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悪童ピアニストと内気な剣道女子のための叙情的組曲【書籍2巻発売中】  作者: 福太郎
第7曲「2つの声部が対等に独立するように」
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7-4.彼は鳥居をくぐらなかった/篠崎 寧々

 立ち並んだ屋台の裏を、呉島くんに手を引かれて、小走りに駆ける。

「悪いな、せっかくの祭りなのに、ケチがついた」

 少し息をきらしながら、呉島くんがそう言う。


「呉島くんは、何も悪くない」


「いや、お前が来てくれなかったら、俺はまた、あの頃に逆戻りするところだった」

 彼は、本当にホッとしているみたいだった。

「あの頃」というのを想像して、私はゾッとした。彼の周りにはたくさんの人がいて、しかし誰も彼を一人の人間として扱わなかった、そういう時代のことだ。


 けれど、彼の言葉には救いがあった。彼にとって、今は、「あの頃」ではないのだ。


──「ユーゴが雑誌かなんかの記者に絡まれてる」と電話があったのは、ちょうど神社近くの駅を降りた頃だったが、私は申し訳ないことに、着信の酒井というのが誰か理解するのに少し時間がかかった。


 そういえば、呉島くんの家に行った時、連絡先を交換したのだった。


 私はこの日、午後も部活があって、それが終わってから神社で待ち合わせの予定だったが、呉島くんは先に酒井くんたちと現地に行っているというのは聞いていた。


 考えが甘かった、と私は思った。テレビの衝撃映像に登場した人の顔を、私は一人も覚えていない。私にとって呉島くんは大事な人だけど、他の大勢の人たちにとっては、彼もそういう「見たことがある気がする」くらいの一般人に過ぎないと、どこかでそう考えていた。


 しかし彼は、多くのピアニストの音楽人生を絶った【ピアニストの死神】で、【悪魔に選ばれた子ども】で、多くのクラシックファンがその行方を追う【消えた神童】なのだ。


 これからもきっと、好奇の目に晒され続ける。ずば抜けた才能と引き換えに、そういう宿命を背負った人だ。


「大ごとになる前に割って入るつもりだけど、篠崎さん、間に合うならユーゴを助けてやってよ。その方があいつ、救われると思う」


 酒井くんというのは、人のことをよく見ているとは聞いていた。けれど、人はここまで人のことを考えられるものなのかと、私は単に感心というよりは尊敬に近いものを感じずにはいられなかった。


 私は場所を聞くと、必ず間に合わせると言って電話を切り、全速力で駆け出した。

 浴衣が着崩れちゃうとか、下駄が傷むとか、そういうことは全然気にならなかった。


 その手の甲に刻まれた無数の傷跡みたいに、彼には悲しい過去が多すぎる。


 人の好奇心をお金に変える人たちは、きっと彼のそういう傷跡を、無遠慮にえぐり返すだろう。


 そうなった時、仮に呉島くんがその記者に手をあげたとしても、私は軽蔑しない。けれど、彼がそういうふうに戦わなくてはいけない時は、私が一緒に戦うと、そして彼を守るのだと約束した。


 私は約束を守る。──


「間に合ってよかった」

 そう言った時、私たちは境内のすぐ前の鳥居のところまで来ていた。


 参道の両脇に並んでいた屋台の列は切れて、神社のお祭りなのに、出店のない社殿付近は皮肉なくらい閑散として、静かで、(おごそ)かだった。


「お前、息ひとつ切れてねえのな」

 呉島くんは、膝に手をついて呼吸を整える。


「運動部ですから」

 でも、心臓はドキドキしているのだということを、私は秘密にした。


 呉島くんは頭を上げると、そのすぐそばにあった鳥居を見上げた。

「なあ、これは、何だ?」


「鳥居っていって、『ここから先が神社だよ』って示す目印みたいな。神聖な場所との境目」


「じゃあ、俺がくぐっちゃいけねえワケだ。何しろ、悪魔だからな」

 冗談めかしてそう言う呉島くんの手を、私は握り直した。


「くぐってみようよ。私は、あなたが本当は、心の綺麗な人だって知ってる。神さまが、そのことを知ってるか、試してみよう」


 呉島くんは笑った。

「そうじゃなかったら、どうする? 神さまが、俺を許さなかったら」


「戦うよ。相手が神さまだって、私は戦う。呉島くんだって、そうでしょ?」


「いや、俺は逃げるよ」と呉島くんは言った。「お前を連れて、逃げる」


 私は、びっくりしてしまって、返す言葉を見つけられなかった。


「思い出しただけでヘドが出るような過去の出来事を、気味の悪い薄笑いでほじくり返そうとしてくるヤツが現れた時、俺はこの言いようのねえ不快感を、どう消化していいのか分からなかった。俺は、お前や、お前の両親に顔向けできるような人間になりてえと思ってたけど、正直、諦めかけたよ。ぶん殴っちまえと思った。

 でも、お前が来てくれた瞬間にな、そんなことが、どうでもよくなったんだ」


「そんな、どうでもよくなんて……」


「なあ、腹減ってねえか? 部活終わって、そのまま来たんだろ? 何か食おうぜ」

 呉島くんは、これまでのことなんか、本当に何もなかったみたいにそう言った。


 私は彼の首に両腕を回して抱きしめ、「悲しくない?」と聞いた。


 呉島くんも私の腰を抱いて、背中を撫でてくれた。

「悲しくねえよ。本当だ。これは痩せ我慢じゃねえ」


 彼の身体を、ゆっくりと放す。

「お腹、ぺこぺこ」


「俺もだ。お前と会うまで待ってた」


「でも、また、カメラ向けられちゃうかも」


「俺は俳優やアイドルじゃねえ。ちょっとテレビで流れたくらいのヤツなんか、誰も顔まではっきり覚えてねえだろ。それでもあの記者みてえなヤツが出てきたら、そん時はまた逃げようぜ。俺はお前と2人で屋台の裏を走ってる時、不思議と、少し楽しかった」


 私はその時初めて、彼の浴衣姿をまじまじと見た。

 薄灰色の浴衣に山吹色の帯を締めて、ピアノみたいに黒光りする漆塗りの下駄を履いている。


「浴衣、カッコいいね」と私が言うと、呉島くんは、口を結んで目を逸らした。


 今日のために、お店に行って、選んだのだろうか。この浴衣に、帯はどの色が合うか、下駄はどうか、もしかしたら、帯の結び方は店員さんに聞いたのかもしれない。


 そう考えると、可愛くて仕方がなかった。


 彼の手を握った。指先に少し感じる彼の傷跡をなぞる。


「なあ、篠崎……」


「何?」


「俺はまた、お前のお父さんやお母さんと話したい。お姉ちゃんってのにも、会ってみたいしな」


「絶対来て。いつがいいか、家族と相談する」


「ああ、頼む。それでな、その時、お前のことを、『篠崎』って呼ぶのは変だと思って、俺はなんか落ち着かなかった。だから、お前さえ良かったら、これから、お前のことを『寧々』って呼ぼうと思うんだが、どうだろう」


 彼がそんなことを考えていたのが、いじらしくて、可愛くて、口元が緩んだ。

「呼んでみて」


 彼は私の方を向いて、口を開きかけたが、途中でやめた。

「……後でな」


「どうして?」

 照れているのだと分かって、私は少し意地悪を言った。だって、目に付いた者は端から噛みつくような獰猛な目をした、出会ったばかりの呉島くんと同じ人とは思えなかったし、私は彼の照れる顔が好きだ。


「いいんだよ。そんなことは。出店を回ろうぜ。俺はな、祭りに来るのが初めてなんだ」


「いいよ。行こう。あとで呼んでね。絶対!」


 呉島くんはこめかみを人差し指で掻いた。


 屋台の並ぶ辺りまで来ると、私たちは、焼そばとたこ焼き、クレープとチョコバナナを食べて、それから、呉島くんが酒井くんに負けたという射的をやった。


 私と呉島くんの射的も当然ながら真剣勝負で、私が勝つと、彼は本気で悔しがった。


 彼はどういうわけか、ヨーヨー釣りがすごく上手で、一本のこより(・・・)で5つも釣ることができたけど、私にくれた1つを除いて、ちょうど近くを通った4人組の子どもにあげた。


 金魚すくいは「俺はこいつらの命に責任が持てねえ」と呉島くんが言うのでやらなかった。


 時計を見ると、花火の時間が迫っていた。

「ねえ、呉島くん、花火がね、綺麗に見えるところがあるんだって」


「それは、鳥居をくぐらなくても行けるところか?」と彼は聞いた。


 その時、ああ、この人は、本当に神さまを怖がっているんだと気付いた。

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