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悪童ピアニストと内気な剣道女子のための叙情的組曲【書籍2巻発売中】  作者: 福太郎
第1曲「重苦しく、ときに激情をもって」
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1-6.浅い呼吸、震える足/篠崎 寧々

 格技場の床は照明の光を鈍く照り返している。


 胴紐を結んで立ち上がると、少しジャンプして、膝の調子を確かめた。やはり、違和感はない。


 すぐそばでは、マユちゃんが他の部員と談笑していたが、その内容が問題だった。


「この前さぁ、廊下でネネと喋ってたらチャイムが鳴っちゃって、あの子トイレに行きそびれたらしいのね。それで……」


 私は慌ててさえぎった。


「何で言うの? ホントにやめて。恥ずかしいから!」


 しかし、これがかえって彼女たちの好奇心を刺激したらしく、気づけば先輩たちまで集まって、私のトイレをめぐる呉島くんとのやり取りは、洗いざらい暴露されてしまった。


 みんながドッと笑う。ああ……恥ずかしい。消えてしまいたい。


 私はあの時、本当に大きい方ではなかったし、どスケベでもない。しかしあれ以来、その誤解の解けるチャンスは訪れなかった。


 もう、あの出来事が風化するのを待つしかないと、時が経つのを待っていたというのに、どうして蒸し返すのか。


 私は一心不乱に素振りをしたが、顔がどんどん熱くなって、それがはた目にも分かるらしく、余計にからかわれた。


 こうなったら、反撃に出るしかない。


「マユちゃんは、呉島くんとは、どうなの?」と聞いてみる。私の恥ずかしい話をした仕返しだ。マユちゃんも、恥ずかしがればいい。


 しかし、「全然ダメ! 全く脈ナシだわ。そもそも取っかかりがない!」あっけらかんとそう言うので、私は逆に怯んだ。


 周りが、あぁ〜! と落胆の声をあげる。


「マジで、家庭科部とかにしとけば良かった。剣道って!」とマユちゃんは天井をあおぐ。


 あぁ〜! と周囲も同調した。剣道は、モテない。試合中は面をかぶるし、竹刀で人を叩くし、大きい声をあげる。競技として、かわいい要素がないのだ。しかも、小手が臭いとか、マイナスイメージまである。最近の剣道女子は、みんなニオイ対策もばっちりだというのに。


「でも家庭科部ってあんまりモテてなくない?」と先輩の一人が言った。


「えぇ、そうですか? じゃあ、なんだろう、テニスとか?」


 あぁ〜! と同意の声があがった。確かに、テニスはユニフォームがかわいい。


「あとは、バド部?」「バレー部もかわいくない?」次々と候補が挙がる中、「チア部!」と誰かが言った時点で、ほとんどそれが優勝という雰囲気になったが、そこでなぜか私に視線が集まった。


 意見が求められている。


「あの、呉島くん狙いってことなら……合唱部、とか?」おそるおそる私が言うと、どよめきが起こった。


 マユちゃんが、目を丸くして私を見る。「つまり、呉島くんのピアノ伴奏でってこと?『放課後の個人レッスン』みたいな……スケベ過ぎるこの女! みんな気をつけて! 野生の痴女だ!」


「えっ、ウソでしょ? ただ、共通点が……」私は必死に抗弁したが、もうみんな完全に盛り上がってしまって、全然聞く耳を持ってもらえなかった。


 一人が呉島くんになりきって、「君の『レ』の音が、ちょっと違うね」とピアノを弾くポーズをすると、もう一人がその横から手を重ねる。


「じゃあ、私に本当の『レ』を教えて?」


「やめたまえ。僕の指揮棒が、『ファ』になってしまう!」


「じゃあ、私は『ソ』!」


「一個じゃん! 刻むな!」「ていうか、知識が浅い!」外野がヤジを挟むと、またドッと笑いが起きる。


 全然意味が分からないけれど、絶対私よりみんなの方がエッチだ。特にマユちゃんが一番エロい。


「おーい! 何盛り上がってんだ。やるぞ」


 先生が来ると、みんな真面目な剣士の顔に戻る。


 私は、自分がエッチだと誤解されている不満を解消する場を失ってしまったが、頭の中で、(呉島くんは、「やめたまえ」とか「僕の」とか言うタイプじゃないんだよなぁ)と呟いた。


 それから、この中で自分だけが、まともに呉島くんと話したことがあるのだということが、なんだか少し後ろめたい気持ちになった。


  ✳︎


 頭に手拭いを巻き、面をかぶる。面紐をきつく締めて、後ろで結ぶ。心臓が、大きく脈打った。


 面金の間から見える景色が、靭帯を傷めたあの日に重なる。呼吸が浅くなって、息が苦しい。


 私は目をつむる。それから、声に出さず、口だけを動かして、胸の中で呟いた。


──「俺は負けてねえ。『参った』とは一言も言ってねえから」──


 私は、自分をだましているだけかもしれない。あの日、私は確かに負けたし、今も、昔の仲間が怖くて仕方がない。


 けれども、この言葉は、あれ以来、私を確かに支えてくれた。


 彼はピアニストで、きっとケンカなんてからっきしだと思う。それでも、5人を相手に戦って、コテンパンに打ちのめされながら、こんなセリフを吐ける人が、この世にはいるのだ。


 そのことが、私に少しだけ、勇気を与える。


 私は、そういうふうになりたい。


 立ち上がると、小さくジャンプする。膝に違和感はない。


 列に並んで、稽古が始まる。


 切り返し、正面打ち、小手・面の二段打ち、体当たりからの引き面、引き胴、面に対する応じ技、小手に対する応じ技、打ち込み稽古と進めていくうちに、心地よい疲労感とともに身体が暖まっていく感じがする。


 踏み込みは強く、手の内は冴え、打ち込みは強く、速く、鋭くなっていく。


 しかし、試合形式の互角稽古となったとき、やはり私は調子を崩した。


 疲労とは別のところから、胸を押さえつけられるように呼吸が浅くなる。今までやっていたはずの打ち込みが、どうやって打つのか分からなくなってしまう。


 そんな私を、みんなが責めているように感じた。


 私は弱い。仮に、何かの間違いで、弱い私が偶然技を決めてしまったら、それでみんなが、私を強いと勘違いしてしまったら、またあの日のように、重要な場面に立たされてしまうのではないか。


 そうした責任を、弱い私は負いきれるのか……。


──身体に強い衝撃を受け、私はよろめいた。面を打たれて体当たりされたのだ。相手はマユちゃんだった。


 マユちゃんは、面金の向こうから、私を睨みつけていた。「ネネ、あんた、ウザいわ」


 マユちゃんは、確かに私にそう言った。


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