7-8.対等で独立したそれぞれのメロディが、互いに調和するように/篠崎 寧々
「勇吾くんと、付き合うことになりました」
2人で花火を見た夜、勇吾くんの家から帰ると、私はマユにだけメッセージを打った。
返信はすぐだった。
「クソが!」
「ひどい!」
私がそう返すと、マユから次の返信があったのは、1時間以上後のことだった。
「おめでとう。
私はユーゴくんに負けて、アンタが仇をとってくれた。
考えようによっちゃそうともとれる。
私の代わりに彼を落としてくれてありがとう。
そしてアンタには、私の次の恋を全力でサポートする義務がある」
私には、マユがどういう気持ちでこう言ったのか、とても想像出来なかった。でも、これが彼女にできる最大の祝福なのだと解釈した。
「私はマユに、何度も勇気づけられた。
ありがとう。大好き」
「はいはい、ソイヤソイヤ」
夜中の1時を過ぎていたけど、その夜、私はちっとも眠れなかった。
✳︎
夏休みの間、私と勇吾くんは何度も遊びに出かけた。
街に出て甘いものを食べながらおしゃべりした時には、彼は私の剣道の話を聞きたがって、試合の動画を見せたりもした。
動物園に行った時、勇吾くんは、動物が首や耳を動かしたり、反対にじっと動かなかったりすることについて、その意味や気持ちを想像したり、私に意見を求めたりした。
水族館に行った時には、音楽の話をたくさんした。
彼がよく弾くリストは『エステ荘の噴水』という曲を書いたし、ラヴェルは『水の戯れ』、ドビュッシーは『水の反映』や『海』という曲を書いていて、水を表現しようとした作曲家は多いのだそうだ。
勇吾くんは水槽から見上げる水面の様子に、特に興味を持ったみたいだった。
映画館で洋画のコメディを観た時、私はちょっと本格的な気分になりたくて字幕版を選んだけれど、勇吾くんが劇中のジョークで笑うタイミングは、字幕を読んでいる私とは少しズレていて、彼がヨーロッパ系の言語を一通り話せるマルチリンガルだということを、改めて認識した。
映画のエンドロールが流れている時、私と勇吾くんはキスをした。
私は行く先々で写真を撮って、スマホの中はこの夏休みの2人の思い出でいっぱいになった。
彼はお祭りの日以来、私にピアノを聴かせようとしなかった。
私は彼に出会ってから、音楽に興味を持ち始めていたし、動画サイトで色々探して聴いたりもしていたが、やはり生で聴く勇吾くんの演奏を超える感動はなくて、いつも「これを勇吾くんが弾いたら」と思わずにいられなかった。
特に一度彼の演奏を聴いてしまった『マゼッパ』や、『亜麻色の髪の乙女』、ショパンの『ノクターン20番』などは、他のどのピアニストの演奏を聴いても、アマチュアのコピーバンドを聴いているような、「う〜ん……」という気持ちになるのだ。
でも、彼はお金をとって演奏するプロのピアニストで、その彼にピアノを聴かせて欲しいと言うことは、何かその関係を利用してズルをしているように思えて憚られた。
夏休みも終わりに差し掛かったある日、私は部活終わりに迎えに来てくれた勇吾くんと、ファーストフード店に入って軽い食事をしながら、前々から思っていたことを、思い切って聞いてみた。
「CDとかって、出ないの?」
これは私が、ずっと疑問に思っていたことだった。実は彼を好きになってからというもの、私は何度か、彼の演奏がCDになっていないかとネットで探したけれど、結局1つも見つけられなかった。
勇吾くんは【神童】として、小さい頃はメディアにも取り上げられたというし、この時代に録音の1つも出回っていないのは、逆に不自然に思えた。
それを聞くと、勇吾くんは少し難しい顔をしたので、私は悪いことを聞いたのかと不安になった。
「実は、1度だけ出した。7歳か8歳か、そのくらいのころだ。でも、絶版になった。売れなかったらしい」
「どうして!?」
びっくりして、思わず大きな声を出てしまった。視線が集まって、私は小さな声で、すみません……と謝った。
「でも、信じられない」
「ここぞとばかりに難曲を詰め込んだんだが、7、8歳で弾けるわけがないと信じてもらえなかったそうだ。俺の生い立ちが公にできないせいで、あんまり積極的に反論できなかったのもあるらしい」
「でも、小さいころはコンクールを総ナメにしたって……」
「俺には熱心なアンチがいて、そういう奴らが妨害したとも聞いてるが、詳しいことはよく知らねえ。俺自身、録音を出すことに全く興味がなかったから。
その頃の俺は──というより、つい最近まで──ピアノ弾いて飯食って寝るっつー生活を維持することだけが生きる目的みたいなもんで、ライブで十分それが出来てたから、自分の演奏を録音する理由がなかった」
それを聞いて複雑なものを感じながら、「私、実はもうすぐ誕生日なんだけど……」と切り出した。
「ああ、知ってる。誕生日ってのはプレゼントを贈るもんなんだってな。欲しいものがあるのか?」
「おねだりしていい?」
「ああ」
勇吾くんはうなずいた。
「勇吾くんの、CDが欲しい」
私がそう言うと、彼は「うーん……」と声を出してうなった。
「ダメ?」
「いや、ダメじゃねえんだけど、彼女の誕生日に自分のCDを贈るって、なんかダセエように思えて気が進まねえ」
私はそれを聞くと、なんだか可笑しかった。そんな、売れないミュージシャンみたいな。
「ダサい演奏をする人だったら、確かにダサいかも」
「お? 挑発か?」
勇吾くんは眉間にシワを寄せて、好戦的な笑みを見せる。彼のこの表情も、私は大好きだ。
男らしくて、危うくて、すごくドキドキするのだ。この顔を見たいがために時々彼をからかってしまう。彼が本気で怒らないことに甘えて。
「でも、勇吾くんはプロだし、これは私のワガママだから、本当に、都合さえ良ければなんだけど……」
「分かった」
勇吾くんはきっぱりとそう言った。そして、ポケットからスマホを取り出し、電話をかけた。私は何か、重大なミスを犯したという予感がした。
相手が出たみたいで、彼は口を開く。
「真樹。スタジオ取りたいんだが、いいとこあるか?」と勇吾くんは言う。
やっぱり。マネージャーだ。
「あ……いや、そんな、本格的じゃなくて……ボイスレコーダーみたいなのでいいから……」
慌ててそう言ったが、彼はスマホを押さえて、私に視線を投げる。
「そんな半端なこと出来るかよ」
そしてマネージャーとの会話に戻る。
「……いや、録音できるとこ。ちゃんとした。……あ? 東京? この辺にねえのかよ。……ああ、分かった。しょうがねえな。チケット取ってくれ。日帰りでいい。……いや、プライベート。……ああ、なら、版権やるよ。出すも出さねえも好きにしろ」
何か本格的な交渉が始まったようで、私は怯んだ。軽い気持ちで言ったことが、大変なことになっている気がする。
旅費やスタジオ代はどちら持ちか、録音したものの権利はどうするか、曲目は誰が決めるか、どれだけの曲数を録音するか、販売するならその日取りは誰が決めるか……といった条件や、どのスタジオの設備がどうで、いつ空いているか、といった実務的な話などが続くと、どこかの時点で合意したらしく、「じゃあ、よろしく」と彼は電話を切った。
「えと……こんな、大変なことになるとは……」
私はすっかり縮こまってしまった。
「明日東京に飛んで、一泊して帰ってくる」
「え? そんなに早く取れたの?」
「たまたま、キャンセルが出たそうだ」
「じゃあ、明日の夜は、マネージャーさんと……一晩……」
私は、その一夜を想像すると、胸の辺りがギュッとなった。
でも、勇吾くんはマネージャーさんを変な目で見てはいないし、そもそも元は私が言い出したことで、自分があの人に嫉妬しているなんて、とても言えそうにない。
「俺と真樹が会うと、心配か?」
勇吾くんは、私の目を覗き込むようにして言った。私と彼は全然似ていないのに、まるで自分の顔を鏡で写したように思った。
「どうして……」
「俺も、そういう気持ちになることがあるからだ。お前に、もっといい男が現れたらどうしようとか。特に俺は、あまり人に好かれるタイプじゃねえからな」
私は、なんと答えていいのか迷った。けれど、結局、本当の気持ちを、本当の言葉で話せばいいのだし、それ以外にするべきことも出来ることもないのだと、すぐに気付いた。
「不安だよ。勇吾くんは、彼女があなたを恨んでるって言ったけど、それでもこれまで一緒にいられたのは、それに釣り合うくらい強く、あなたのことが好きだからなんじゃないかな。
それに何より、勇吾くんが、遠くへ行ってしまうことが、私は不安なの」
勇吾くんは、そのことについて、少し考えるように間をとって、それから言った。
「『ポリフォニー』って言葉があってだな……」
「音楽の、ことば?」私は聞いた。
それは、とても不思議な響きのする言葉だった。
「ああ。日本語では『複音楽』とか『多声音楽』とかいって、複数のメロディが、同時に進行する作りのことだ。どっちが旋律、どっちが伴奏ってんじゃなくて、それぞれのメロディは対等で独立してる。でも、ちゃんと和声として調和するように──つまり、ハモるように作るんだ」
勇吾くんはそう説明しながら、傷だらけだけど形のいい手で、2つのメロディを表現した。
彼の左右の手は時々重なり合ったり、離れたりしながら、でも同じ速さで進んだ。
浴衣を借りた時、お姉ちゃんが言った言葉を、私は不意に思い出した。
──あんた、あの子の付属品みたいになるんじゃないよ──
そして、その意味を理解した。
「それぞれのメロディが、対等で独立……」
「そう。でも調和する。俺は、お前とそういうふうになりたい」
そうか、と私はうなずいた。
彼は調和しようとしている。私は、独立しなければ。彼と対等に。