6-2.俺は『ヴィルトゥオーゾ』という名の悪魔だ/呉島 勇吾
海を見ながら、しばらく歩いた。
海の水は重々しく灰色がかって、潮騒とウミネコの鳴き声が聴こえる以外に、これといって耳目を惹くほどのものはない。
海沿いの道路に面して並んだ商店の看板は、どれもみすぼらしくサビが浮いて、それらが商店としてまともに成り立っているのかということさえ疑われるほどだった。
そうと思えば、広い道路に接する丁字路の角に、唐突なほど真新しいコンビニが建っていて、俺にあてがわれたピアノのある家というのは、そのコンビニの2軒先だった。
古い木造の、しみったれた家屋で、軒は朽ちかけて触れれば崩れそうだったし、玄関の引き戸は手垢のついた木製の格子に磨りガラスがはめられた簡素なもので、ガラスを割って家の中を物色するか否かは、近隣住民の良心に任されているようだった。
俺は盛大なため息をついて、社長から郵送で送られてきた鍵を引き戸の鍵穴に挿すと、レールが歪んで渋くなったその引き戸を力任せに開けた。
埃臭さに思わず顔をしかめる。
一応の清掃は入っているはずだが、この古臭さだけはどうにもならなかったらしい。
土足のまま玄関をあがると、廊下を挟んで正面に居間があった。
玄関から右手に伸びる廊下の先に風呂場とトイレがあり、脇には階段もあったが、居間にヤマハのアップライト・ピアノがあるのを確認すると、それ以上は興味を失った。
風呂とトイレとピアノさえあれば、他のものはどうでもいい。
社長は俺のそういう性質をさすがによく理解していると見え、パイプベッドと布団一式を居間に用意していた。
ピアノを弾いて、寝る。
俺の生活は、元来そういうシンプルなものだ。
鍵盤の蓋を開け、椅子に腰を下ろすと、最低音から最高音まで、半音階を弾いてピアノの状態を確かめた。特に問題はない。古いヤマハ特有の、キンキンした金属的な感じもなかった。ハンマーのフェルトが交換されている。社長も調律ぐらいは気を使ったようだ。
俺の人生で、この先自分のためにアップライト・ピアノを選ぶという機会は訪れないだろうが、それでもしいて──例えばこれからピアノを始めようとする誰かのために、日本の狭い住宅事情を鑑みて、とかいう理由で──選ぶことがあるとすれば、俺は迷わずヤマハを推す。
ヤマハのピアノにはハズレがない。これほど安定した品質のピアノを安価に量産できるメーカーというのは、おそらく他にないだろう。
俺は周囲を見渡すと、改めて、深く長いため息をついて、鍵盤に指を落とした。
フランツ・リスト『巡礼の年』第一年「スイス」
愛人、マリー・ダグー伯爵夫人との逃避行で訪れた、スイスの印象を元に作曲された。
第1番『ウィリアム・テルの聖堂』
その威厳に満ちた重厚なフレーズを鳴らした時、俺は少し顔をしかめた。やはり、アップライト・ピアノでは鍵盤が軽く、出力が足りない。
しかし、その惨めさも含めて、俺自身の過去への巡礼は、こういう形で幕を上げるべきかもしれないと思った。自嘲的な納得感が、口の端を歪めた。
ここには誰もいない。俺を励ます者も、慰める者も。
勝利へ向かうウィリアム・テルの栄光が、どこか白々しく響いた。
第2番『ワレンシュタットの湖で』
静かな牧歌風の音楽で、舟を漕ぐ極めて小さな伴奏を、音が抜けないように弾くには強靭な左手を必要とするが、一人ぼっちで考えごとをするには、なるほど、おあつらえ向きかもしれない。
スマホの振動する音が聴こえたが、俺はそれに目も向けなかった。
第3番『パストラール』、第4番『泉のほとりで』……と引き続け、第8番『郷愁』に入ったところでハッとした。
表情が、目まぐるしく変わる。故郷にまつわる色々な感情を、いっぺんに思い出すみたいに。
この曲集の中で最も有名な4番や、それに並ぶ傑作と言われる6番『オーベルマンの谷』、曲中でも特に技巧の要る5番『嵐』なんかと比べると、もうそれ以降は俺にとってオマケみたいなものだった。
だが、この8番は、何だ? 俺は手を止めた。
頭の中に譜面を思い浮かべて、それを注視する。たった3ページの中に、異なる速度指示が事細かに書き込まれている。
そして冒頭から始まる単音の、シンプルだが不思議な旋律、これは、何を表している……?
「まだ、あるんだな、この先が……」
俺はそうつぶやくと、椅子を立った。
✳︎
海に陽が沈んでいくのを眺めながら、また海沿いの道を引き返し、駅から15分ほど、この街の中心部で電車を降りた。
無地の白いTシャツの上から天鵞絨のジャケットを羽織ると、日暮れとはいえ、額に汗がにじんだ。
東に伸びる中央通りをしばらく進んで、南に少し入った辺り、歓楽街と呼ぶのは少々大袈裟だが、人の欲を酒で煮詰めたような臭いのする一画が、ここにもあった。
ちょうど、俺の住んでいるピアノ・バーの周辺、あの飲み屋街から、もう少し品性を取り除いたような雰囲気だ。
要するに、今までとは違う客層の前でピアノを弾いてこいということだろう。
社長の指示したビルの中に入り、エレベーターを待っていると、後ろから、夏だというのに3ピースの大仰なスーツを着た男が、また派手な感じの女と腕を組んで入ってくると、俺のすぐ後ろで止まった。
香水の匂いが鼻につく。
安っぽいベルの後で、エレベーターの扉が億劫そうに開くと、俺と、香水臭いカップルを飲み込んで、また機嫌が悪そうに扉を閉めた。
男が、最上階、5階のボタンを押すと、不思議そうに俺を見て、口を開いた。
「5階はウチの店しかないけど、キミ、だいぶ若いよね。学生じゃない?」
ああ、と俺は一人納得してうなずいた。俺がこれから行く店の店員だ。
「ウチの社長から、お宅の店長に話が通ってるって聞いたけど」
それを聞くと、男は手を打った。
「うわ、マジか。聞いたわ。じゃあ、よろしくだね」
「えー、何?」と女が媚びた調子で男に尋ねる。
「ウチのショー・マン」
男がそう答えた時、エレベーターの扉が開いた。
自分たちが入ってから少し間を置いて、店に入ってくれと言うので、俺は言いつけ通り、その店の入り口の前で、少し待った。
──流しのピアノ弾きがふらりと現れて、ピアノを弾いたらまたふらりと去って行く──という演出らしい。
「酒が入って、品性も分別も失った人たちの前で、君のピアノがどこまで通用するのか試しておいで」と社長は言った。
「上等だ」とつぶやく。
俺のピアノはサーカスだ。教養も哲学も必要ない。
店の扉を開けると、シャンデリアの光をグラスが照り返していた。
店の中心に、蓋の開いたグランド・ピアノが置かれている。
まだ夜もそう深くはない。客の入りはまばらだった。
入口に立つ男が俺を招き入れた。
「ようこそ。『クラブ・ド・マーレボルジェ』へ」
俺はテーブルの間を縫って、挨拶も何もなく、ピアノの前に立つと、椅子に腰を下ろした。深く呼吸をする。
そして、鍵盤に指を落とした。
フランツ・リスト『メフィスト・ワルツ』第1番「村の居酒屋での踊り」S.514
学者としての人生に倦み、悪魔と契約したファウストが、その悪魔メフィスト・フェレスと共に村の居酒屋を訪れる。
するとメフィストは楽士からヴァイオリンを取り上げ、憑かれたように弾き始め、村人たちを陶酔の中に引き込む。
面白いのは、メフィスト・フェレスがこの曲の冒頭でヴァイオリンの弦を調律することだ。
それも、結構念入りに。
執拗なリズムで鍵盤を叩きながら、メフィストのチューニングと冒頭の倒錯的な旋律を弾き切ると、準備は整ったとばかりに両手の上昇グリッサンドが入る。
一度目の歓声が上がる。
楽しげなリズムと旋律はその裏に不吉な薄笑いを浮かべながら熱量を増し、時に妖しく息を潜めて、中間部まで達すると、ファウストは素朴で美しい村娘、マルガレーテと出会う。
音楽は甘く詩情に富み、しかし悲劇的な展開(端的に言えばマルガレーテはクソにも劣る大罪を犯して死ぬ)を匂わせながら、ファウストとマルガレーテは森へ抜け出す。夜空には夜鳴き鶯が歌声を聴かせる。
俺はここを弾いている時、唐突に、篠崎のことを思った。
しかし、音楽は彼らの恋を嘲笑うようなメフィスト・フェレスの『悪魔のワルツ』に戻ってくる。ここからは爆速パッセージの連続だ。
32分音符の音の嵐が鍵盤の上に吹き荒れる。
フロアには、もう何度も歓声が上がっていた。ここは上品なコンサート・ホールじゃない。酒場だ。マナーもヘッタクレもあったもんじゃない。
長いフェルマータの終わりに、俺は鍵盤から離した手を、掲げた。
──沸け!──
一層の拍手と歓声の中を、コーダに入る。
ここに来てまたダメ押しとばかりに書かれた「Presto」を、鼻で笑う。
小さな音から徐々に徐々に熱を増して、上昇音型を登りきると、最高速で衝突するように拍子を変え、一瞬止まる。
右手の細かいパッセージを挟んで、オクターブを押さえた両手を交互に鍵盤に叩きつけながら強烈な終始を弾ききると、口笛が鳴った。
椅子から立ち上がる。
「……人間じゃねぇ……」と誰かが言った。
そうだ。俺はこういうピアニストだ。