5-9.叙情性を拡張する/呉島 勇吾
期末テストが終わると、間も無く学校は夏休みに入った。
その期間が、俺にとって憂鬱なものになることは、実はほとんど確定していた。
ショパン・コンクールの予選を通過した時点で、俺の元には一本のメールが届いていた。
ちょうど、篠崎とパンケーキを食いに行った日、電車の中で開いたメールだ。
──「親御さんの住所を特定した。会うかどうかは別として、夏休み、君の故郷を訪ねてみよう」──
送り主は事務所の社長だった。
故郷? そんなところに、今さら一体何の用があるというのか。
しかし、俺にショパン・コンクールを受けさせることだとか、日本の学校に通わせることもそうだが、社長はその軽薄な態度に似合わず、こういう方針については驚くほど強硬だった。
そしていつも、十分な説明をしない。
夏休みの初日、俺はフランス料理屋の個室で、その社長とテーブルを挟んでいた。
口調や声色は陽気だが、骨と皮ばかりに痩せ、それにも関わらず不似合いなダボダボのアロハシャツを着ている。レイバンの大仰なサングラスを掛けているのは、右眼の極端な斜視を隠すためだ。
天井から斜めに吊り下げられたスピーカーからは、バッハの無伴奏チェロ組曲が流れていた。俺たちが店に入った時には1番のサラバンドが流れていたが、今は2番の終曲ジーグが流れているところを見ると、全6曲をぶっ通しで聴かせるつもりらしい。
テーブルには一品目のアミューズが置かれている。
揚げてから酢か何かに漬けたような小魚が、不釣合いにデカい皿の上に申し訳なさそうに乗せられ、その傍に、何色と言ったらいいのかよく分からない、不思議な色合いのソースが添えられていた。
「この料理、何ていうか聞いてた?」
「稚鮎の何とか……いや、よく聞いてなかった」
「『天然稚鮎のエスカベッシュ、タデのピストゥー、自家製ピクルスとトマトのジュレを添えて』だそうだ」
「いや、長えし、それにしちゃ肝心の料理は小さすぎる。名前に対しても、皿に対しても」
「おおむね同意できる。僕が確認したかったのは、君の驚異的な聴覚記憶は、ある程度意識的に聴くことで初めて発揮されるということだ」
「まあ、確かにそうだが、それがなんだ?」
「つまり、君は君の過去について、十分に知っているとは限らないということだよ」
俺はその小魚をフォークで刺して、口の中へ放り込むと、2、3回咀嚼して飲み下した。
「俺がクズの股の間から生まれたことには変わりがねえし、それをわざわざ再確認することに意味があるとは思えねえ」
「そこに何らかの誤解があれば、僕としても気が楽だったんだが、残念ながら、その点は間違いなさそうだ。少なくとも、僕と君との間に、クズの定義について何か大きな相違がない限りは」
「だったら、俺の故郷なんかに行く意味は何だ? クズがクズを育てた土地を見て回ることは、あんたにとって心温まるものなのか?」
「音楽にも人間にも、おそらく完成などというものはないけれども、今、この時のベストはあるはずだ。僕は、いつもそれを目指している。
ピアニスト『呉島 勇吾』が、ショパン国際ピアノコンクールというステージで、その時出しうる全てを出しきる、そのために今必要なのは、おそらく、君自身の過去への、巡礼の旅だ」
俺が何か反論をしようとした時、間の悪いウェイターが前菜を運んでテーブルに乗せた。
「本日の前菜、サーモンのタルタルで御座います」
ウェイターが去って行くのを見送ると、「今度は、意外なほどシンプルだな」と俺は感想を述べた。
社長はそれをフォークの先ですくい、一口含むと、声を出さずに笑った。
「タイトルはね。一口、食べてみるといい。内容は複雑だ。
ピクルスが入ってる。先のアミューズと統一感を持たせるためかな。それと、ドレッシングには、キャビアが入ってるね。
夏だから、旬の鮎の後には、冷たくて酸味のある前菜を用意してくれた」
「腹に入っちまえば、みんな一緒だ」と、俺は不承不承にそれにフォークを突っ込むと、あっという間に平らげた。まるで食った気がしない。
「勇吾は舌が子どもだからなぁ」
「俺がこの手の料理を食った後にいつも思うのは、『ああ、腹減った』だ。やたら焦れってえしよ」
「おしゃべりを楽しみながら、時間をかけて、味わって食べるんだよ。甘いか辛いか塩っぱいか、それだけじゃないだろ? 料理も音楽も」
社長はそう言うと、何か意見を求めるように俺の目を覗き込んだ。
「まあ、確かに、色んな味がする」
俺が仕方なしにそう答えると、社長は満足そうに笑った。
「君は日本の板前みたいなピアニストだからね。譜面そのものの良さを、手を加えずに正確無比な技術で完全に再現する。そして、怒りと激情。そういう感情にかけて、君より深く、鋭く、重く表現するピアニストは、他にお目にかかったことがない」
「そういうものは、俺の内面から発していた。そしてアンタは、そういう俺の内面を、拡張しようとしている。日本の普通科高校で、今まで関わったことのねえ同世代の連中と関わらせることによって」
「まさか。それは考えすぎだよ。僕は、君の幸せを探して、色々と旅をさせたのさ。でも、なかなか見つからなかった。だから案外、こういうところにそれがあるのかも、というくらいのことさ」
「白々しいぜ」俺は鼻で笑い飛ばす。
「ショパンの作風を、一言で表すなら『叙情性』だ。俺はそういうものを、獲得しつつある。
何の郷愁もねえ故郷とやらに、そういうものがあるとは思えねえが、まあ、アンタがそう言うならいいさ。次はどこへ行って、何をすればいい。俺はアンタらに従い、アンタらは俺に仕事を持ってくる。元よりそういう関係だ」
社長は少し残念そうにため息をついた。
「人間的にも、もう少し丸くなってるかと期待したんだが……まあ、それはそれで面白くないか。
場所は後で、メールで指示するよ。この街からも、そう遠くない。君は指定の場所を訪れた証拠に、写真を撮って送ってくれればいい。スタンプラリーみたいなものさ」
「その間、ピアノはどうする」
「手配してある。アップライトだけどね」
俺は相手にそう分かるように顔をしかめた。
「おい、ナメてんのか。趣味でやってんじゃねえぞ。最低でもグランドだろ」
「言うと思った。だから、ちょっとしたバイトをしてもらう。方々探し回ってね、上品な店じゃないが、グランドピアノを置いてる飲み屋を見つけて、すでに話を通してある。
先方は君が、ショパン・コンクールのコンテスタントだとは夢にも思ってない。『気難しい子どものピアニストだが、腕は確か』くらいにしか」
「下積みの苦労も、そこで経験してこいってか?」
「新鮮だろ? 真樹ちゃんの有り難みも、身に染みると思うよ。実際、彼女を説得するのが一番大変だったんだから。『アイツのピアノを二束三文で売り叩くなんて、あり得ない』ってブチ切れてさ」
「真樹が?」
「そりゃそうでしょ。君のピアノをこの世で一番評価して、信頼してるのは彼女だ。ただ、出会ったタイミングが、絶妙だったよね」
「タイミング?」
「君が椅子を蹴倒したパリのステージ、その観客席に、彼女もいた。僕もこんな仕事してるくらいだから、一時期はプロを目指して挫折したクチだけど、その時期に君と出会っていたら、こんなふうに同じテーブルを挟んで、正気で飯を食うなんて考えられない」
俺は椅子の背もたれに背をつけて、つぶやいた。
「そうか……そういうことか……」
社長は深く、うなずいた。
「そういうことだよ」
それから、いくつかの料理が運ばれて、俺はそうプログラムされた機械のように、それを口に運んだが、その味について、何も記憶には残らなかった。
家に帰ってしばらくすると、社長から俺の故郷への旅について、日程や場所の指示が書かれたメールが届いた。
運河の通る、海沿いの町だった。