6-5.あなたが雨に濡れているときは/篠崎 寧々
合宿も折り返しに差し掛かる3日目、雨が降った。
突然の激しい大雨で、砂浜を走っていた私たちはずぶ濡れになったが、ある意味では恵みの雨でもあった。だって、喉がカラカラだったし、暑いし、海がすぐ近くにあるのに入れないし、という問題をいっぺんに解決──とまではいかなくとも、まあ、それに近い気分にはさせてくれた。
呉島くんから、返信はなかった。私が一昨日送ったメッセージに、昨日の夕方既読が付いたが、それっきりだ。
それをどう解釈すべきか、私には判断が出来ずにいる。
キリコ先輩の言う「他の女とよろしくヤッてる」という言葉は、私の心をかき乱しはしたが、やはり呉島くんに限っては考えにくかった。
一度仲良くさえなってしまえば、きっと、たくさんの人が、彼を好きになると思う。才能があって、仲間想いで、純粋で、他にも良いところはたくさんある。
けれど、彼の場合その最初の一歩が難しいのだ。
酒井くんやマユみたいに、ずば抜けたコミュニケーション能力や、ある種の厚かましさを持っているか、あるいは私や阿久津さんみたいに(自分をそこにカテゴライズすることに若干の抵抗はあるけど)、何か通じ合うものを持っているか、そういう何かがないと、踏み込んでいけない分厚い壁が、彼の前にはある。
それに、呉島くんは、意外というのも失礼かもしれないけど、実は結構しっかりした貞操観念を持っている。
マユがキスを迫った時にもなびかなかったし、阿久津さんという人は、何人もの女の子に手を出しているそうだが、そのことに呆れているみたいだった。
つまり、ちょっとやそっと、ゆるふわ系のショートボブからキツめのスキンシップがあったところで、呉島くんは揺るがない。……はず。
しかし、そういう諸々のことを、私は一旦心から追い出した。
今は、強くなるために費やすべき時間だ。
明日は他校との合同稽古が組まれている。そして、その学校には、かつての私の仲間がいた。中学校最後の大将戦で、私が怪我をした時の、副将だった子だ。
私はその子が、この隣街に進学したことも、そして剣道を続けていることも知らなかった。
私は彼女に会った時、何を言えばいいのか分からなかった。けど、彼女の前で、半端な試合は出来ない。それだけははっきりしている。
私はこのことを、マユに話した。
「合同稽古の最後に、きっと、練習試合があると思う。私はここで、絶対勝つ」
マユはそれを聞くと、ただうなずいて、私との互角稽古をいつも以上、強烈に付き合ってくれた。
「アンタの上段は、ビビって足が止まればそこで終わりだ。攻めろネネ!」
そうやってマユが励ましてくれたことが嬉しくて、稽古終わりに、私は少し泣いてしまった。
晩ご飯を食べて、軽い筋トレとストレッチをしている時、マユは私に、このことを──つまり、中学最後の試合と、そのチームメイトについて──部員のみんなに話していいか、と聞いてきた。私は、自分で話すと言ったが、「アンタどうせ、卑屈な言い方するからさ」と言って、ストレッチが終わった後で、まずは部長に話を通した。
部長は、私たち1年の大部屋に、部員を全員集めると、マユから聞いた話をみんなに説明した。
「──と、そういう経緯で、ネネが怪我をしたことについて、当時の副将がどう思っていたのかは分からない。恨んでいるのかもしれないし、割り切っているのかもしれないし、最初から何とも思っていないのかもしれない」
それから、落ち着き払って、付け加えた。
「いずれにせよ、我々がすべきことというのは、初めから決まっている。戦って、勝つことだ。それ以外には何もない。
AチームからFチームまで、我々は一丸となって、鬼神のように戦い、そして勝つ。万が一、ネネが負けたとしても、我々はチームとして、それを取り返すだけの十分な力を持っていて、そして、仲間を決して見捨てない。
逆に我々の誰かが負けた時には、ネネがそれを取り返す。私は仲間として、そのようにネネを信頼している」
私はそれを聞くと、しばらくの間、両手で顔を覆ったまま、動けなかった。
部長が視界の外で、「以上、解散」と言うと、部員はみんな、去り際に私の背中を撫でてくれた。
部屋の扉が開いた時、部長は思い出したように、「そう言えば……」と部屋を出て行こうとする部員を呼び止めた。
私は顔を上げた。
「予報によると、明日は晴れるそうだ。この中で、水着を持ってきていない者はいるか?」
部長がそう尋ねて、周囲を見回す。私も同じようにして見回したが、手を挙げている人は一人もいなかった。
「え……みんな持って来てるの?」マユがきょとんとした顔で言う。
私も、何が起こっているのか理解できなかった。ほとんど懇願するように、はしゃいでくれるなと念を押されたのだ。
部長は満足そうにうなずいた。
「よろしい。海を目の前にして、我々、華のJKが、水着も持たずにいるなど有り得ない。這いつくばってでも海で遊ぶぞ。
この北条 彩香率いる互恵院剣道部に、弱卒は一人もいない。明日は相手を徹底的に叩きのめした上で、さらにそれだけの余力があるという、我々の偉容を示すのだ。
そしてその翌日にはさらに苛烈なトレーニングが課されるだろう。それこそが、我々を強くする。全員、地獄を渡る覚悟を決めろ」
「ハイ!」と部員たちは声を揃えた。
「え……部長……」私は何をどう聞いていいかも分からず、そうつぶやいた。
「みんなだって、海で遊びたいに決まってるだろ。その元気がないヤツは、ウチの部には向かない」
部長は平気な顔で言う。
「でも、割とガチめに止められてて……」
マユがそう言うと、部長は笑った。
「トレーニング強度のピークを、どこに持ってくるのかコントロールすることも、部長である私の重要な務めだ。特にネネとマユ、お前たちはキャッキャと男の話をしながら、オーバーワークを平気でするからな。適切で効率的な練習を考えることこそ、本当の努力だ」
「はい……」私とマユはキツネにつままれたような気分で、そう返事をして、去っていく部長を見送った。
窓の外では、まだ、しとしとと雨が降っていて、その雨音の執念深さに、明日が晴れるだなんて信じられないくらいだった。
スマホを開いたけれど、やはり呉島くんから返信はなかった。
私は心配になった。他の女がどうだとか、私が嫌われたんじゃないかとか、そんなことより、彼に何かあったのではないか、という嫌な胸騒ぎがした。
呉島くんは、それまで、遅れることはあっても、いつも返事を返してくれた。
どんなに他愛のない話でも。
それに、例えば私の何かに腹を立てたのだとすれば、きっとはっきりそのことを言ってくれるとも思う。
彼は今、傷ついているのではないか。そういう気がした。
彼はきっと、そういうことを隠す人だ。どんな時も、強くあろうとする人だ。
雨だれが水たまりに落ちる規則的な音が、部屋の中までかすかに聴こえて、寂しい雨の匂いがした。
呉島くんが雨に濡れている時、その身体を温めるのは私でありたいと思った。
「マユ、私が戦ってるところ、動画に撮って」と私はマユに言った。
マユは私の肩に拳を押し当てた。
「分かった。負けんじゃねえぞ」
彼に、伝えなければと思った。
呉島くんは、いつも何かと戦っていて、誰かが助けてくれるとは考えない。
弱みを見せれば漬け込まれ、牙を剥かなければ噛み付かれる、そんなふうに思っている。
私には、助けてくれる人がたくさんいるよと伝えたい。そして、あなたにとって、私がそうだと伝えたい。
けれど、私はそういうことを、上手く伝えられそうにないから、みんなに支えられて、戦う姿を見せるのだ。