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悪童ピアニストと内気な剣道女子のための叙情的組曲【書籍2巻発売中】  作者: 福太郎
第7曲「2つの声部が対等に独立するように」
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7-1.カンパネラ・パンデミック/呉島 勇吾

 海沿いの町から帰って3日経った月曜の昼過ぎ、社長から電話があって、テレビを点けてみろと言う。


 この家の不便なところは、かつてピアノ・バーだった地下と、地上の入り口が直接つながっていないことで、普段観ないテレビを観るために、わざわざ一度外へ出て、別の入り口から地上2階建の生活スペースに入り直さなければならなかった。


 風呂に入る以外にはほとんど使っていない生活スペースの、一応寝室とされている部屋に入ると、パイプベッドに座って、テレビの電源を入れた。


 あまり放ったらかしにしていたせいか、画面が映るのに時間がかかった。社長の指定するチャンネルをつけると、昼のワイドショーが流れていた。


「あ……」と思わず声を漏らした。俺だ。


 興奮した女が、俺の頭にワインを浴びせる様が、画質の悪い動画で流れている。


 画面の中の俺は、ヤナーチェクの『草陰の小径(こみち)にて』の終曲、『梟は飛び去らなかった』を弾き終えると、女の顔をちらりと見て、再び鍵盤に指を落とした。


「なかなか、いい絵だ」と社長は言った。


「あんた、これを狙ってたのか?」


「今時、ネットの力を利用しないなんて経営者としてはあり得ないからね。ただ、これだけセンセーショナルな映像になるとは、さすがに予想していなかった」


 ああいう場所で俺のようなヴィルトゥオーゾがピアノを弾けば、勝手に動画を流すヤツは必ず現れる。酒の供される店で未成年者が芸を見せるということ自体が、スキャンダルの要素を孕んでいて、しかし当然、社長や、社長とつながっているあの店の店長には、理論武装の用意があった。


 そもそも、俺と事務所の間に、雇用関係はない。

 契約上は、俺が依頼して、事務所が集客やステージのセッティング、それに関わる雑務の諸々を代行し、俺は客から払われるギャラの何割かを、事務所に支払うという形になっていた。


 俺とあの店の店長とは元々知り合いだったということにされ、俺はたまたまピアノを置いている知り合いの店で、練習がてらピアノを弾いただけなのだそうだ。


 未成年者雇用の厳しい制約や、使用者責任を逃れるためだ。


 代わりに俺はああいう場所でフロアを沸かすという得難い経験をしたし、逆にいくら気持ちを込めようが伝わらない曲や表現があることを知り、女に酒をブッかけられたことにさえ目をつむれば、無用なトラブルに巻き込まれることもなかったという点で、利害は一致していた。


 そうした対応はすでに功を奏していたらしく、ニュースでは、事件性はないことが繰り返し伝えられていた。


「リストの『ラ・カンパネラ』というのは、実はいくつか種類があるんですよ」

 画面の中でそう言ったコメンテーターに見覚えがあった。ショパン・コンクールの予選を終えた後、俺の取材に来た音楽ライターとかいう男だ。


 ライターは『ラ・カンパネラ』が、元はニコロ・パガニーニの『ヴァイオリン協奏曲第2番』の3楽章を、リストが編曲したものであること、リストは現存するだけでも、この主題で4曲のラ・カンパネラを書いていることに言及し、俺の弾いたラ・カンパネラがどういう曲で、呉島 勇吾というピアニストがどういう演奏家であるかということを、当の本人が赤面するほど熱のこもった口調でまくし立てた。


「ベラベラしゃべりやがって」

 思わずそうボヤく。


 それから、確認される限りの俺の略歴や、パリでの演奏会以来、公のステージに立っていないこと、ショパン・コンクールの予選を抜けたことなんかが感嘆符付きで紹介されると、「今後の活躍が期待されます」という、司会の平凡な締めで、ワイドショーは次の話題に移った。


「いやあ、すごいもんだね、テレビ屋というのは」社長は電話口でそう言った。

「取材が出来ないことを逆手にとって、逆に『謎だ』ということを情報として売り出したわけだ」


「真樹がブチキレるんじゃねえのか?」

 俺がそう言うと、社長は一層愉快そうに笑う。


「彼女は、少々保守的すぎる。君を、なるべく世間の目に触れないようにマネジメントしようとしていた。

 私はピアニストとしても経営者としても三流だからね、良くも悪くも誤算の多い人生だったが、彼女があのやり方で、これだけの仕事を持ってきたことは、その中でも特に大きな誤算だった。しかし、いつまでもこんなやり方ではいけない」


「だから、真樹を外すことにしたのか」


 俺が問い詰めると、社長はおどけた調子で答えた。


「いやいや、今は君の仕事を減らしてるからね。あれだけの営業力を持った社員を、君の家政婦にしておくわけにはいかない」


「まあ、それはそうだろうな」と俺は顔をしかめた。


「なに、少しの間さ。それより、コンクールの方を心配すべきだ。見ての通り、【消えた神童】は再び現れた。さぁ、ケツに火がついたぞ、呉島 勇吾。もう、どこにも逃げ場はない」


「クソったれが」

 俺は静かに毒づいて、電話を切った。

 ハナからそのつもりだ。俺は誰からも、何からも逃げない。


  ✳︎


 俺はその夕方、真樹に電話をかけた。

 真樹はすぐに電話に出たが、忙しいの一点張りだった。


 彼女は今、東京で別のピアニストを担当させられているらしかった。


 1件の仕事が俺ほどデカいピアニストというのは、世の中にそういるものではない。

 今までと同じ業績を残すには、これまでの何倍も件数を挙げねばならず、そのためにはさらにその数倍の行動量が求められるのだという。


 そもそも、俺と他のピアニストでは客層も、提供できるサービスも違う。


「戦闘機用のターボエンジンを売ってたのに、家庭用洗濯機の売り場に飛ばされたような気分だよ。『回る』ってことくらいしか共通点がねえ」と真樹は言った。


「大変だな。身体を壊すなよ」と俺が言うと、真樹は電話の向こうで、しばらく沈黙した。


 それから、こう言った。

「パンデミックに備えろ」


「パンデミック?」


「お前はもう、世間に見つかった。お前の名前はこれから、伝染病のように広がっていくだろう。そうなれば、色んなヤツが、お前について、好き勝手なことを吹いて回るようになる。相手は何千何万の傍観者だ。今までのようにキレて手でも挙げた日にゃ、もう、ガキのケンカじゃ済まされねえぞ」


「俺はピアニストだ。誰が何人相手だろうと、ピアノでブチのめす」


 俺がそう言うと、再び、真樹は少しの間黙り込んで、それから言った。

「9月中には戻る。ワルシャワで大暴れさせてやるよ。てめえ、社長の小細工に乗せられて、つまらねえピアニストになってたらブッ殺すぞ」


「俺が、つまらねえピアニストに? 安心しろよ。俺のピアノは、まだこっから一段階も二段階もハネる。もう、誰も寄せつけねえよ。真樹、俺はお前に、最高の景色を見せてやる」


 ピアニストとしての生命を俺に断たれた真樹に、俺は一体、何が出来るだろう。

『巡礼の旅』から帰って以来、このことをずっと考えていた。


 結局、行き着くところは一つだった。ピアニストであることを諦めて、マネージャーとして生きることを決めた真樹を、俺が、最高のピアニストの最高のマネージャーにすることだ。


「ところでよ……」と俺は切り出した。

「祭りに行くとしたら、男も浴衣着た方がいいと思う?」


「てめえっ! デートの服考えてんじゃねえよ! 死ねっ!」

 罪人の首を刎ねるように、真樹は電話を切った。

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