7-2.そういうわけで、浴衣が必要でして/篠崎 寧々
お昼過ぎに部活から帰ってくると、お母さんとお姉ちゃんがテレビに食い入っていた。
私が帰ってきたことに気付いたお姉ちゃんが、慌ただしく私を引っ張り、テレビを指す。
チャンネルはお昼のワイドショーで、画面の右上にはこうあった。
──ショパン国際ピアノコンクール本選出場ピアニストがホストクラブで生演奏披露! 酔客にワインを浴びせられたまま……──
あの動画だ……とすぐに分かった。
お姉ちゃんの話では、今まで、コンクール予選の映像が流れていたそうだ。
私はそっちが見たかった!
「今年の4月、ショパン国際ピアノコンクールの予選会場──ワルシャワフィルハーモニーホールに呉島 勇吾が現れたことで、クラシック・ピアノの世界には激震が走りました。
彼が演奏を終えると、客席は総立ち。スタンディングオベーションです。あり得ません。予選ですよ?
クラシックファンなら誰もが探していた、そして、現役のピアニストなら誰もが、二度と現れて欲しくないと思っていた、『ピアノの悪魔』です」
40代くらいの、クラシック音楽ライターだという男のコメンテーターが、まるで自分のことのように自慢げに言った。
強く噛んだ奥歯から、ギリッと音がした。
お母さんが、テレビのリモコンを掴んでチャンネルを替えようとしたけど、私はそれを止めた。
お母さんが抗議するような、懇願するような目で私を見る。
「お母さんイヤだよ。人のこと、悪魔なんて……」
司会が、まるでざまぁみろとでも言うみたいに、「ところが、その天才ピアニストが現れたのは地方のホストクラブでした。こちらをご覧ください」と、VTRの合図を出した。
「観てて、お母さん。めちゃくちゃカッコいいから」
そういう私の目の前で、液晶画面の中の呉島くんは、女の喚き声と、ワインを浴びる。
また、奥歯がきしむ。
「どうして……こんな酷いこと……」
お母さんが呟いた時、呉島くんは、鍵盤に指を落とした。
はやし立てるように状況を説明するナレーションも、酔っ払いの女も、前髪から滴るワインも、何もかも、「関係ねえ」と言っているみたいだった。
「ラ・カンパネラ……?」とお母さんは言った。
「知ってるの?」
私は聞き返す。お母さんも、私と一緒で音楽なんか全然知らないと思っていた。
「すごい有名な曲だよ。ほら、お婆さんのピアニストが……」とお母さんが言いかけた時、VTRがパッと飛んだ。
「あっ……!」
フルコーラスで流しなさいよ! と──その言い方が正しいかはさておき──私は不満の声をあげたが、その隣で、お姉ちゃんは感嘆の声を漏らした。
「すごっ……」
呉島くんの両手が、柔道の乱取りみたいな速さで鍵盤を掴んでいく。
宝石に乱反射する光の瞬きを残さず音でとらえたような、キラキラした短い音符がものすごい速さできらめいて、最後の和音が鳴る。
私の好きな人は、悲しいだけの人じゃない。そのことを、私の家族にも知ってもらいたかった。そしてそれはすぐに、そして確かに伝わった。
──「今日、広く演奏されている『ラ・カンパネラ』は、『パガニーニによる大練習曲』の第3番です。これも大変な難曲ではありますが、彼が弾いたのは、これの初版にあたる、『パガニーニによる超絶技巧練習曲』の第3番。
これは、作曲から200年近く経とうという今日まで、史上最も難しいとされる曲で、録音したピアニストはいまだに10人もいません」
ライターは熱のこもった口調でそう言いながら、「あ、ちょっと、そこで止めて下さい」とワイプで流れていた動画を止めるよう、慌てて指示する。
画面には、背中越しに呉島くんの左手が映っていた。
「この曲は、手の大きさそのものを要求するような場面も多いんです。リストという人はべらぼうに手が大きいピアニストでしたから。
一方で、呉島 勇吾というのは、それほど手の大きいピアニストではありません。15歳の日本人ですからね。でも、分かりますかね、この、手、届いてるんですよ。12度。画面ではファから1オクターブを超えてドまで。当然、間の音を押さえながら。これね、親指の関節を外してるんですよ」
興奮気味にそうまくし立てるライターの解説に、スタジオがどよめくのと一緒に、お姉ちゃんとお母さんも息を飲む。
私はもう、驚かなかった。彼なら、そのくらいのことはする。
「細かい音符が、粒立って聴こえるでしょ? あり得ませんよ。スマホのカメラで。普通は音が潰れます。撮られてるのを意識したんじゃないかなあ。それ用にタッチを変えたのかもしれません。そのくらいのことは平気でやるでしょうね」──
「ちょっと、何でしょこの子」と、お姉ちゃんが私の顔を覗き込む。「何でアンタが得意そうな顔してんのよ」
「だって、超カッコいい。酔っ払いがお酒かけてきて、ムカつくけど、許せないけど、それをピアノだけで黙らせるのがカッコいいんだもん」
「まあ、確かに、カッコいいけどさ」
お姉ちゃんがそう言うと、私はふふん、と鼻を鳴らした。
「お母さぁん! ネネがドヤるー!」
お母さんに言いつけるみたいにお姉ちゃんが私をからかった。
でも、お母さんは目尻を拭っていた。
「そりゃ、そうだよね。強くなくちゃ、生きていけなかったよね……」
私は胸を張った。
「でも、もうこれからは、あの人の周りに楽しいことがたくさん起こる。そういう予定です」そう言ってから、仰け反った背を丸める。「そういうワケで、明日お祭りに行くための浴衣が必要なのですが……」
✳︎
合宿の4日目、私は呉島くんにキスをした。思い出すだけで頭が沸騰しそうになる。
唇が離れた時、呉島くんは、何か「納得した」というような表情をしていて、驚いたり、慌てたりするのかな、出来れば照れたりしてくれたら、すごく嬉しいな、と思っていた私にとっては、それが意外だった。
「ごめんね……いきなり……でも、こういう気持ちなの」
私がそう言うと、呉島くんはうなずいた。
彼が何かを言おうとした時、部の先輩たちが大声で19時を知らせた。
「シンデレラ! どっかの国では12時だ!」
もう少しだけ、待ってほしいとお願いしようとしたけれど、呉島くんは、それを遮った。浜沿いの細い道路に、彼が呼んだタクシーがつけていた。
「音楽っていうのはな、『時間芸術』だ。音楽家は時間を守る」
それから、彼は笑った。彼が笑顔を見せることは、今まで数えるほどしかなかったけれど、この日はそれが何度も見れて、私は嬉しかった。
「お前はすげえな。何回俺を救えば気が済むんだ? 帰ったら、会って話そうぜ。今まで考えていたことが、やっと、なんとか説明できそうだ」
──「おい! ちょっと!」
お姉ちゃんの声で、ふと我に返る。
「何を『恋する乙女』顔してんのさ! 腹立つねこの子!」
私は顔を隠して、前髪を手ぐしでくしくしやった。
お姉ちゃんはクローゼットから、浴衣と帯を出して、私に見せる。
「かわいい……」思わず声を漏らした。
浴衣を買って欲しいというお母さんとの交渉は、「持ってるでしょ」の一言であえなく決裂した。
私の浴衣も金魚の柄の可愛いやつだけど、ちょっと子供っぽすぎる。
強烈に駄々をこねて徹底的に戦うべきかと少し頭を巡らした。高校生にもなって、この身体で駄々をこねたら、きっと困るぞ。もう浴衣を買うしかないぞ、と私が腹を決めて、床に仰向けになろうとしたその時、お姉ちゃんが、「私の貸してやるよ」と言ってくれたわけだ。
お姉ちゃんがベッドの上に出してくれた浴衣を見て、「でも、いいの?」と聞く。
「お? 何だ? 挑発してんのか? いないんだよ! 相手が! わざわざこんな面倒くさいもんを着て見せるだけの相手がさぁ!」
「お姉ちゃんかわいいから、すぐ彼氏できるよ!」と私は慌ててフォローを入れたが、これはかえって相手を刺激したようだった。
「はるか上空から気休めを吐くんじゃないよ!」
ダメだ。だいぶやさぐれている。
「あー……ありがとう! 借りるね!」
私は浴衣を抱えて、そそくさと部屋を出ようとしたが、その背中をお姉ちゃんが呼び止めた。
「あんたの好きな子、ステキだと思うよ。でもね、あんた、あの子の付属品みたいになるんじゃないよ」
私はその言葉の意味を上手く飲み込むことができなかった。
ただ、やけに耳に残る言葉だった。