5-8.青春と筋肉/篠崎 寧々
終業式の日、廊下には先日行われた期末テストの順位が貼り出されていた。
「15位:呉島 勇吾」
「15位:篠崎 寧々」
呉島くんと同率の15位だ。
『同じ順位に名前が並んだ』などという些細なことで、このところ敏感な乙女スイッチが、思わずONに入ってしまう。
順位表が縦書きだったら、2人の名前の間に、相合傘を描いてしまいそうだった。横書きなのが悔やまれる。この場合、どうなるのだろう。相合……盾?
想像力が翼を広げる。
──榴弾と銃撃の嵐の中を、2人は手を繋いで駆け抜け、砲弾がえぐった地面の窪みに、抱き合って飛び込む。
敵の射撃が激しくて、一歩も前には進めない。
「こんなもあろうかと、『折りたたみ盾』を持ってきて正解だったぜ」
呉島くんは、舌打ちしながら、しかめっ面で盾を広げる。細かいディテールは未定だが、丈夫で銃弾もはじき返せるのだ。
しかし2人が身を守るには、いささか小さい。
「呉島くん、行って」
私は覚悟を決めてそう言うが、呉島くんの目にもまた、覚悟の光が宿っている。
「俺を、ナメるなよ」
呉島くんは盾で私の身体を庇う。
「ダメ、呉島くん! 肩が出てる!」
「くれてやるわ! 片腕ごとき!」──
と、不意にマユの声が聞こえて私は正気を取り戻した。
「だから、剣道部の合宿があるんですよ」
マユは、先生に何か抗議しているようだった。
「日程はかぶってないんだろ?」
それに答える先生の声には、少し呆れた調子が混じっている。
中年の男の先生で、担当は化学だ。そういえば、マユは化学で赤点をとったらしい。
彼女はどの教科も平均くらいの点をとると聞いていた。おそらく、今回は呉島くんを巡るあれこれで、調子を崩したのだろう。そういうことを、マユは周囲に言わないけれど、彼女なりに悩みも絶えなかったはずだ。
「いえ、ですから、それが問題で、合宿と、練習で、ほとんど夏休みが潰れるのに、そこに補習まで入ってしまうとなると……」
「気持ちは分かるけど、赤点だからな。そうならないように、みんな勉強頑張ってたわけだから」
「それにはワケがあってですね、こう、青春の嵐に巻き込まれたというか、ほとんど自然災害に遭ったのと同じようなもので……多感な時期なので……」
「まあ、先生にもそういう時期がなかったわけじゃないから、理解してあげたいとは思うが、それとこれとは話が別だからなあ」
「16歳の夏は、一度きりなんですよ!」とマユは強く主張した。
16歳の夏。なんて、強い響きだ。私もこの夏、16歳になる。
「平坂、これだけは覚えておきなさい。46歳の夏も、一度きりだ。
お互い、一度きりの夏を有意義に過ごそうじゃないか。補習で」
「やだぁ!」マユは駆け出した。
そしてその先に私を見つけると、腰にすがり付く。
「ネネ! ひどくない? ちょっとだよ! 3点足りなかっただけなのに! 私はこの夏、全てを失った!」
「うーん……どうだろう……?」
私は曖昧な返事をした。色々な意味で、答えにくい。
「聞いてたでしょ? 先生、16歳と46歳の夏を一緒に考えてんだよ! 信じられる? 46歳の夏なんて、あってないようなもんじゃん!」
「いや……ええ? うーん……」
「あんた! 何を壊れかけのRadioみたいな声出してんの!」
マユの行き場のない怒りが、こちらに向きそうで、私はうろたえた。
「いや、発音……」
「夏といえば、海! 祭り! 花火! そして……海!」
「2回言ってる……」
「何回でも言うし、何回でも行くわ! アンタがそんな悠長な構えでいる間に、ユーゴくんは『フェロモンだだ漏れ肉食通い妻』の毒牙にかかってるかもしれないんだよ!
2人で海とか行っちゃってっかもね! あのダイナマイト・ボディにヒモみたいなビキニで、ユーゴくんのリビドーをエクスプロージョン!」
「なぜ英語で……」
その単語力を少しでも化学の方へ向けられたら、彼女は補習をくらわずに済んだのではないだろうか。
とにかく、私たちの夏は、そのほとんどが剣道に捧げられることになっていた。
互恵院学園剣道部は、その覚悟をした女の子たちの集まりだ。
同情すべきことに、マユはその上、貴重なオフを補習で潰されることになってしまったが。
私もまた、そういう覚悟をした女の一人だというつもりだった。
けれども、もう一つ、私にはやるべきことがある。
テストが終わってからの数日、私は、呉島くんと、マネージャーの柴田さんのことについて、ずっと考えていた。
柴田さんは、彼をどう思っているのだろう。呉島くんは、彼女をどう思っているのだろう。そしてそのことは、呉島くんの人生や、音楽にとって、どういう意味を持つのだろう。
柴田さんは、単に呉島くんの仕事を管理していただけではない。
彼にご飯を作り、掃除や洗濯をし、彼の身の回りのことを全部引き受けてきた。それは、並大抵のことではないはずだ。
例えば家政婦さんみたいな人を雇うのでもなく、手ずからそれをかって出た彼女は、一体どれだけの時間と労力を、呉島くん一人のために、投げうってきたのだろうか。
何が彼女をそうさせたのだろう。
ピアノを弾く人にとって、多分、『呉島 勇吾』という人は特別なのだろう。そのことは、彼女の話や、雑誌の記事だけでもありありと感じ取れた。
彼のピアノは、神だとか悪魔だとかいうものさえ引き合いに出るくらいの、特別で、神聖で、あるいは恐るべきもので、実際、音楽なんてまるで知らない私でさえ、激しく心を揺さぶられるような、不思議な力を持っていた。
でも一方で、私の知っている呉島くんは、短気で、ケンカっ早くて、乱暴ではあるけれども、本当は優しくて、甘党で、人の気持ちを一生懸命知ろうとしている、普通の男の子なのだ。
そういう、半ば『神格化したヴィルトゥオーゾ』であるピアニストの呉島くんと、『普通の男の子』である生身の呉島くんとを、長年、一番近くで見続けてきた柴田さんは、彼に何を思い、彼をどうしようとしているのだろう。
そしてその中で、私は、彼のために何ができ、そして何をするべきなのだろう。
「おいコラ! ネネ! 私の話を聞け!」
マユが腰に抱きついたまま、私のお尻をぺしぺし叩いた。
「いたた……ごめんごめん」と我に返る。
「一人で前向きな恋の悩み事をしてんじゃないよ!」
マユは決めつけたようにそう言ったが、例によって私の心を言い当てていた。
そうだ。これは前向きだ。前に進むための悩みだ。
✳︎
入学してから知ったことだが、この互恵院学園高校では、きっちり授業をしてから終業式を行う。
そのため、部活が始まるのは、いつもより少し遅いくらいだった。
この日はいつもより軽めに基本稽古をした後、練習試合をし、その後、顧問の先生から合宿についての説明があった。
「一年は、今回初めての参加となるが、ウチでは年2回、夏と冬に合宿を行なっている。『夏といえば、海』なんて誰かが言ってるのが廊下から聞こえたが……」
先生がマユを見ると、部員たちの中からくすくすと忍び笑いが起きた。
「ウチの合宿所はすぐ裏手が海水浴場だ。砂浜を見ただけで吐き気がするほど走り込めるぞ。最高だな」
「うぇ〜……」先輩たちが早くも吐き気をもよおしたように、声を揃えた。
「まあ、聞いての通り、地獄だ。君たちに同情はするが、勝つためには必要だからな。当然、安全管理上の手配は万全にするつもりだから、安心してぶっ倒れるまで走ってくれ」
「あの〜……」マユが私の隣で、遠慮がちに手を挙げた。
先生は発言を促す。
「海で、泳いだりとかは……」
「もちろん、自由時間や休憩時間に海で遊ぶのはOKだ。当然、先生はその時その時の部員の様子を観察して、メニューを都度修正するから、海で遊ぶ余裕があるようなら、その日の練習がヌルかったという反省を活かして、以後のメニューを修正する」
「なるほど……」
マユはそう言いながら、メモ帳に「水着」と書き込んだ。
説明が終わり、解散した時、私は副部長に呼び出された。
みんなが出払った後の更衣室で、副部長の先輩は、青ざめた顔でこう言った。
「マユは青春に取り憑かれてる。ネネ、あんたが頼りだよ。あの体力オバケを上手く押さえ込んでちょうだい」
「はぁ……」と私が曖昧に返事をすると、副部長はハッとしたように、目を見開いた。
「手帳出して」
私はギクッとしたが、先輩には逆らえない。おずおずと手帳を差し出した。
先輩は、私の手帳を受け取ると、表紙に描かれたネコのイラストを見て「かわいい……」と呟いた後で、中身を検めた。
──「水着」──
副部長は慌てた様子で更衣室から顔を出すと、「3年集合!」と叫んだ。
3年の先輩方が、何事かと視線をよこす。
「ダメだ! 今年の一年、青春と筋肉に脳を食い荒らされてる!」
その後、私とマユは先輩方に誘われて近くのハンバーガー屋さんに寄り、ちょっとした軽食をおごってもらい、どれだけその合宿がキツいかということについて、叙情的な説明を受けた後で、頼むから、はしゃいでくれるなと釘を刺された。
そしてその帰り、私とマユは、水着を買いに行く約束をした。