7-5.この世界に2人きり/呉島 勇吾
神社の裏手には山があって、そのサイズ感というのがまた、観光や登山には低すぎるし、ちょっとした穴場としては高すぎる、その上ロクに整地もされていないというので、頂上まで登るヤツはまずいないのだそうだった。
「大丈夫? もう少しだよ」
篠崎は片手の指に水風船のヨーヨーを垂らしたまま、平地を歩くのと変わらない調子で先へ進む。
「お前には……俺が……バテてるように……見えるのか?」
俺は喘ぎ喘ぎ虚勢を張ったが、明日から毎日ランニングすることを決意していた。
山道を歩いて30分ほど、不意に視界が開けた。
「危ないから、前に行っちゃダメ」と篠崎は言った。繁っていた樹々を抜けると、頂上は岩に覆われていて、その先が唐突な急斜面になっているらしい。
「なるほど、浴衣でこれを登ろうってヤツは、そうそういねえワケだ」
俺はちょうど、手頃な岩に腰を下ろそうとしたが、篠崎がそれを止めた。
「浴衣が汚れちゃうから、敷物を持ってきてて……巾着に入るように、ちょっと小さいのですが……」
篠崎はビニールの敷物を岩の上に敷いてそこに腰かけ、隣のスペースをポンポンと叩いて俺を招いた。
彼女と他の女たちとの体格差でしばらく気付かなかったが、思い返してみると篠崎の持っている巾着は、往来の女たちが提げていたそれと比べて、やや、というよりもう少し大きかった。
どうやらそこにこの敷物や、懐中電灯なんかを詰めてきたらしい。
隣に座ると、肩が触れ合った。ちょうどその時、ひゅるひゅると篠笛のような音が鳴って、続いて大きな花火が大輪の花を咲かせたと思うと、バスドラムのような低い音が、ドンと鳴って腹を震わせた。
「わぁ……」
篠崎は静かな感嘆の声を漏らす。
真っ黒な夜空に、赤や緑の大きな花が咲いては消える。
「あぁ……」俺は目を細めて、それからうつむいた。
こんな時に……。
「どうしたの?」
「俺は、これを見たことがある。あの海沿いの街で。女は俺を抱き上げて、少しの間、これを見せた。腕が疲れたと言って、すぐに降ろしたけど。人混みがひどくて、もう音しか聞こえなくなって、俺はそれが悲しかった」
篠崎は、俺の手を握った。
「ここには、私と呉島くんしかいないよ。私がいて、呉島くんがいて、花火があがってる。この世界には、それ以外、何もないよ」
それは、愚痴や弱音を吐いても他に聞いてるヤツはいないという意味なのか、余計なことを思い出さずに花火に集中しろという意味なのか、俺には分からなかったが、手や肩から伝わる彼女の体温は、確かに俺を温めた。
街灯もない山の上、瞬いては消えていく花火以外は何もかもがおぼろげな夜の中で、俺と彼女がいる、そのことだけが確かだった。
「お前が俺にキスした時……」
俺がそう切り出すと、篠崎は露骨にうろたえた。
「あ、いえ、その節は……とんだ失礼を……」
「俺はあの時、あれ以上の答えはねえと思った。
俺はお前が好きだ。でも、どういうふうに好きなのか、上手い言葉が見つからなくて、ずっと悩んでたんだ。
ただ一言『好きだ』なんて言葉じゃ、とても言い足りねえ。第一、具体性がねえしよ。
何が食いてえか聞かれて『美味しいもの』って答えるようなもんだ」
俺がそう言うと、篠崎は笑った。
「そういうふうに、一生懸命考えるところ、好き」
「今な、俺のピアノは、もの凄いスピードで変わってる。一つの音色の良し悪しなんてのは、結局、ものの感じ方の話だったんだ。価値があると思えるものが、俺の中で増えたから、俺はあんなふうに弾けるようになった。これからも、誰も追いつけねえ速さで進化するだろう。そしてそのまま、誰も届かねえ高みに昇る。
だけど、お前にだけは誤解して欲しくねえんだ。俺は、ピアノのためにお前を好きでいるわけじゃねえ」
篠崎は、俺の言葉を咀嚼するように間を空けて、それからうなずいた。
「私は正直、そのことを不安に思ったこともある。でも、今は分かるよ。私はあなたのことを、信じられる」
「不安……そうか。俺は誰にも優しくされたことがねえと思ってたから、誰にでも優しいお前が、俺にも当たり前に優しくしたことで、生まれたてのヒヨコみてえに、お前を好きだと刷り込まれただけじゃねえかと不安だった。だが、今となっては別に、そんなことはどうでもいいや。
不思議だよ。この世には、気に入らねえことが山ほどあって、俺はその一つ一つに、いちいち腹を立ててた。そういうものに負けたくなくて、誰からも、何からも逃げねえと腹に決めて暴れまくってたはずなのに、お前といられるなら、そういうもんはどうでもよくなっちまった。
これでもまだ、全然言い尽くせたとは思えねえけど、俺は、そういうふうに、お前が好きだ」
俺は篠崎の頬や、耳に触れた。それから、彼女が俺にそうしたように、自分の唇を彼女の唇に重ねた。
花火の音が急き込むように連なって、腹の底を何度も震わせた。
唇を離すと、彼女は潤んだ目で俺を見つめていた。
「私も好きだよ。いろんな気持ちがあって、一言じゃ言い表せない。でも要約すれば、あなたが好き」
「俺は、自分がピアノ弾きなのに、どうしてこんな簡単なことにもっと早く気付かなかったのかな。とても言葉じゃ言い表せねえ気持ちがあるから、この世界には音楽があるんだ」
花火はクライマックスに差し掛かっているらしかった。
「綺麗……」
金色の火花が光跡を長く残して垂れ落ちながら、幾重にも重なりあって、途方もなく大きく、そして手が届きそうなほど近くに感じた。
花火が終わると、俺たちはもう一度キスをして、手を繋いで山道を降りた。
✳︎
駅はギャグみたいに混んでいて、俺たちはわざと一本見送って次の電車を待った。
「今日は、俺が生きてきた中で、一番楽しい日だった」
駅の構内で、肩をすり合わせるように行き交う人の群れを眺めながら、俺は言った。
「これからもっと、楽しいことがたくさんあるよ。そういう催しを、企画しております」
「そうか。夢みてえだな。剣道の方は、どうなんだ?」
「絶好調だよ。合宿の練習試合は勝ちまくった。私も、これからもっと強くなるよ」
「俺は一度お前の試合を見たからな。俺に絡んできた記者のおっさんが、あのパワーでお前に殴られたら、首がもげるだろうと心配だった」
「そこまでは強くないよ!」
「ウチの社長がな、『切れキャラはセットにした方がいい』って言ったんだ。片方は逆に冷静になるからって。あれは本当だな。お前は切れキャラとは言えねえが、お前が俺のために怒ってくれたことが、俺は嬉しかった」
「やる時はやる女なんですよ」
篠崎は胸を張る。
俺はその言葉を聞くと、おそらく彼女の本意とは少し違う想像をしたが、黙って彼女の手を引き、改札へ向かった。
ホームに着くと間もなく、バカバカしいほどぎゅうぎゅう詰めの電車に身体を押し込んで、抱き合うように密着しながら、電車で5つ駅を越えると、ドアが開いた瞬間に土石流のように流れ出る人混みに押されて、俺たちは電車を降りた。
「じゃあな」
改札に向かう人の群れを避けながら、篠崎が再び電車に乗り込むのを見送ろうと、俺はホームに立ち止まる。
電車を降りる人の流れが落ち着くと、篠崎は名残惜しそうに、俺を見つめた。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ。寧々」
篠崎は一瞬驚いた顔をして、それから飛びかかるように俺に抱きついた。
「おやすみ。勇吾……くん」
「いてて……力が強い」
「あ、ごめん……!」
篠崎がハッとして、俺の身体を放す。と、その時、電車のドアが閉まった。
「あ……」俺たちは声を合わせた。