1-5.敬意について/呉島 勇吾
4時限目、英語の授業が始まって少ししたころ、教室のドアにノックの音が鳴って、担当の教師が短い間、廊下に出ると、戻って来て俺を呼んだ。
「呉島、校長が話聞きたいってよ」
「昼に及川とって話だったけど」
俺が言うと、若い男の教師は、苦笑した。
「及川“先生”な。その一言を付け加えるだけで、無用のトラブルから一つ解放されるんだ。コスパだよコスパ」
「なるほど。納得出来る」
校長は進路指導室で待っているというので向かっていると、トイレの方から慌ただしい足音が聞こえた。
女子トイレから飛び出してきたのは、昨日、絆創膏を貼ってくれた、背の高い女だった。確か、篠崎 寧々。
改めて見ると、本当にデカい。180センチはあるんじゃないだろうか。
「あ……呉島くん」と女は言った。
俺はすぐに状況を整理した。すでに授業は始まっている。彼女はそれを推してもトイレに行かなければならない窮地から、たった今脱してきたところだ。
「大丈夫か?」と俺はたずねる。
「え……何が?」キョトンとした顔で、彼女は聞き返してきたので、俺はさらに想像を働かせた。
「いや、大丈夫だ。日本ではそういうのを恥ずかしがったり、からかうヤツまでいると聞いたが、俺は外国育ちだし、偏見はない」
「ちょっ……違う!」と篠崎は声をひそめながらも強く否定した。
「我慢して、体調が悪化したら元も子もねえ。まあ、落ち着いたから出て来たんだろうが、ムリすんじゃねえぞ。それは努力とか、そういうもんとは別の話だからな」
「違うから。もし、お腹が痛かったら、その時はそう言うし……いや、恥ずかしい気持ちがないわけじゃないけど……今のは本当に……」
彼女がしどろもどろに言うので、俺はこれ以上は深追いしない方が彼女のためだと考えつつ、それと同時に一つの疑問がわいた。
「あのさ、昨日のこと、誰か教師に話したか? 俺の顔の傷について」とたずねる。
考えてみれば、今朝、担任の及川はヤケに確信めいた調子で俺を叱責してきた。
まるで俺の傷が、転んでついたのではなく、ケンカによるものだと、最初から知っていたみたいに。
しかし、篠崎は「誰にも話してないよ」と答えた。「先生にも、友達にも、誰にも」
俺は少し考えたが、「そうか。分かった。信じるよ」と彼女に背を向けて指導室に向かった。
「本当に、信じて……」篠崎の懇願するような声が、後ろから聞こえた。俺は手を上げてそれに応えた。
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「やあ、こんにちは」ゆっくりと、校長は言った。
『間延びした』というべきテンポの直前くらいだ。
白髪の混じった豊かな髪を、後ろになでつけた背の高い初老の男で、どことなく上品だが、声や態度に言いようのない厚みがあった。
校長がすすめるままに、俺は彼の向かいの椅子に座る。今朝、及川と話した時、その椅子の間にあった机は、部屋のわきに取り払われていた。
「あまり、固くならなくて大丈夫だよ。今朝、及川先生と話した内容はだいたい聞いているけれども、私は、君を尋問して、何かの処分を加えたいわけじゃないんだ」
「それは意外だな。てっきり、次は1枚ずつ爪でも剥がされるんじゃねえかと思ったぜ」
校長は笑った。
「なるほど。それはすまなかった。ここは学力的には上位に位置する私立高校だ。多感な時期の生徒たちを預かってはいるが、他の学校に比べて、トラブルは格段に少ない。そういう意味で、今回のような出来事の対処に、職員もあまり慣れていなかった。これは学校として反省すべき点だ」
「別に……いいけどよ」叩きつけた皮肉に手応えがなく、俺は尻を動かして座りのいい位置を探した。
「さて、及川先生との間で、『敬意』についての話があったと聞いているが」
「ああ」と俺は答えた。
「及川先生は、『敬意を払うべきだ』と君に言った」
「そうだ。誰に対しても」
「なるほど。私もそう思うよ。逆に言えば、こうも捉えられる。君にも、敬意は払われるべきだった」
「俺は別に、そうして欲しいと思っちゃいないが、確かに、理屈から言やあそうなるだろうな」
「だから、君にとっては、疑問だったのではないだろうか。誰に対しても敬意が払われるべきなのだとすれば、自分もそれを受け取っていなければ勘定が合わない。
ところが、君はそれを受け取った覚えがなかった。少なくとも、及川先生からは」
「まあ、そういうことになるか」と俺はうなずいたが、納得したわけではなかった。
校長はそれを見透かしたように続ける。
「特に、君は才能あふれる若者だ。ここの生徒の多くは、まだ何者かになる途中だが、君にはすでに、演奏家としての確固とした実績がある。自分が何者かと問われれば、迷いなく『演奏家だ』とか『音楽家だ』と答えることが出来るだろう。
当然、その実績に対する惜しみない称賛、言い換えれば、強烈な敬意を受けて君は生きてきた」
「ああ。そうだ。俺はガキのころから、そいつを食って生きてきた。だが、俺の知ってる『敬意』ってやつは、誰もが誰もに与え合うとかいう、生っちょろい性質のもんではなかったぜ。自分の腕で奪い合うものだ。俺はそうやって生きてきた。靴ひもも自分で結べねえガキのころからだ」
校長は深くうなずいた。
「私も、君の功績に敬意を払う人間の一人だ。しかしね、私の考えでは、『敬意』というものには2種類あると思うんだよ。
一つは、君がこれまで勝ち取ってきた、『成果や能力に対して支払われる敬意』、そしてもう一つは、我々が君に求める、『人格に対して支払われる敬意』だ。
誰しもが、一個の人格を有する人間である以上、その人格に対して、敬意が支払われなければならないと私は考える。つまり、能力の多寡に関わらず、誰に対しても」
「スマホの基本料金みてえなものか?」
俺がそう言うと、校長は、ハッハッハとはっきり聞き取れるような発音で笑った。
「面白い例えだ。あるいは、ベーシックインカムみたいなものとも言えるかもしれない。
国民全員にお金を配るには、国の予算は少な過ぎるのかもしれないが、幸い、敬意というものはいくら払っても尽きる心配がない。
君のように、ある分野で高い能力を持っている人だけが敬意を得られるのだとすれば、世の中はもっと殺伐としたものになるだろうね。
だから、私は、そうでない人にも、その人が一個の独立した意志と感性を持つ一人の人間であるということそのものに、敬意を払うべきだと考える」
「自分が受け取ったつもりのねえものを、他人にどう払えやいいのか、俺にはさっぱり分からねえな。まず、本当にそうすべきなのかも」
「それでいい。私は君に、この学校でたくさんのものを得て欲しいと思っている。自分が『知らない』ということに気付くのは、その第一歩だよ。
『敬意について』これは私が君に課す、最初のテーマだ。
君の人生にとって、三角関数の方程式だとか、太平洋戦争の経過だとかいった知識は、あまり役には立たないだろう。
『敬意について』『自由について』あるいは『愛について』……きっと君は、ここに、そういう曖昧なものを探しに来たのではないかね」
「さあな。事務所の連中が、勝手に決めただけだ。俺はヤツらに従う。ヤツらは俺に仕事を持ってくる。それだけだよ」