6-9.私はこういうふうに、あなたのことが好きだ/篠崎 寧々
呉島くんと連絡がついた時、私はメッセージアプリの通知を切った。
「ソイヤッ」の嵐でグループラインが埋め尽くされたからだ。
ケーキ屋さんで、2人でケーキを食べた後、呉島くんは本当に、30人前のケーキをお土産に買った。
「これから帰ります」と部員のみんなにメッセージを送ったところ、みんなを代表してか、部長から指示があった。
「その男を連れて来なさい」
私が返事をする前に、グループラインは再び阿鼻叫喚の大騒ぎになった。この剣道部はみんな、シャイなくせに男の子に興味津々なムッツリ集団なのだ。
しまいには「若い男の匂いが嗅ぎたい!」などと妖怪みたいなことまで言い出す始末だった。
「あの……」
私が呉島くんに声をかけると、彼は優しい目で私を見た。
「どうした?」
「みんなが、呉島くんに会いたいって」
「みんなって、剣道部の?」
「うん」
私がうなずくと、呉島くんも、納得したみたいにうなずいた。
「そうか。挨拶をするってことだな。それが礼儀ってやつか。『敬意を払う』ってことだ」
「いや、そこまで、大袈裟なことでは……それに、忙しければ……」
「いや、俺の、『巡礼の旅』は終わったそうだ」と、呉島くんは言った。
巡礼の旅……? 私はその響きに、何か不吉なものを感じた。彼が、なぜこんなところにいるのか、私はまだ、何も知らない。
✳︎
ケーキをビッシリ詰めた箱を3つ、2人で抱えて、呉島くんが拾ったタクシーに乗り込み、合宿所に着くと、玄関では部員たちがビシッと横3列に並んで待っていた。
呉島くんは不器用な感じで頭を下げて、みんなに敬語で挨拶し、お土産のケーキを渡すと、列中に、いろんな種類のどよめきが起こった。
その様子を訝しんで玄関に出てきた顧問の先生は、そこに呉島くんがいるのに驚いて、事情を尋ねた。
彼は、おそらく入り組んだ事情の、どこまでを説明すべきか考えるような間を開けて、「修行に出てたら、剣道部も近くで修行してると聞いて、ケーキを買ってきた」と大胆に要約した。
先生は「それはそれは……」と恐縮しながらも、私と呉島くんの間にある空気を察したようだった。「俺はここの部員が自分の娘だったら、と親御さんの気持ちを想像しながら接するようにしている。19時まで。それ以降はダメだ」
合宿所の食堂で、呉島くんの買ってくれたケーキをみんなでお話しながら食べたあと、私は裏の砂浜に、呉島くんを連れ出した。
私と呉島くんの間で連絡がついた時、部員たちはそれぞれの持ち場を離れて、まっしぐらにこの砂浜に殺到したが、海に入ったり、砂に埋もれたりして1時間も遊ぶと、急激な疲労が押し寄せて、ぽつりぽつりと撤収したそうだ。
私たちは、砂浜に下りる階段の途中に腰を下ろした。
太陽が、水平線に近づいていた。
「この砂浜を何回も全力で走ったんだよ。すごくキツかった。いつ終わるか教えてくれないの」
「それは、考えただけで眩暈がするな」
「呉島くんは、いつ、こっちに来たの?」
「月曜だ」
「うそ……一緒だよ!」
私はなんだか、すごくもったいない気持ちになった。
「そうだったのか。俺はその前の週が忙しくてな。仕事を入れまくってたから」
「お仕事、入れないんじゃなかったの?」
「まあ、売り上げゼロってわけにはいかねえからな。一週間にまとめて稼いだ」
『売り上げ』という言葉に、私は少し怯んだ。同じ歳の男の子の口から出る言葉だとは思えない。同じ世界に生きていても、見ている世界は違うように思えた。けれど、そんなことは関係ない。
「あの、動画を見たよ。お酒を頭から……私……許せない!」
「あぁ……あれは、普通にムカついたな。この数日の出来事の中じゃ、わりとマシな部類だったけど。何にせよ……」
「あれが、マシ?」私は愕然として、思わず呉島くんを遮った。
酔っ払いの女に意味もなく罵倒されて、頭からワインを浴びせられるのが、マシだと?
「あー……」と、呉島くんは躊躇した。
「教えて。何があったの? この数日で、何が呉島くんを傷つけたの? 私は、それが知りたい」
「いや、別に今となっちゃ、どうってほどのことでもねえんだよ」
呉島くんは、海の向こうを遠く見つめている。
怒りにも近い熱さが、胸の内側に広がって、呼吸が苦しくなった。私はそれを吐き出すように言った。
「ねえ、聞いて。私、呉島くんが、好きだよ。でも、私はあなたが強いから好きなんじゃないよ。例えあなたが負けても、弱くても、傷ついても、私はあなたが好きなんだよ。
だから、傷ついてないフリをしないで。あなたの痛みを、私も背負う。私は、それに耐えられるだけの十分な力を持っている! 私は強いんだ! ナメるなよ! 呉島 勇吾!」
なんだか興奮してしまって、やたらと強い口調になってしまったことが、後からだんだん恥ずかしくなってきて、私は顔を伏せた。
「真樹を殺したのは俺だ」
呉島くんは、そう言った。
「え?」
想像していたのと、全く違う方向から打撃を受けたように感じた。柴田 真樹。彼のマネージャーだ。
「あぁ、いや、もちろん、本当に、生物学的に殺したわけじゃねえ」
「それは、もちろん……」と言いながらも、内心胸を撫で下ろす。
「今回のコンクールを除けば、俺が公のステージに立ったのは、10歳のころ、パリのコンサートが最後だ」
私はうなずいた。客席からヤジが飛び、彼は椅子を蹴倒して、ステージを去った。
「真樹は、その客席にいたそうだ。そのころ真樹は、俺が今いる事務所と契約していた。駆け出しのピアニストとして。
あいつがマネージャーとして俺の前に現れたのは、それから一週間たらずのことだ。
俺が今の事務所と契約したのは7歳の頃だったと思うが、その時な、社長は言ったよ。
『君はたくさんのピアニストの、音楽人生を終わらせた。これからもそうだろう』ってな。
俺は、ピアニストとしての真樹を、殺したんだ」
もしかしたら、と私は思っていた。
「でも、どうして、マネージャーに? 呉島くんのピアノに打ちのめされて、ピアノを諦めたとして、自分のピアノ人生を終わらせた人のマネージャーなんて……」
「さあな。俺んとこの社長も、だいぶイカれてっから。マネージャーだって楽な仕事じゃねえ。それをやり切る覚悟でも、見るつもりだったんじゃねえのか?」
「そんな、残酷なこと……」
「そういうものが、人を強くすると思ってるのかもしれねえ。現に、俺たちはこれで、互いに喰いも喰われもせずやってきた。思えば互いの強さを認め合ってたようにも思える。そういう意味で、俺は、アイツを信頼してた。
信頼してた人間に裏切られるのは辛えよ。けどよ、信頼してた人間を、実は自分が傷つけてたことの方が、俺はずっと辛えんだわ」
「頭から、お酒をかぶることより……」
「ああ。ここ数日、ほんとに色んなことがあった。俺は、俺を売った夫婦の実の子どもじゃなかったし、実の母ってのもやっぱり俺を捨ててた。俺を買って持て余した末、ハンガリーに飛ばした教授にゃガキがいて、いくら積まれても自分の子どもは売らねえそうだ。
どれもクソみてえな出来事だったが、俺はそれよりも……」
私は彼を抱きしめた。
「それよりも、自分が人を傷つけたことが辛いの?」
「ああ……そうだ。言っちまえば、俺のことなんてのは、どんだけ重なろうが所詮過去のことだよ。俺は捨てられた。それが1回だろうが2回だろうが、大して変わりゃしねえ」
私は呉島くんの体を離して「こっちを向いて」と、お願いした。
「あなたは、辛いことに、慣れすぎたんだよ。自分が傷つけられて、平気なわけない。
どうしてあなたは、そんなに暗くて寂しいところにいるの? あなたは、そんなところにいていい人じゃない。そんなこと、私は絶対許さない……!」
嗚咽が混じって声が震えた。
「おい、どうして、お前が泣くんだ?」
呉島くんは、戸惑ったように言う。
「泣いてない」と私は言った。
彼は優しい人だから。私が泣いたら、彼は私のために、また苦しみを抱え込んでしまうから。
「おい、泣かないでくれ……」
今まで見たこともないくらい、慌てふためいて、彼はおろおろと私の肩や、背中をなでる。
「泣いてないよ……」と震えるように言ったが、堪えていた涙がポロリと落ちた。
その時だった。鍵盤を叩いて、それから音が出るように、呉島くんの目から、涙が零れた。それは、夕陽を照り返して、ほんの一瞬、宝石みたいに輝いた。
「お前が泣くと、俺は悲しい……」そう言ってから、呉島くんは、遠くを見た。「ああ、そうか。俺はずっと、悲しかったのか……」
私は、自分が何をしたくて、どうすべきなのか、その時自然に理解した。水着の写真を送るとか、試合の動画を見てもらうとか、頭で考えたことは、全部不発だった。だって、私がしたいのは、そういうことじゃなかった。
「好きにも、いろんな種類があるって、呉島くん、言ったよね」
「ああ。言った」
私は呉島くんの頬に手を触れて、顔を近づけると、彼の唇に、自分の唇を重ねた。
不思議だった。こんなことをするのは生まれて初めてなのに、そのやり方を、ずっと昔から知っているみたいだった。
「私はこういうふうに、あなたのことが好きだよ」