7-6.アディショナル・タイム/篠崎 寧々
「違うよ。わざとじゃないよ」
電話を耳にあてて、必死にそう弁明した。
勇吾くんの家は、私の家からも電車で2駅、終電までにはまだまだ本数があるし、どうしても歩けないという距離でもないけど、街の中心からこれだけ離れると、駅の間隔も遠くなるし、浴衣だし、電車はまだすごく混んでるし、車だったらすぐだから、それまで、勇吾くんの家で待っていてはダメ? ということを交渉したのだ。
客観的に言えば、多少混んでるのは我慢して電車で帰って来なさいというだけの話で、どう贔屓目に見ても合理的ではないから、なかなか厳しい交渉を覚悟していたけれど、「勇吾くんが一曲弾いてくれるって」の一言で私の家族は落ちた。
「いいって!」
私がそう言うと、もう少しだけ、一緒にいられるということを、彼も喜んでくれたことが私は嬉しかった。
正直私はあと1回、いや、2……3回くらいキスしたいなと思っていて、いや、それどころか、本当は彼の家に行くとなった時点でだいぶ妄想がすごいことになっていた。
今は浴衣だし、部屋に帰ったら、勇吾くんはまず部屋着に着替えるべきで、まずその生着替えを網膜に焼き付けて、そして、それを足がかりに……──
「おい、大丈夫か? 着いたけど」
そう言いながら、勇吾くんは鍵を挿して、シャッターを開けた。
地下へ続く階段を見下ろし、思わず生唾を飲む。
しかし、あまりのんびりしている時間はない。私の家から車でここまで、せいぜい10分、人のお家にお邪魔するから、ちょっと着替えたりするにしても、30分はかからないだろう。
このアディショナル・タイムで、私は結果を出す。
階段の照明を点けるスイッチの音に、ビクッと肩をすくめた。
階段を降りて、入口の防音扉を開け、勇吾くんはフロアの灯りを点ける。
心臓が、早鐘のように鳴った。
ここがかつて、大人たちがお酒の入ったグラスを並べていた場所なのだということが、この時になって理解できた。
バーカウンターに、テーブル、椅子、ソファ……そういうものが、何かこれから起こる出来事を遠巻きに見守るように、ひっそりと息をひそめている。
「なんか、微妙に暗いだろ。悪いな」
「そんな、勇吾くんの謝ることじゃ……それになんか、オトナの雰囲気……」
私がさり気なく、というつもりで勇吾くんに顔を近づけると、彼はつないでいた手をパッと放し、ピアノの方へ向かって行った。
「さあ、何を弾こうかな……」
「ピアノ……弾くの?」
私は自分の言葉に、彼のピアノを否定するような響きが混じったのではないかと反省した。
これはいけない。彼にとってピアノを弾くということは大切で特別なことで、その演奏には途方もない価値がある。
私だけだ。ピアノのそばにいるピアニストの前で、イヤラシイことばかり考えているドスケベ人間は。
「俺は、家に帰るとまずピアノを弾くんだ。ちょっと、離れててくれ」と、勇吾くんは近くのソファを指した。
突き放されたような気がして、私は悲しかった。
「ねえ、近くで聴いてちゃ、ダメ? 例えば、すぐ後ろとか」
「ええと……近くっていうと、どのくらい?」
「すぐ、手が届くくらい……より、もっと近く。その……キスできるくらい」
「ダメだ」勇吾くんは『ダメ、ゼッタイ!』のポスターみたいに手のひらを突き出して、きっぱりと言った。
「距離! 距離をとってくれ。適切な距離を。そうだな、だいたい、2メートルくらい……」
「どうして!」と私は抗議する。
もう、キスした仲だ。あと3回……いや、4、5回くらい、いいではないか。何か、彼に嫌われることでもしたのだろうか。そんな、感染症の蔓延する社会みたいな……。
「何か、イヤなことした? だとしたら言って。悲しいよ」
そう言うと、本当に悲しくなってきて、声が震えそうになった。
勇吾くんは困った顔をして、うーん……とうなった。それから、恥ずかしそうに顔を伏せた。
「俺はな、あまり理性的な人間とは言えねえんだよ」
私は首をかしげた。
それは知っている。どちらかと言えば、などという留保なしに、筋金入りの直情型だ。売られたケンカは後先考えずに買うし、これまでも怒りに任せてさまざまなトラブルを巻き起こしてきたと聞く。
「私、あんまり魅力ない?」
なぜ今になって、これほど拒絶されるのか、それが悲しいし、理由が知りたい。
と、続く言葉を探して口を開きかけたのを、勇吾くんは遮った。
「あるよ。あるから困ってんじゃねえか。俺はな、正直今ギリッギリなんだよ。あと一歩近付いてみろ。とんでもねえことになるぞ。一触即発だ!」
自分の顔が真っ赤になるのが、そこに感じる体温で分かった。
「あ……えと……つまり?」
「もうすぐお前の親がここに来る。娘のあられもない姿を見せるわけにはいかねえんだよ!」
私は理解した。彼も、私と同じことを考えていたんだ。
大きく一歩を踏み込んで、彼の肩を掴む。私は、上段の剣士だ。遠間からの踏み込みで右に出る者はない。
「勇吾くんの、エッチ」
噛みつくように、彼の唇を奪う。
溺れた人が、もがきながら水面から顔を出すみたいに唇を離すと、勇吾くんは「それは、お互い様だろ、お前も大概だぞ……」と言って、今度は彼から、唇を重ねた。
2人はもつれあって、よろめいた拍子に、勇吾くんは鍵盤に手をついた。
ピアノの弦が、床に落ちたグラスが割れるような高音を鳴らす。
それとほとんど同時に、テーブルに置いた私のスマホが鳴った。
構うもんか、と私は思ったけれど、呉島くんは私の脇の下から手を伸ばしてそれを取ると、私に寄越した。
「俺は、俺を大事にしてくれる人と同じくらい、お前を大事にしてくれる人を大事にしたい」
私は彼を抱きしめたまま、電話を受け取り、通話ボタンを押した。好きな人を抱きながら親と電話をする背徳感で、頭がおかしくなりそうだった。
もう、マユにも私はエロくないなんて言えない。
✳︎
私の親が来るのを、勇吾くんと一緒に外で待った。
マネージャーさんが借りている月極の駐車場があって、そこが空いているのだという。彼女は今、東京にいるそうだ。
私の家族が来ると、ピアニストが客席にするように、勇吾くんは頭を下げた。
お姉ちゃんまで来ていた。人の家に自分の家族が勢揃いして、私は何か恥ずかしかった。
「こんな遅い時間に、ご足労頂き申し訳ありません」
ものすごくしっかりしたその口振りに私は驚いてしまって、彼を見ながら目をパチクリさせた。
「ますます敬語が上手に……」お母さんも驚いた顔で言う。
「動画を見て研究しました。敬語には程度があって、あまりやり過ぎるのもよくないと聞いているので、難しいですね。これから、もっと上手く話せるように練習します」
そう言って、勇吾くんは私の家族を、地下へ続く階段へと招いた。
「こんなところに……」と呟いてから、お父さんは首を横に振った。「いや、変な意味じゃなく、ただ、住居としては珍しいスタイルだ」
お母さんとお姉ちゃんも、物珍しそうにきょろきょろする。
「ええ、俺もそう思います。これまであまり気にしたことはなかったけど、お宅にお邪魔してからは」
勇吾くんはバーカウンターに入ってグラスを並べ、冷蔵庫からボトルのコーヒー(それは、コーヒーを飲めない彼が、いつか私の家族が来た時のために用意していたらしかった)を注ぎ、軽井沢で買ったというお土産もののお菓子を出してくれた。
それから、彼はこの家について、地上の階には生活スペースがあることや、けれどお風呂以外は寝起きも含めてほとんどここで過ごすこと、夜中にピアノを弾いても文句を言われないので都合がいいことなどを丁寧に説明した。
「あなた、ちゃんと食べてるの?」
お母さんは心配そうに言う。
「ちょっと、やめなよ。人んちの子に」とお姉ちゃんが口を挟んだが、彼は何ともないというふうに、首を横に振った。
「俺は料理が全然ダメで、どうしてもコンビニとか、スーパーの弁当になってしまいますね。
少し前までマネージャーが、掃除も洗濯も、食事も、身の回りのことを全部やってくれてたんです。
今はそのマネージャーが離れているので、掃除や洗濯は自分でやってます。実際やってみると、何も難しいことはなくて、どうして俺はこんな簡単なことを自分でやってこなかったのかと少し反省しています」
「マネージャーというのは、そんなことまで?」
お父さんがたずねた。私にとって、それはかなり核心に近い質問だった。
「本来の仕事ではなかったと思います。俺はそのことの意味とか、価値をよく分かっていなくて、感謝の気持ちを伝えられずにいるので、マネージャーが帰ってきたら、そういうことをちゃんと言うつもりです」
勇吾くんが、淀みなく答えるのを聞くと、彼がマネージャーについて、この数日でかなり真剣に考えていたことが伝わってきて、私は少し嫉妬した。
「でも、色々と、複雑なんでしょ?」と私は思わず聞く。
「ああ……」と、勇吾くんは、誰に対してどういう口調で答えるべきか、少し迷うように目を泳がせてから、全員に分かるように説明すると決めたみたいだった。
「俺が篠崎さんのお父さんと、初めて会った時、名刺をお渡しした女性が、俺のマネージャーです。彼女はピアニストでしたが、10歳だった俺の演奏を聴いて、音楽を諦めました」
お父さんは少し驚いた顔をしたが、あまり込み入ったことを聞くのは遠慮したみたいだった。
「いや、すみません根掘り葉掘り。自分の知らない世界だから、つい」
「いえ、俺は『家族』というものを教えてもらったので」
そう言いながら、彼はフロアの奥、ピアノへと進んだ。「15分ほど、お時間よろしいですか?」
「もちろん。呉島さんさえご迷惑じゃなければ」
「俺がどういうピアニストなのか、そして、これからどういうピアニストになろうとしているのか、そういうことが伝わればいいんですが」
そう言って、勇吾くんはゆっくりと息を吸った。彼の気配や雰囲気が、そしてそれを取り巻く場の空気が、その瞬間変わったように思えた。
ああ、彼はこうして、ピアノと一体になるのだ。