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6-4.クソったれの世界に、唾を吐き棄てるように/呉島 勇吾

 俺の生家は、その海沿いの飲み屋街にほど近い、市営住宅だった。


 この街は、どうやらその昔、港湾都市として発展し、今も運河やその周辺の赤レンガ倉庫群などが観光名所としてそれなりの人気を集めているそうだったが、俺の目から見れば、そうしたものも、どこか作り物臭くて白々しかった。


 観光地から徒歩で30分も離れれば、そこはもう味も素っ気もない住宅街で、潮風に錆びた屋根のトタンをくたびれ切ったように晒している家屋が、互いの立ち行かなさを慰め合うように寄り集まっていた。


 中でも、俺が生まれた頃に住んでいたという市営住宅は、コンクリートブロック造の平屋建て、「貧乏長屋という概念に、現代という時代の息吹を吹き込んだ」とでもいった風情で、外壁の(きわ)に、ボロボロと剥がれたペンキのカスを落として、窓のサッシやドアの蝶番(ちょうつがい)は、ペンキの下から皮膚病のようにサビを浮かして歪に盛り上がっていた。


 俺はその集合住宅から、B棟の3号室というのを探し、そのしみったれた外観を、スマホのカメラにおさめた。


 特別な感慨は何もなかった。というより、かつて自分がこんな所に住んでいたという記憶自体がなかった。


 写真を添付して、社長にメールを送る。


 見ないようにしていたメッセージアプリの通知が気になって開くと、篠崎から1件だけ写真付きのメッセージが届いていた。


 「こんばんは! こっちは合宿中だよ!

  呉島くんはどうしてる? 時間がある時、お話しようね!」


 写真の中の篠崎は、淡い色合いのゆったりとした服を着て、手にはカードを持っていた。

 同じ柄のキャミソールとパンツとガウンは薄く軽そうな生地で、ジャージやスポーツ用のTシャツなんかを着た他の部員と比べれば明らかに浮いていたが、彼女がそれでリラックスできるなら、それは結構なことだと思った。


 そして、俺の心の底の方に(よど)んでいた、疲労と倦怠(けんたい)とが、ほんの少し、その重さを減じたように思った。


 俺はそのメッセージに返事をしようか、迷った。


 俺の過去を巡る巡礼の旅は、こうした憂鬱な、惨めったらしく苛立たしいものであるべきなのかもしれない。


 篠崎はいつも、俺が生まれて以来、十数年を経て重く積み重なっていた心の(おり)を、軽く薄めてくれた。それは、本当に驚くべきことだった。


 ピアノが弾けないとそれだけで癇癪(かんしゃく)を起こすタチの俺が、実に7時間とか8時間とかいう間、学校の中でまともに呼吸をして生活をしていること自体が、奇跡のようなことなのだ。


 俺は、今この旅で、そうした奇跡の恩寵を、受け取るべきでないようにも思えた。


 社長から、メールの返信が届いた。

 「何か、思い出すことはあったかい?」


 「いや、何も」と返す。


 そうしてから、俺は違和感に気付いた。なぜだ?


 俺は聴覚記憶がずば抜けて良い。しかし、視覚の記憶にも自信がないわけではない。もちろん、譜面を読む時は頭の中で音に変換するわけだが、譜面に書かれているのは音符だけではない。速度や音量、曲想の指示は視覚で覚えている。


 物心つく前とはいうが、俺はその物心というやつが、人よりだいぶ早くついていた。現に、俺の両親が、俺を売った時のことを覚えている。


 ピアノの大先生とかいう大学の教授が家に来て、ピアノに関する俺の才能が、いかに特別なものかというのを説明した後で、「この子を、いわゆる内弟子にとりたいのです」と言った。


 俺の両親というのは、金のことでしょっちゅう言い争いをしていたが、俺に特別な才能があると知ってからは、それを何とか金にしようと躍起になっていたから、この教授の申し出に、最初は難色を示した。


 しかし、教授はクラシックの世界で仕事を取ってくるということが、素人にとってどれだけ困難かということを、詳細に説明した。そして、自分にならそれができるとも。


 例えばビックリ人間としてテレビに出したとしても、一時の話題にはなるだろうが、忘れ去られるのもまた一瞬だ。それよりも、本物のピアニストとして育てるべきで、そうなった時に得られる財産というのは、賞味期限の短い子役タレントの比ではない。それだけのポテンシャルを、この子は持っている。


 しかし、そのためには、『鍵盤を押す』ということと、『音楽を奏でる』ということの違いを教えねばならず、そのための教育には莫大な費用を要する。


 そうした会話の意味を理解したのは、大分後になってからのことだが、つまり、俺の下積みを支える財力が、俺の両親にはなかったということだ。


 そして、教授は俺の親に、300万という金額を提示した。

「音楽というのは水物ですから、保証出来る収益というのはこの程度のものです。しかし、あなた方の元で彼を育てた時、あなた方の手元に残る財産はこれより少ないと断言できる。

 なぜなら、あなた方は、音楽界に、どういう派閥と人脈があるか、ご存知ないからです。

 毎年、音大の卒業生が、プロの音楽家になれる割合は、3パーセント程度、もちろん、それ以外の卒業生が皆露頭に迷うわけではありませんが、一般の会社や公務員を目指すには、音大の学費というのは少々高すぎる。

 そして、この3パーセントの中には、自分一人食わしていくのも覚束ない、自称音楽家が相当数含まれている」


 本来であれば、自分は金をもらって音楽を教える立場で、こうやってまとまった金を払って内弟子をとるなど、異例中の異例だということなどを付け加えると、一晩の猶予を置いて、俺の両親は折れた。


 その時の景色を、俺は覚えている。


 丸いテーブルを挟んで話し合っている、俺の両親と30代半ばの太った教授。くたびれたクマのぬいぐるみ、チラシの裏に見よう見まねで描いた五線譜と、クレヨン、革張りのソファ、対面キッチン、広い出窓……。


 俺は、市営住宅に背を向けて、社長に電話をかけた。

 3回のコールの後で、社長は電話に出ると、明るくも、暗くもない、平板な調子で返事をした。

「やあ、勇吾」


「俺が育ったのは、ここじゃねえ」

 噛みつくように言った。


「そう。だが、生まれたのはそこだ」


「俺の記憶にある家は、もっとマシだった。あの両親が、俺が生まれてから売られるまでの3年程度で、そこまで成り上がれるとは思えねえ……」

 と、俺はそこで一つの気付きに辿り着いた。

「俺は、2度捨てられたのか……?」


 社長は、違うとも、そうだとも言わなかった。

「君の母親は、いわゆる未婚の母だった。しかし、経済的にも、精神的にも、君を育てられないと見ると、君を自分の兄の家に預けた。それが、君の記憶にある呉島家だ」


「アイツら……道理でモメるワケだぜ。自分の子どもでもねえガキを引き取って、金に困ってんだから。そりゃ、300万でも売りだわな」

 そう言っている途中で、自嘲の念が堪えがたくこみ上げてきて、俺は声をあげて笑った。

「アンタが特定したとかいう『親御さん』ってのは、最初に俺を捨てた女か?」


「そうだ。というより、君を育てた呉島家の夫婦は、すでに事故で亡くなっている」


「クソったれ! 俺が『くたばれ』と言う前にか! しかもそれが俺に知らされねえとか、あり得るか?」

 不思議と気分がハイになって、俺は大声で嘲笑った。


「君は海外にいたからね。しかも、血縁がないばかりか、戸籍上、養子縁組も結んでいなかった。当然、ゴタゴタはあったろうが、そこで手続き上の諸々を処理したのが、君を買い取った教授だ。野呂(のろ) 秀雄(ひでお)


「あの、豚か。奴ぁ今、どこにいる?」


「ノってきたね。それがなかなか、面白いことになっている。君の旅を、何らかの形で一つの作品にするとしたら、ここが一番ユーモラスな部分になるだろう」


「おい、もったいぶるんじゃねえよ」


「県の教育大学。今君がいる街にその分校があって、芸術文化課程の音楽コースがそこに統合されている。実は君の両親と会った頃、彼は助教授だった。今でこそ本当に教授だがね。何でも、ショパン・コンクールの予選通過者が公表された時点から、『呉島 勇吾に基礎を叩き込んだのは自分だ』と吹聴するようになったらしい」


 俺はいよいよオカシくなって、吹き出した。

「ソイツぁ傑作だ! 半年ともたず俺をブダペストに吹っ飛ばしたあの豚が、俺に一体何を教えたって?」


「学内の根回しだけで教授にはなったが、所詮、大した実績もない小物だ。相手にするかどうかは君に任せるよ。もっとも、君が目の前に現れた時、彼がどういう表情をするのか、想像するだけでもそれなりに愉快ではあるが」


「ハハハッ!」乾いた笑いが潮臭い街の空に響いて消えた。


 俺はそのようにして生み落とされたのだ。


 このクソったれの世界に、唾を吐き棄てるように。


 どこでもない架空の一点を睨んで、俺は呟いた。

「今度は、俺の番だ」

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