7-3.時には逃げるというやり方も/呉島 勇吾
中央区を南に下ったところ、高台にある神社は、人でごった返していた。参道には『たこ焼き』だとか、『フランクフルト』だとか、『金魚すくい』などと書いた屋台がびっしりと並んで、熱心に客を呼び込んでいる。
「いや、しかし、未だに意外だわ。ユーゴがこういうの誘ってくるとか」と酒井が言った。
紺色に白い縞の入った、甚平というのを着て、食い終えたたこ焼きのパックを捨てるゴミ箱を、目で探している。
その隣には、期末テスト学年2位の優等生、笹森が、大輪の牡丹と蝶の浴衣を着ていたが、まるで石になる呪いでもかけられたように、下を向いたままぴくりとも動かない。
俺もこの日に備えて、着物屋で浴衣を買い、帯の結び方を教えてもらって、自分で着付けてきた。
──『巡礼の旅』で篠崎と会った日の夜、俺たちが住む街で祭りがあるのだと篠崎がメッセージを寄越した。
俺は次に会った時、自分の気持ちや考えを篠崎に説明するのだと決めていたが、その日取りが決まると、なぜか笹森のことが気になった。
自宅に戻って2日経った頃に、俺は笹森に電話をかけた。
「よう。祭りがあるの、知ってるか?」
笹森が電話に出るなり、俺はそう聞いた。
「いや、知らないけど。私一緒に行く人いないから、お祭りとか興味ないし」
笹森はまるで詐欺師とでも話しているような警戒感で答えた。
「その祭りに、酒井を誘ったとしたら、お前、来るか?」
「え? 何で?」
「何でって、好きなんだろ? 俺は別の用事があるから、適当なタイミングで霧のように消える」
「『霧のように』って……その描写、要る?」
「いいんだよ、んなこたぁ。来るのか、来ねえのか。まあ、酒井が暇か知らねえから、あんま期待されても困るけどよ。
とにかく、お前は何か、関係を変化させるつもりがあるのか、それとも今まで通り、酒井を横目でチラチラ見ながら自分の不遇の慰めにするのか、俺ぁそういうことを聞いてんだ」
「いや、言い方……」
「まあ、俺はその結果について、何かを保証するつもりもねえし、お前の気持ちはお前だけのもんだから、別にどっちでもいいんだけどよ。最近俺は他人のことをよく考えるから、どうなのかと思って」
「行く……」と笹森は答えた。
俺は電話を切ると、そのまま酒井にかけた。
──そして、今に至るというわけだ。
「ちょっと、悪い」と酒井に断って、俺は笹森の腕を掴み、適当な屋台の陰に連れ出した。
「いたた……ちょっと、何?」と笹森が苦情を訴える。
「何じゃねえよ。お前は素敵な浴衣を着たガーゴイルか」
「もっと他に例えがあるでしょ!」
「知らねえわ。俺が消えた後、石像と2人きりで取り残される酒井が可哀想だ」
「しょうがないじゃない。緊張するんだもん!」
俺は眉間にシワを寄せた。
「いいか? 俺は今日、好きな女に、どういうふうに好きなのか説明するつもりだ。
別に、お前もそうしろとは言わねえが、いつまでもうじうじしてる女が近くにいたら縁起が悪いんだよ、このウジ虫女」
俺がそう言うと、笹森は自分の浴衣の袖を掴んで、まじまじとそれを見つめた。
「ねえ、私の浴衣、本当に良いと思う?」
「ああ。柄はいいよ。似合ってるとも思う。中身がナメクジ女じゃなければな」
「酒井くんも……そう思うかなあ……」
「知らねえよ。ただ、そう思わねえなら俺はあいつの美的感覚を疑うね」
と言っている途中で、後ろから声をかけられた。
振り向くと、口の周りに無精髭を生やした、青年と中年のちょうど間ぐらいという年格好の男が立っていた。
色の褪めた綿のパンツに襟首のヨレたTシャツ、頭にはそれと同じように萎々したハンチングをかぶって、身の回りの万端が、みすぼらしいこと夥しい。
「呉島くん、呉島 勇吾くんだよね」と、ネバついた、嫌な口調で言う。
「あ? 誰だてめぇ。取り込み中だ。引っ込んでろ」と、それなりの剣幕で威嚇してから、しまった、と口をつぐんだ。間違えてしまった。敬意だ、敬意。
俺は篠崎の両親に胸を張って顔を合わせられる人間になるための修行中なのだ。
しかし、相手はどうも、そういう態度に慣れているらしかった。
ニヤリと笑って、挨拶するでも、名乗るでもなく、腰に提げたカメラを西部劇のガンマンみたいに素早く取り出すと、俺に向けた。
「ちょっと! 失礼じゃないですか?」と俺の代わりに言ったのは笹森だった。
俺はカメラを構える男の手を掴むと、レンズにぐいと顔を寄せた。
「笹森、行け。酒井が待ってる」
「でも……」
ためらう笹森を、俺は手振りで追い払った。
「撮るなら、俺だけにして下さいよ。それと、どこの記者なのか教えて下さい」
俺は気を取り直して敬語を使う。落ち着きさえすれば、もう慣れたもんだ。
「いや、フリーでね。お話聞かせてもらえるなら、それで帰るけど」
嘘だと思った。会社の名前を隠している。
「多少テレビに動画が流れたところで、まだ予選抜けた程度のピアノ弾きですよ。大した価値ないでしょ」
「いやいや、君なら行くでしょ。ファイナルまで」
そう言った男の声に、俺はかつて俺を取り巻いていた、大人たちと同じ響きを聴いた。
俺に金の匂いを嗅ぎつけた連中と、同じ響きだ。
あのコンクールを獲れば、年齢からいって俺にはそれなりの報道価値がある。
そこまで寝かせれば、このタイミングで俺から取材していたという事実も価値を持つのかもしれない。
少なくともこの男はそう考えている。
「悪いんですが、人と会う約束をしてるんです」俺はそう断って、男の腕から手を離した。「失せろ」
どんな人間にも敬意を払うというのは、まだ俺には難しい。
「いやいや、そう言わずにさ」と男は粘る。「聞きたいことさえ聞ければ、僕もすぐ帰るんだから」
俺は眉間を指で押さえた。今までも、イヤなヤツはたくさんいたが、また新しいタイプだ。プライドがなく、罵倒に慣れている。こういうヤツを殴らずにやり過ごすには、どうすればいい?
俺の逡巡を目敏く察知した男は、もう一押しすれば俺が喋るとでも考えたものか、興奮気味に言った。
「君、親に捨てられてるでしょ? そのあと君を短い間引き取っていたピアノの先生について……」
瞬間的に湧き上がった怒りで目の中がチカチカした。拳を握って、相手に掴みかかる寸前だった。
俺がそうしなかったのは、男の背後に、背の高い、その割に童顔な肌の白い女が、厚い前髪の下で、普段は気弱で優しい目に、激しい怒りを燃やしていたからだ。
「篠崎……」俺は、思わず彼女の名前をつぶやいた。
篠崎は、浴衣の袖を翻して男の肩を掴んだ。
「何をしてるんですか? あなた、彼に、親のことを聞いたの? 親に捨てられたって、そう言ったの?」
男は急に肩を掴まれたことにまず驚いて、それから振り返ると、彼女が女にしては極端に背が高いことにまた驚いたらしかった。何度か瞬きをして、平静を装うように口を開いた。
「仕事だよ。取材。これは大人の話だから、お友達はちょっと待っててもらえるかな」
「彼の親のことを言ったのかって、私はそう聞いたんだ」
彼女の片方の手が固く拳を握っていた。
「篠崎! 俺は大丈夫だ!」
俺はほとんど叫ぶように言いながら、彼女が竹刀を振る姿を思い出していた。彼女のパワーで人を殴れば、首がもげるかもしれない。篠崎にそうさせるわけにはいかない。
「俺がハンガリーに渡ったのは3歳だぜ? 覚えてるわけねえだろ」と嘘をついた。
「覚えてなかったとしても、何も知らないってことはないでしょ。自分のルーツについて……」と引き下がる男を、通りから、呼び止める声があった。
酒井だ。手にはスマホのカメラをこちらに向けている。
「おじさんさぁ、俺たちコイツと遊ぶ約束してんだわ。邪魔なんだよね」
その後ろから、笹森が顔を出す。
「軽犯罪法第1条28号
『他人の進路に立ちふさがって、もしくはその身辺に群がって立ち退こうとせず、または不安もしくは迷惑を覚えさせるような仕方で他人につきまとった者』
あなた、これに該当しますよね」
男は余裕を表現するように鼻で笑ったが、ほんの一瞬、目を泳がせた。
「君たち、それで大人を出し抜いたつもりか?」
酒井が冷然と答える。
「別に、なんだっていいよ。ユーゴは15歳の一般人で、俺たちの友だちだ。邪魔だから帰ってくれって」
「一般人? ショパン・コンクールの出場者だよ? 【消えた神童】、【ピアニストの死神】、【音楽の悪魔がパガニーニの次に選んだ子ども】、その呉島 勇吾が一般人だって?」
男が嘲るような大声でそう言うと、参道の雑踏が、にわかにざわめきを強めた。何か揉め事が起きているというのが衆目の関心を引き始めたらしい。
「そのコンクールの出場者というのは、いつから公人になったんですか? とにかく、これ以上は警察を呼びますよ。証拠の動画もある」と笹森が反論すると、男は小さく舌打ちをした。
「君ら、あんまり大人の仕事を邪魔するもんじゃないよ」と捨て台詞のように吐き捨て、背を向ける。
「子どもの遊びも邪魔すんなよ」
酒井が男の背中にそう浴びせて、周囲を見渡す。
──「呉島 勇吾?」「ショパン・コンクール?」「テレビで見た!」──
参道を通る人混みの中から、そういう声と共に、好奇の視線がスマホのカメラを通していくつもこちらに向けられていた。
「気味が悪いな」俺は思わずつぶやいた。
酒井は俺に笑いかける。
「『逃げきった方が勝ち』って戦いもあるよユーゴ。俺は笹森さんと回るから」
ね、と酒井が隣の笹森に顔を向けると、笹森は恥ずかしそうにうつむきながら、しかしそれと分かるようにうなずいた。
「そうか。そういうやり方もあるんだな」俺は篠崎の腕を掴む。
「行こう、篠崎」
篠崎は慌てて地面から巾着を拾うと、俺を見下ろして、うなずいた。
白地に目の醒めるような紅い椿を散らした浴衣に、老竹のような深い緑色の帯を締めて、まだ冷めやらぬ怒りの余韻を振り払いながら、気持ちの置き所を探しているように見える。
「お前の浴衣、綺麗だよ」
俺はそう言って、駆け出した。