6-7.あなたはそんな所にいてはいけない/篠崎 寧々
その日の朝、合同稽古の相手が、私たちの合宿所に到着した時、私たち互恵院学園高校剣道部は、怯んだ。
髪を、染めている。一人残らず。耳にはピアス。
県立創世高校といえば、県内では上から3番目くらいの公立高校だそうだが、公立校ながら自由な校風の私服校だというので、人気があるそうだ。
彼女たちがバラバラと体育館に入る時、礼をするたびに、赤だの青だの緑だの、染めた髪が色とりどりに揺れて、目がチカチカした。
その中の一人が、ウチの部長を見つけると、「アヤカー!」と声を上げて駆け寄って来た。金髪にパーマをかけた、こなれた大学生みたいな女の人だった。
「やあ、マキノ。最近は、勝ち上がっているそうだな」
部長がそう言うと、マキノと呼ばれた女の人は、抱きつくように部長すり寄った。
「最近、ウチらも剣道ガチってっからねー! てか、肌ヤバ! マジ美人。彼氏出来た?」
「いや……稽古漬けで、出会いもないしな」
部長が押されている。こんな部長を見るのは初めてだ。
「いや、もったいねーから、マジで! ウチ、その顔だったら男50人喰ってるわ」
マキノさんは、高い声でケラケラと笑った。
私は何か圧倒されて、その様子を眺めていたが、「ネネ」と呼ばれてハッとした。
「ミウちゃん……」と、その声の主に目をやる。
中学最後の団体戦で副将を務めた、相馬 美雨。彼女もまた、自由な校風にすっかり染まっているようだった。
耳たぶから金色の細い鎖を垂らし、髪の毛先の方が赤い。
「ネネ、変わんないねー」
ミウちゃんは、そう言いながら、手を伸ばして私の頬を両手ではさんだ。
「デッカくて、かわいい」
「ミウちゃん、私、最後の試合の時……」
私がそう言うと、ミウちゃんは、驚いたように目を丸くした。
「えー? そんなの、まだ気にしてたの? 膝も、もう治ったんでしょ?」
「うん、でも、私のせいで、チームが負けて……」
「そんなの別に、ネネのせいじゃないじゃん。他で勝ってればよかっただけで」と言ってから、彼女は記憶を辿るように視線を泳がした。
「あー、でも、試合の後しばらくは、複雑な心境だったかもね。みんな最初から、『ネネは勝つ』って信じ込んでたから。そうならなかった時に、誰を責めたらいいか分からなくて、しばらく気持ちを消化できなかったかも」
「私が、みんなの信頼を、裏切ったから……」
「違う違う。『ネネが負けても、自分が勝つ』って気持ちがなかったから負けたんだって。『ネネが勝つから、自分はこれくらいでいいや』って甘えが、みんな少しずつあったんだよ。それが分かってたから、複雑な気持ちだったんだ」
「じゃあ……」
私はそれきり、言葉が出なかった。
「それよりさぁ、今日、稽古の後、合コンあるんだけど、来ない? ネネがいたら、絶対盛り上がるよ。外出できるの?」
「合……コン?」
私は話の落差と、その単語の魔力に圧倒された。合コン? とは? それは、大学生や、大人がやるヤツではないのか?
「いや、え? あるでしょ普通。高校生にもなれば」
「え……いや、縁もゆかりも……」
「うっそ……互恵院ヤバ……」
後ろを振り返ると、ウチの部員たちは揃ってアングリと口を開けていた。
「先生! 少々、ミーティングの時間を頂戴してもよろしいでしょうか! 5分で終わります!」と部長が叫んだ。
先生がそれを許可すると、体育館に創世高校の部員たちを残して、部長は私たちを、更衣室に集めた。
部長は自らを落ち着かせるように、深いため息をついて、話し始めた。
「彼女たちに、悪意はない。髪を染めるのも、アクセサリーをつけるのも、合コンとやらに精を出すのも、彼女たちの学校ではルールの範囲内なのだろう。彼女たちは、彼女たちのルールと常識の中で、青春を謳歌しているに過ぎない。
自分たちの苛烈な境遇と比べて、他人を恨むのは愚かなことだ。誰も恨んだり、憎んだりしてはいけない。そして、その上で言う。
皆殺しだ! 一人も生かしてここから帰すな!」
「ハイ!」
私たち互恵院学園高校剣道部、29人の部員たちは、部長を中に、雨雲のむらがるごとく、空気が歪んで見えるほどの殺気を込めて、再び体育館に押し出すと、溝を溢れた泥水が、くぼ地くぼ地に引かれるように、それぞれの持ち場で竹刀を振り始めた。
──その日の練習試合、私たちは部長の注文通り、29勝0敗の大勝を挙げた。
✳︎
「いやぁ、互恵院、ヤバすぎるわ!」
マキノさんが部長の肩を叩いた。
「どうだマキノ。ウチの部員は強いだろう。だが、私たちもまた、刺激を受けた。色々な意味でな」
私はそれを聴きながら、内心うなずいた。創世高校剣道部は、決して弱くはなかった。彼女たちなりに、真剣に取り組んできた稽古の跡が、立ち合いの端々に見えた。
ただ、今回の試合にかける私たちの意気込みが、ヤバすぎたというだけだ。
それに、彼女たちは、互恵院学園が、県内屈指の名門女子剣道部だということを承知の上で、合同稽古を申し込んできたのだ。
彼女たちは誰一人として、気落ちしている様子はなかった。まあ、この後合コンがあるからかもしれないけど。
先生たちが体育館を出て、創世の部員が帰り支度を整える間、一足早く着替えを済ませて、スマホを見ていたミウちゃんが、唐突に声をあげた。
「え、コレ、互恵院の生徒だって、『呉島 勇吾』? ヤバっ!」
私は思わずビクッとした。ウチの部員全員が反応し、「なになに?」とミウちゃんに群がる。
「ピアノ。てか、これ、ホストクラブ?」
私は駆け寄って、説明を求めた。
彼女はSNSを開いていて、その記事を見せてくれた。
「酔っ払い女がホストに絡む
↓
なぜか矛先が生演奏のピアニストへ
↓
ピアニスト全無視で演奏継続
↓
女一人で興奮、ワインぶっかける
↓
ピアニスト怒りのカンパネラ」
記事には、その様子が動画付きで、面白おかしく書かれていた。
たくさんのコメントがついていて、それがピアノの歴史の中でも特別に難しい曲だとか、お酒を浴びせた女に対する批判だとかいった中に、以前動画サイトで流れたショパン・コンクールの出場者で、クラシック雑誌の表紙にもなった呉島 勇吾だと特定する内容が書き込まれていた。
「アンタの彼氏、バズってんじゃん」と先輩が言った。
「え? ネネの彼氏? マジ?」とミウちゃんが歓声をあげる。
「いや、まだ、そういうワケでは……」と言いながら、動画を見せてほしいとせがんだ。
ミウちゃんは、再生ボタンをタップした。
テーブルとソファが並ぶお店の中に、グランド・ピアノが置かれている。女の人が、何か喚いている。最初は、その様子を面白がって撮影していたみたいだった。
ピアノの音が、女の喚きにとぎれながらも、かすかに聴こえる。
騒いでいた女がワインの瓶を掴んで、店員の制止を払いのけながらピアノの方まで行くと、ピアノ椅子に座っている人に、頭からその中身をかぶせた。
女が叫びながら横に動いて、その陰からピアニストの顔がのぞいた。
「呉島くんだ……」
「いや、ヒドくない?」
ウチの部員も創世の部員も、こぞって怒りの声をあげる。
真っ赤なワインを頭から浴びて、シャツの襟を赤く染め、前髪からそれを滴らせながら、呉島くんは、少し間を置いて、鍵盤に指を落とした。
最初、緩やかなテンポで、でも金属を叩くような硬質な音で始まったその音楽は、瞬く間に跳ね回るような躍動感で速度を増すと、カメラの視界は、喚いていた女のことなど忘れたように、呉島くんに釘付けになった。そして、私たちも。
「すご……」と誰かが言った。
もう、手がどうなっているのか分からない。腕を交差させたり、同じ鍵盤を電動ミシンみたいに何度も叩いたり、機械のような速さと正確さで、次々と鍵盤を押さえていく。
そして何より不思議なのは、彼の音楽や、ピアノを弾くその姿勢には、言いようのない気品みたいなものがあるのだ。
頭からお酒を浴びせられ、面白がる周りの人たちにはやし立てられ、興味本位の視線と、カメラを向けられながら、どうして彼は、こんなに、華やかで、気高い音楽を、奏で続けられるのだろう。
涙が出て、止まらなかった。マユが背中をさすってくれた。他の部員たちも、私の肩をさすってくれたり、手をつないだりしてくれて、創世の部員まで、私の頭をなでたり、抱きしめたりしてくれた。
私を抱きしめたのは、創世の部長、マキノさんだった。
「ヒドいね。この世には、自分の気持ちしか考えない人が、本当にいるんだね。でも、ネネちゃんの彼氏は、強い人だよ。カッコいいよ。ネネちゃんが好きになるのも分かる」
私は、首を横に振った。
「本当に、まだ、彼氏とかではなくて……」
「そっか。じゃあ、早く、そうならなくちゃね。『彼が傷ついた時には、他の誰でもなく、私が支えて、慰めるんだ』って、胸を張って言えるようにならなくちゃ」
私は、マキノさんの目を見た。それは私にとって、新しい価値観だった。
「はい……」と返事をした時、ミウちゃんが声をあげた。
「この店、市内だ!」
「え……?」
私が驚いて声を漏らすと、ちょうど体育館の外で話していた先生たちが戻って来た。
「創世、帰るぞ」創世の顧問の先生が部員にそう伝えた。
「ヤバ、あとでお店調べて送るわ」ミウちゃんは言って、それをきっかけにしたように、創世の部員たちは帰って行った。
ウチの顧問の先生は、部員のみんなを集めると、うーん……と考え込むようにうなったが、口元に29対0という大勝の余韻が残っていた。
「お前ら、やり過ぎだわ。午後は自由時間。明日、最後の追い込みをかける。それまでちょっと剣道忘れろ」
「奇跡!」と部員たちは歓声をあげた。
それからお昼ご飯をかき込むと、私は合宿所を飛び出した。
その背中に、マユの声がした。
「アンタ、あてもなく飛び出してどうすんのさ!」
「探す! だって、部屋にこもってなんかいられない!」
すると、部長が玄関から顔を出した。
「ネネ! 1時間おきに連絡しろ。部員総出で捜索をかける! 情報があればグループラインで共有する!」
「ありがとうございます!」
私はそう叫んで再び駆け出した。
呉島くん、あの人は、どうして、あんな寂しいところにいるのだろう。悲しいところにいるのだろう。
必ず見つけ出す。あの人は、あんな所にいてはいけない。