絡を入れ、部屋に入ると電話をした。
今日あったことや、2人で行きたい場所の話をした後で、寧々は「勇吾くんって、意外にマメだね」と言った。
俺は2人のこの先のことを考えながら、「離れていても、お前に不安な思いをさせたくねえ」というようなことを説明した。10月には、いや、正確に言えば9月の下旬から、俺はワルシャワに飛ぶ。
それまでの間、俺が彼女に残せるものは何だろう。俺はこのところ、いつもそういうことを考えていた。
夜は眠れなかった。俺はサイド・テーブルに五線紙を広げて、一晩中、そこに音符を綴った。
✳︎
真樹がスタジオをとっていたのは、その翌朝からだった。
前乗りしなければならなかったのはそのためだ。
スタジオに入った時、そこに待ち構えていたレコーディング・エンジニアに、俺が敬語を使いこなして慇懃に挨拶するのを、真樹は喋る犬でも見るような、驚愕の視線で見つめた。
俺はそこで、2時間分程度の収録をした。一度通しで弾き、録ったものを聴いて機器やピアノのクセを掴むと、同じものをもう一度弾いて、3枚分の原盤を作った。
エンジニアにとってはつまらない仕事だろうと俺は軽く詫びたが、彼はこれだけ楽なレコーディングで同じ金がもらえることを喜んでいたみたいだった。
このエンジニアというのがなかなか仕事の早い男で、この内容ならば1時間もあればマスタリングは終わるというので、俺と真樹は同じビルに入っている喫茶店で待った。
彼女は不機嫌だった。
地下の喫茶店でコーヒーをすすりながら、しきりにタバコを灰皿の縁にとんとんやった。真樹がタバコを吸うのを見たのは、初めて彼女に会った時以来のことだった。
「女とは、上手くやってるらしいな」と言うので、俺は思わず顔をしかめた。
俺は寧々と付き合い始めたことを、真樹に話したことはない。
「女?」と訊き返す。とぼけたというよりは、単に不思議だった。
「気付いてねえとでも思ってたのか? 日増しにウキウキしやがって、初恋に浮かれるイカ臭え童貞野郎の臭いで鼻が曲がりそうだったぜ」
「品性を母親の子宮に忘れてきたのか?」
「うるせえわ。思えばこの国に来て以来、アンタの音はどんどん変わってた。気持ちが音に出るなんざ、そんなもんオカルトだと思ってたが、まあ、そういうこともあるのかもな」
「結局、弾いてるのは人間だ。弾いてるヤツが出したいと思った音が出る。それが出来るヤツがピアニストだろ」
真樹はそれを聞くと、タバコを一口大きく吸って、灰皿に押し付け、上を向いてまた大きく煙を吐いた。
「今日の演奏な、まあ、いい出来だよ。売り物にはなるだろうね。女も喜ぶだろう。だが、アタシは嫌いだね」
「そうか」とだけ答えた。
「聴いた者を地獄に引きずり込むような、刺々しくて毒々しい、だが人を惹きつけてやまないアンタのピアノは、一体どこに行っちまったんだ?」
「アンタは、俺にそうあって欲しいのか」
「勇吾、確かに、アンタの音は豊かになったよ。価値観の広がりが音に出た。そりゃ結構なことだ。
不幸でいろとも言わないさ。あの優しげな女とお花畑に行きたいならそうすりゃいい。
だけどね勇吾、アタシはアンタの弾く、荒涼としてうすら寒い地獄の景色が好きだった。
焼き尽くすような熱や、押し潰すような質量を持ってるようでいて、短い休符の間には底の知れねえ虚無が口を開けているような音楽が、煌びやかな連符の陰からふと漂ってくる、甘い死の匂いが好きだった」
俺はふと、自分の首筋をひんやりとした手でなぞられたような心持ちがして肩をすくめた。
「それを聴けば、アンタの心は安らぐか? 俺の肩にまとわりつくピアノ弾きの亡霊どもを見ると、アンタの孤独はやわらぐか?
なあ真樹、俺がアンタにしてやれることは、高みに昇る俺の隣で、一緒の景色を見せてやることだと思ってたよ。でも、アンタのいるべき場所は、そこじゃねえんじゃねえのか?」
真樹は目を細めて俺を見た。
「うるせえよ。知ったふうな口きいてんじゃねえ」
怒鳴るでも吐き捨てるでもなく、彼女は静かに言った。
それから3枚の原盤の内、1枚を真樹が、2枚を俺が受け取り、羽田のターミナルへ俺を送り届ける間、真樹は世間話程度のことをぽつりぽつりと喋ったが、ピアノや音楽については何も話さなかった。
飛行機が飛び立った時、俺は機内で、少しだけ真樹のことを考えた。
それから、篠崎に宛てたCDケースに入れるカードに、何を書くか、考えた。
あまり長々と文章を書くようなことは苦手だ。
悩んだ末、俺はそれぞれの曲目について、聴いてもらいたいシーンを想像して書くことに決めた。元々、そのようにして選曲したものだから。
【楽しい気分になりたい時】
・『子どもの領分』より
第6曲「ゴリウォーグのケークウォーク」
クロード・ドビュッシー
・『ルーマニア民俗舞曲』より
第5曲「ルーマニア風ポルカ」
第6曲「速い踊り」
バルトーク・ベーラ
【うまく寝つけない時】
・『ノクターン2番Op.9』
フレデリック・ショパン
・『ベルガマスク組曲』より第3番「月の光」
クロード・ドビュッシー
・『子どもの情景』より第7曲「トロイメライ」
ロベルト・シューマン
【速い音楽が聴きたい時】
・『練習曲Op.27「鉄道」』
・『全ての短調による12の練習曲』より
第1番「風の如く」
シャルル・ヴァランタン・アルカン
【勇気が必要な時】
・『アレグロ・バルバロ』
バルトーク・ベーラ
・『超絶技巧練習曲』より第4番「マゼッパ」
フランツ・リスト
────俺はそうやって次々と、書いては消し、書いては消し綴っていった。一度は書き損じると思っていたので、「消せるボールペン」というのを買ったのは正解だった。
最後から2曲目までを書き終えると、俺は手を止めた。
少し悩んで、書き込むと、また少し考え、その文字を消した。
──【お前が俺を、忘れた時】──