7-7.フランツ・リスト/呉島 勇吾
俺がいつもより丁寧に最初の礼をすると、寧々の家族は拍手をしてくれた。
しかしそれは、単純に演奏を楽しみにしているというよりは、これから起こることに身構えるような、独特の緊張感を持った拍手だった。
椅子に座ると、俺は改めて深く息を吸った。
空気が張りつめる。
鍵盤の上に、指を落とす。
1オクターブ離れたレ♯の、低い方を3回、高い方を3回。それをもう一度繰り返して、次は1回と2回。鐘が高く、遠くへ響くように。
フランツ・リスト『パガニーニによる大練習曲』第3曲「ラ・カンパネラ」
リストが残した4つのカンパネラの最終稿だ。
そのごく簡潔な前奏から主題に入ると、すぐに小さな歓声が漏れた。
この初稿である『パガニーニによる超絶技巧練習曲』は、今弾いている『大練習曲』よりずっと難しい。だが、この改稿を技術的な妥協と見るなら、そいつは素人だと俺は思う。
寧々とその家族が漏らした歓声こそが、その答えだ。
右手の親指でメロディを弾きながら、小指はその一音ずつに16分音符の時間差で、常に1オクターブ以上、離れたところでは2オクターブをまたぐ高いレ♯を打つ。
右手が常に素早く大きく左右に動き、その中でも一番細く、短く、力の弱い小指で、幅の狭い黒鍵を叩き続けることは、ピアニストを常にミスタッチのリスクに晒し続ける。
こうした連続の大跳躍は、ピアノを弾く時間が寝る時間より長くなった辺りから、それほど難しいことではなくなるが、音響効果や、何よりライブにおける視覚的効果が格段に高い。
リストは装飾音符の入り始める主題の繰り返しで、「sample di staccato e piano」と書いている。
大仰に、さも全力で難曲に挑戦しているような感じを出すなということだ。オルゴールが鳴るように、他意もなく、さらりと弾くのが粋なのだ。
音楽が進むにつれて、同じメロディに装飾される音の数は増えていくが、俺はこれを全て『in tempo』で弾く。
聴こえよがしに感情を込めるような素振りでテンポを緩め、手が移動する時間を稼ぐのは、役者であってピアニストではない。
32分音符の半音階が上へ下へと駆け巡って行く時、横目に見た寧々の家族は身を乗り出していた。
リストがやろうとしていたことは、多分これだ。
ピアノを弾く奴の間だけで、上だ下だの話をするんじゃない。
観ている人、聴いている人が前のめりでかぶりつくような演奏をするのだ。
『ラ・カンパネラ』はそのために、この形になった。目にはより楽しく、耳にはより美しい音楽に。
当時最高のヴィルトゥオーゾであり、そしてその後も彼を超えるピアニストは現れないだろうと言われたフランツ・リストが、唯一初見で弾けなかったというショパンのエチュードop.10を、俺は4歳の時、op.25と共に通しで弾いた。
初見能力と演奏技能は俺の勝ちだ。だが、客を楽しませるという点において、リストは俺よりはるかに優れていた。
クソが。だが、これからだ。俺はここから、さらにハネる。
右手が上昇、左手が下降するオクターブの半音階で、急速に熱量を増しながら、燃えるような終結部が弦を打つ。
きっかり4分。和音の大跳躍を繰り返しながら、最後の和音を打ち鳴らすと、その時を待っていたように、たった4人の家族が手を打った。ずっと拍手がしたくてたまらなかったみたいに。
「もう一曲、お付き合い下さい」
俺は椅子に座ったまま言うと、低音域に、重く、力強く腕を落とした。
フランツ・リスト『ハンガリー狂詩曲 S.244』第2番 嬰ハ短調
リストは1839年と1846年にハンガリーを訪れ、そこで出会ったジプシーの楽団による音楽をピアノに落とし込んで、19曲のハンガリー狂詩曲を書いた。
ジプシーとはヨーロッパを渡り歩く移動民族で、行く先々の土着の民謡や、聴衆に馴染みの深い音楽を、彼ら独自のスタイルで演奏した。
ジプシーの音楽は、ほとんど拍子感を失うほど遅く重々しく、過剰なまでの装飾を加えた「ラッサン」と呼ばれる哀愁漂うゆっくりとした部分と、そこから徐々に速度を速め、熱狂的な速さで技巧を見せる「フリスカ」という部分から成る。
地を這うようなラッサンの途中で、目を覚ますように猛烈な連符の連なる装飾楽句が入ると、「うっ……わ……」と声を漏らしたのは寧々の姉だった。
多分、素直な人なんだろうな、と俺は想像する。
それからほんの短い間、「dolce con grazzia」と書かれた長調に転じ、夢を見るような雰囲気を漂わせた後で、音楽は加速していく。
やがて飛び跳ねるような付点のリズムを繰り返しながら速度を増し、右の小指と薬指のトリルが加わり、5連符という音楽的に割り切れないリズムまで加わって、臨界点まで加速すると、また狂気のような速さの装飾楽句を経て、最初の重々しいラッサンに戻る。
そして、もう一度音楽が加速していく時、俺は寧々の目を見た。
普段はもじもじして気弱な目が、これから起きる出来事への期待に輝いている。
任せろ。お前に退屈な思いはさせない。
俺は短く息を吐く。
ここからは、お祭り騒ぎだ。聖者も不信心者も、子どもも大男も、大富豪も貧乏人も、みな歓喜と陶酔に躍り狂う、上も下も、右も左もない、歓びだけの世界だ。
同じ鍵盤を電動ミシンみたいに素早く叩くトレモロを挟みながら、熱狂的な速さで突き進む。底抜けに明るいメロディが次々に現れて、もの凄い速さで展開していくと、グリッサンドを指で弾くようなスケールや、細かいトレモロが出るたびに、歓声があがった。
リズムやアクセントに合わせて、自分の首や肩、顔の筋肉が動いていることに気付いて、俺は驚いた。普段、そういう弾き方はしない。でも、身体の深いところから、自然と衝動が湧き上がってくる。
楽しい。
俺は、おそらく生まれて初めて、ピアノを弾くのが楽しいと思った。
ずっと、こういう時間が続けばいい。
だが、そうではないことも、俺は知っている。
そのことを証明するように、音楽には、おどけた調子の、しかしどこかもの寂しいメロディが混ざり始めて、急速に速度を落とす。
それでも、どうか最後まで、楽しんで欲しい。俺もそうするから。
フェルマータをペダルで伸ばし、俺は家族の顔を見る。みんな、楽しそうに笑っていた。俺の顔にも笑みがこぼれるのが分かった。嬉しい。
鍵盤を向いて、終結部に入る。
「prestissimo」
俺は俺以外のどんなピアニストより、この曲を速く弾く。
ピアニッシモから終始に向かって急速に大きく、華々しく、きらびやかに、そして、速く、速く、速く駆け抜けて、締めの和音を鳴らした。
俺が立ち上がって礼をする前に、寧々の家族はみんな立ち上がって、俺を迎えるように拍手をしてくれた。俺はそれに導かれるように頭を下げた。
寧々の母が歩み寄ってきて、俺は少し怯んだ。さすが彼女の母というだけあって、寧々ほどじゃないが、背が高い。
「ピアノを上手に、それもすごく上手に弾くことは、『悪魔』がやることなんかじゃない。あなたは、悪魔なんかじゃない。人のためにピアノを弾くことができる、『人間』なのよ」
目頭がひりひりした。鼻の奥にツンとくるものがあって、思わず鼻頭を押さえ、それから呼吸を整えた。
「音大の卒業生が、音楽家になれる割合は3パーセント程度で、その中には自分一人食わしていくのも覚束ない自称音楽家も相当含まれているそうです。
そういう世界だから、俺たちは互いに喰らい合いながら生きてきたし、これからもそうでしょう。
俺は、これからもピアニストたちにとっての悪魔でい続けます。
それでも、大好きな人たちの前ではこういうふうに弾ける悪魔なんだと知って欲しくて。俺はもらった恩に、これでしかお返しできませんが……」
寧々が一足飛びに距離を詰めると、俺に抱きついた。目を見張るような瞬発力だ。
「ひゃぁ〜……」姉が口元を隠した。
「関係が……進展している……」
未曾有の世界的恐慌に直面したような調子で、寧々の父はつぶやいた。
「そういうワケで! 私はこの人と、お付き合いします!」
寧々は家族に向かって高らかに宣言した。
「いや……ほら、まだ……彼の方の意志とかも……」
わずかな希望にすがるように、寧々の父は言う。
「俺も、寧々さんが好きです」
端的に言った。要約すれば、そういうことだ。
「フゥ〜!」
姉がどこから出しているのか分からないような高い声をあげた。
寧々の母は、父の肩を叩く。
「15とか6とかの男の子がこれだけ腹据えてんだから。いいことじゃない。大事にしてくれそうな子で」
「いやぁ……えぇ……それは、まぁ……え? どこまでいって……」
寧々の父は、だいぶ混乱しているようだったが、彼の疑問は俺たちの交際の深度についてだと俺は理解した。
「まだ、キ……」
「いや!」と父は俺の言葉をさえぎる。「具体的に聞きたくはない! そこは! フワッとしておいてほしい! でも、娘の交際相手として言うが、くれぐれも、節度! 節度だけは守って!」
俺はその勢いに押されて、「はい、分かりました」と返事をしたが、男女交際における『節度』というものが、どこで線引きをするものなのか、よく分かっていなかった。
寧々とその家族が帰った後、俺は『節度』という言葉をネットで調べた。
「度を越さない、適当なほどあい。」
しかし、例えばキスまではOKとか、胸部及び臀部に触れてはいけないとか、そういう具体的なことはどこにも書いていなかった。
次、寧々の父に会う時は、そういうことを、詳細に確認しようと思う。





