6-6.たとえ烈しい雨に打たれても/呉島 勇吾
昼過ぎから雨が降った。それはそれは強烈な土砂降りの雨で、傘をさすのもバカらしいくらいだった。
コンビニで買ったビニール傘が、折からの風で、開いた途端にひっくり返ると、俺はゴミ箱にそいつをブチ込んで、体を雨に晒して歩き出した。
ひび割れたコンクリートの低い塀に囲まれた、古い校舎の前に着くと、俺はそれを眺めた。
ここには、来たことがある。
玄関を抜け、受付に顔を出した。前髪から雨水が滴っている。
夏休みだというのに出勤させられたことが気に食わないのか、職員は無愛想な態度で、俺を怪訝そうに見ると、用件を尋ねた。
「野呂“教授”に、『呉島 勇吾が訪ねてきた』と伝えてください」
俺はそう言って、受付の若い男の職員を睨み返した。
「はあ、どのようなご用件で」
トロ臭い調子でそう聞かれたのに苛立って、俺は声を低めた。
「それは、俺が本人に話すべきことで、アンタの仕事は、そこの電話で教授室の番号を打って、『呉島 勇吾が訪ねてきた』そう伝えることだ。簡単だろ?
会う、会わねえは本人が決めるさ。いいか? アンタがその小せえ頭で考えなくちゃいけないことなど一つもねえんだ。分かったらさっさとやれ」
受付の職員は、その冴えない顔に一瞬強い反感の色を浮かべたが、言い争う時間と体力を惜しんだと見えて、憮然としながらも言われた通り教授室に電話をかけた。
「野呂先生、『呉島 勇吾』さんがお見えです……え? ……はぁ、分かりました」
職員は不思議そうな顔で、戸惑いながら俺を『小会議室B』というのに案内した。
俺はそれが『小』であることも『B』であることも気に入らなかったが、長机の並んだ部屋の窓側に、適当なパイプ椅子を1つ引っ掴んでそれに座った。
「ではこちらで、少々お待ち下さい」
つまらなそうに職員がそう言った時、廊下にどたどたと重苦しい足音が、忙しなく響いて近付いてくると、その足音の主は、俺を見るなり職員を怒鳴りつけた。
「君! 子どもがこんなに雨に濡れて、何とも思わないのか!」
職員は、「いやぁ……はぁ……」と曖昧な返事をする。顔には「自分にどうしろというのだ」と書いてあるようだ。
「いや、いい。俺が雨に濡れたのは、別にその人の責任じゃねえ」
受付の職員が去って行くと、男は改めて、というふうに、俺に向かって満面の笑顔を晒した。
男はやはり、肥っていた。フグのように、顔の面積に対して小さな、しかし丸くぎょろぎょろとした目だけが、俺の頭のてっぺんから爪先まで、ことによれば内臓の具合まで推し量ろうとするように、俊敏に動いた。
「勇吾くん、来てくれて嬉しいよ!」
俺は少々面喰らった。コイツは今、どういう感情なんだ?
しかし、彼が昔を懐かしむような動作を挟みながら、思い出話のようなものを矢継ぎ早にまくし立てるのを聞くうち、彼の認識と意図を理解した。
コイツは、俺が何も覚えていないと思っているのだ。そして、今これから、自分の功績を俺の人生に刻み込もうとしている。
厚かましいにもほどがある。
「あの頃は、こんなに小さくなかったのに……」
手振りを交えて喋り続ける教授の言葉を遮って、俺はつぶやいた。
「300万……」
「え?」教授が動きを止めた。
「忘れたか? アンタが、俺を買うのに払った金額だ。即金で300万。国立大の助教授にしては、奮発した方だろう。
あの時、俺は3歳。覚えてねえと思ったか? 想像力が貧困だぜ。その頃から、俺がどれだけの曲を、耳だけで覚えてきたと思ってる。
もっとも、あの出来事の意味を理解したのは、もう少し後のことだ。3歳児の頭ってのは、親が自分を売るだとか、そもそもソイツらは本当の親じゃねえだとか、そういうことが分かるようには出来てねえらしい」
「それは、誤解が……」
教授は言い訳を始めようとしたが、俺は主導権を譲るつもりはなかった。
「俺の人生が物語になる時、アンタの役どころは何だろうな。少なくとも俺は、ピアノの基礎を叩き込んだ師匠として、アンタを登場させるつもりはねえ。
人身売買の時効ってのは、最長でも10年だって話だ。言い逃れの方便もあるんだろう。だが、世間はアンタの言い訳に、納得するかね。
俺の生い立ちが明らかになった時、アンタはどういう末路を辿る? 俺ぁそいつに興味がある」
教授の顔色が、みるみる青くなっていった。
と、その時、廊下から、またパタパタと駆け寄ってくる足音が聞こえた。教授がこの部屋に駆けつけた時より、ずっと軽く、小さな足音だったが、リズムはそっくりだった。
会議室のドアが開いた。
「パパ!」
大きさからいって、5歳かそこらだろうか、男の、子どもだった。
「タッくん、お仕事だから、来ちゃダメだって……」と教授は青ざめた顔を一層青くして子どもに駆け寄った。
「てめぇ……ガキがいやがったのか……」
腹の底から灼けつくような感情が湧き上がって、叫び出しそうだった。
俺にはその感情が、正確に理解出来た。これは、怒りだ。
「タッくん、大事な、お仕事の話だ。ちょっと、廊下で待ってて」教授はそう言うと、俺に「お願いします……」と頭を下げた。
会議室の扉が再び閉まった時、俺は込み上げる嘲笑とともに吐き出した。
「俺が300万出したら、アンタはあのガキを売るか?」
「……売らない」
「へぇ。じゃあ、3000万なら? 3億ならどうだ?」
教授は首を横に振る。
「だったら少し、前提を変えようか。アンタが、今持っている何もかもを失って、俺を売った連中と同じ、クソ溜めの中にいるとしたら、どうだ? 毎晩稼ぎの悪さを嫁になじられるとしたら? それなら、売るんじゃねえのか?」
「売りません……たとえ、私の命が取られるとしても、あの子は、譲れません……」
「命が取られるとしても……」
「愛しているからです……お願いします。帰ってください……お願いします……」
教授は這いつくばって、額を床にこすり付けた。
俺はその姿が、この男が今まで見せた仕草の中で、一番美しいと思った。そしてまた、激しい怒りに駆られて、椅子から立ち上がると、その椅子の背もたれを掴み、音をたててそれを引き倒した。
「俺はいつでも耳をそば立てている。どいつの首に、死神の鎌を振り下ろせばいいか。アンタの名前が俺の耳に入らねえよう、せいぜい、慎ましく生きていけ」
床に這いつくばる教授のわきを通り、会議室の扉を開けると、子どもがパイプ椅子に行儀よく座って待っていた。
「お兄さんは、誰ですか?」子どもはつぶらな目で、俺を見た。
「悪魔だよ。音楽の悪魔。てめぇの親父を、試しに来た」
「僕のパパはどうでしたか?」
「とんだ期待外れだ」
そう言って、俺はそのガキに背を向けた。
「タッくん!」背後で教授が息子に抱きつく気配があった。
「パパ、あの人は、ピアノを弾くの? パパが教えたの?」
「いいや、あの人は……一人でピアニストになったんだよ……」
父親はそう答えた。
✳︎
薄暗いフロアに落ちるシャンデリアの光を、グラスとその表面についた水滴が反射させて、複雑な陰影を作った。
その夜はいつにも増して客入りは良かったが、客層は悪いようだった。耳に障る高い声で喚く女や、下品な大声で笑う女が何人も、男たちに機嫌を取らせてはふんぞり返っていた。
俺はまた、そういう席の間を抜けて、ピアノの椅子に座ると、鍵盤に指を落とした。
ピアノの前に座ると、やはりいくらかマシな気分だ。
それにこの店の連中は、女を食い物にしているということを除けば、気の良い連中だった。
「癒し系とか泣き系を何曲か弾いて、客が生演奏のBGMくらいに思いはじめた頃にさぁ、ああいう超絶テク見せたらどう? カッコよくない?」
ここの店長は一昨日、俺が初めてピアノを聴かせた夜にそう言い、試しに言う通りやってみると、これが意外にウケが良かった。
ただ、この日は本当に、客層が悪かった。
「ちょっと、何あのガキ! ウケるんですけど! いきなりピアノ弾いてるし!」
金切り声で喚いていた女の矛先が俺に向くと、店員はすかさずフォローに入る。
「ウチの大事なショー・マンだから。ユカさん、イジメないでね」
しかしそれは、かえってその女を刺激したようだった。
「はぁ? ウッザ! おい! てめぇ、アタシんところ挨拶に来いや!」
俺は女の喚き声に構わず弾き続けた。
レオシュ・ヤナーチェクの小品集『草陰の小径にて』第1集より
終曲「梟は飛び去らなかった」
その感傷的な音楽が終盤にさしかかった頃、頭から、水を被った感触があった。酒の匂いがする。ユカと呼ばれた女が、癇癪を起こしてワインか何かを俺の頭からかけたのだと気付いたのは、その曲を弾き終わり、ペダルを放したあとだった。
「ユカさん! やりすぎだって!」と店員が女の腕を掴む。
「あぁ? 放せや!」
俺は椅子に座ったまま、女に首を向けた。
女は一瞬怯むような素振りを見せてから、目をひん剥いて俺を威嚇した。
「おら! 弾いてみろや! くそホスト! もう一本いってやろうか? 高え酒だぞ?」
「その子、ホストじゃないから!」と店員が止めに入るが、女はおさまる様子もない。
客の中の何人かは、面白がってスマホのカメラを向けている。
俺はうなずいた。その一瞬、頭の中に、篠崎の声がした。
──「呉島くんは、ピアノで戦って」──
ああ、戦うさ。たとえ烈しい雨に打たれても。
鍵盤に、指を落とす。
フランツ・リスト『パガニーニによる超絶技巧練習曲』
第3曲「ラ・カンパネラ」
✳︎
ピアノを弾き終えると、店長が俺にタオルをかぶせた。
「ユーゴくん、ごめんね」と耳打ちをする。
フロアの客は俺に視線を集めて、手を叩いたり、喚いたりとだいぶ興奮していたが、俺に酒を浴びせた女は、逆に青ざめた顔で俺を見ていた。
「あんた……気味悪いわ」
女は吐き捨てるように言うと、俺に背を向け、足早に店を去って行った。
店長はその女の担当らしい店員を手招きすると、小声で言った。
「あの女、全力で色恋かけるぞ。確実に堕として風呂に沈めろ」
その帰り、タクシーを待つ間、店長が言った「風呂に沈める」という言葉の意味を聞いた。
それが、彼らホストの戦い方なのだという。
俺は、強烈に篠崎とその家族が恋しくなった。あの無邪気で、穏やかで、優しい人たちの住む世界が、ずいぶん遠く感じられた。