5-7.上か、下か/呉島 勇吾
日曜の午前中、10時ころに目を覚ますと、俺は遅い朝食をとった。
真樹が作り置きしてくれたものだ。
冷蔵庫には、朝飯として用意した分が分かるように、メモ紙で示されていた。
玉子焼きと、焼いたベーコンの乗った皿をレンジで温め、大根の味噌汁が入った小さな鍋を火にかける。
ニンジンと大葉の和え物が入った小鉢をテーブルに置いてラップを剥がしたころ、ちょうどレンジが鳴った。味噌汁が沸騰するにはもう少しかかるようだ。
このところ、本当にピアノ以外のことを色々考えるようになって、頭が疲れる。
俺は、ふと思いついてスマホを取った。
連絡先を選び、通話ボタンを押す。
コール音が、鳴ったか鳴らないかというタイミングで、「はい」と声が聞こえる。
「よう、笹森」
「ずいぶん余裕ね。おしゃべりする時間があるなんて。何?」
相変わらず、トゲのある口調だ。
「酒井には、彼女がいねえそうだ」
「え……」と、笹森はうろたえるような声を漏らした。彼女の想像していた話題ではなかったのかもしれない。
「それで、俺も聞きてえことがあったんだが」
「何? 私友だちいないから、学校の人間関係のことなら、全然知らないわよ」
内容と口調がそぐわないような気がして、俺は少し不思議な感じだったが、構わず自分の聞きたいことを聞く。
「お前、酒井のことが好きなのか? つまり、恋愛感情的な意味で」
「だったら何? 言いふらして、私を笑い者にする?」
「何でだよ。お前が酒井を好きだとして、それの何が面白えんだ。そもそも、お前は、俺がそういうことをしねえと思ったから、酒井に彼女がいるか、俺に聞いたんじゃねえのか?」
「まあ……そうね。そういうことに、あんまり興味がないと思ったから」
と、この辺りで鍋が沸騰しているのに気づき、俺は慌てて火を止める。
「残念だが、最近の俺は、そういうことにとても興味がある。恋愛に関する出来事が、身近にいろいろとあってな」
「そう、あなた、意外に陽キャだしね」
「陽キャ?」
「私みたいな日陰者の反対ってことよ。友情も恋愛も充実して、『人生楽しんでます』みたいな」
俺はそのことについて考えた。
「お前の目には、俺がそう見えるのか?」
「そう、だから、青春グラフィティのスパイスみたいな青臭い悩み事を、わざわざ聞きたくないわけ。こっちは必死なのよ。恋だの友情だのには脇目もふらず、寝る間も惜しんで勉強して、やっと5位。イヤんなるわ。
でも、立ち止まってる時間はない。早く自立して、仲の悪い両親が怒鳴り合う声を聞かずに、ぐっすり眠れる家に住みたいから」
「そうか。それは大変だな」
俺がそう言うと、笹森は憎々しげに声を低めた。
「何? 嫌味?」
「いや、俺には親がいねえから、そういう苦労はねえ」
「え……?」
「まあ、捨てられたっつーか。3歳の時にな」
「ごめん……他人のことを、勝手に分かったような気になるのは、私の悪い癖だわ」
声色が、目に見えるように変わる。
「別に、俺が捨てられたのは、お前の責任じゃねえ。そんなことより、俺は人を好きになるってのがどんな感じか、聞きてえわけ」
「『そんなこと』って……」
「今さらガタガタ言ったところで、何がどうなるワケでもねえだろ。そういうことは、俺にとっちゃ取るに足らねえことだ。お前とはまた、事情が違うな。
とにかく俺は、そんな過去の連中より、今自分の周りにいるヤツらについて、よく考えなくちゃいけねえワケだ」
「そう……。
いや! でも! それで私が自分の気持ちを喋るのとは、また話が別じゃない? 危うく口を滑らしそうになったわ!」
「そうか? まあ、言いづれえならいいけど」
笹森は考えを巡らすようにため息を漏らすと、「あなたの話を聞かせてくれるなら」と言った。
俺は、何をどこまで詳しく話すべきか、少し悩んだが、できるだけ簡潔にまとめて話した。
「俺には、『もしかして、これがそうか?』って思うような女がいる。けど俺はこういう生い立ちで、他人からロクに扱われた覚えがねえから、そこに初めて優しい人間が現れた時、自分の感じてる気持ちがどういうもんなのか、よく分からねえわけだ。
例えば自分が、ゼンマイのオモチャを追いかけてる雛鳥みてえな状態だったら嫌だろ」
「それだけ才能に恵まれて、ロクに扱われないなんてこと、あるの?」
「ガキの頃から俺には値札が付いてた。その額面が高えってことが、良く扱われてるってことなら、俺はだいぶ良い方かもな。自分の金で生活してるって意味じゃ、俺はお前の求めるものを持ってるともいえる」
「でも、孤独だった」
「孤独……ああ、それは、しっくりくる言葉だな。周りに掃いて捨てるほど人間がいたのに、仲間は一人もいねえような感覚だった」
「それが、あの学校で、和らいだ?」
「そうだな。その要因の一つには、酒井がいる。だから、お前が酒井を好きだって言うなら、俺にはそれがよく分かる。アイツはいい奴だ。でも、多分俺とお前じゃ好きの種類が違うから、お前がどういうふうに、アイツを好きなのか知りてえんだよ」
笹森は、短い沈黙の後で、話し始めた。
それは、彼女の怒りと孤独、そして束の間の癒しと、諦めについての話だった。
俺は途中でいくつかの質問を挟んだ。それは笹森にとって、すぐ答えられるものと、そうでないものがあるようだったが、いずれにしても、彼女なりにそうした質問を真剣に受け止め、本当のことを話しているのだということが、よく分かる話し方だった。
「何か弾こうか?」
話の終わりに、俺はそう言った。
「プロが、私のために?」
「ああ」
「それは贅沢だわね。じゃあ、ショパンを。大して知らないけど、不思議だったの。あなたが学校で、ショパンを弾かなかったこと」
「別に好きじゃねえからだ」
「そうなんだ。じゃあ、なおさら」
笹森はからかうように言った。
俺はスマホをハンズフリーにすると、ピアノの譜面台に置いた。
椅子にそっと腰を下ろし、首を左右に曲げ伸ばしてから、鍵盤へ、静かに指を落とした。
フレデリック・ショパン『エチュード第3番 Op.10-3』ホ長調
静かで優しい旋律を、ワンフレーズ弾いたところで、笹森が声を上げ、それを遮った。
「おい! それ『別れの曲』だろ!」
俺は思わず、ふふん、と笑う。
「よく分かったな。この曲をそう呼ぶのは日本人だけだが」
「それだけ有名な曲なら知ってるわ! 人が恋の話をした後に!」と怒鳴ってから、笹森も笑った。
「悪いな、1個ズレてた。今のはエチュードの3番、俺が予選で弾いたのは4番だ」
そう言って、俺は短く息を吸うと、急激な速さで鍵盤を押した。
『エチュード第4番Op.10-4』嬰ハ短調『Torrent』
速度表示は『Presto』
特定の指を酷使しない分、同じエチュードの2番よりは簡単だが、2分程度の曲中に、様々なテクニックが詰め込まれ、それらを音楽的に統合する技術とセンスが同時に要求される。
この曲に用いられた、『紡ぎ出し』という、短いモチーフを高さや調を変えて転回する書法は、バッハの活躍したバロック時代によく用いられたもので、モーツァルトやベートーヴェンの古典派時代にはすでに廃れていた。
俺にとってショパンというのは、あまり共感できる作曲家ではないが、200年も前の作曲法を、これだけ激烈な音楽に転用したという、作曲家としての技術やアイデアを見れば、流石にその死後百何十年弾き継がれるだけのことはあると納得できた。
16分音符の濁流を猛烈に紡ぎ上げながら、最大音量の頂点を過ぎた時、そのすぐ後にはこう書かれている。
『con piu fuoco possibile』
可能な限り? まるで「お前にそれが出来るならな」と煽っているみたいだ。
ナメてんじゃねえぞ!
細かな音符の一つ一つに、焼き尽くすような熱と重さを込めて、土石流のような勢いで終わりへ向かうと、高音域から跳躍して、圧倒的な質量で終止する。
こういう曲を、俺と同じくらい速く弾ける奴は他にもいるだろう。だが、この速さで俺と同じ質量と温度を出せる奴は、俺の他にはいない。
両手を小さく跳ね上げて、反応を待つと、スマホから拍手の音が聴こえた。
「『凄い』としか、言いようがない」
「だろうが」
俺は口の端を吊り上げた。
「クラシックって、もっと、穏やかで、退屈で、楽しむためには深い精神性だとか、教養だとか、忍耐力みたいなものが必要だと思ってた」
「そういう音楽もたくさんあるな」
「でも、あなたのピアノはそうじゃない」
「俺はヴィルトゥオーゾだ。技巧で勝負するタイプのピアノ弾き。誰よりも速く強く正確に、あるいは遠く小さく鮮やかに弾く。その点において、俺は誰にも負けねえ」
「そのための努力を、あなたは続けてきた」
「努力というのとは、少し違う」
俺は、ピアノというものが、俺にとってどういうものなのかを、簡単に説明した。
笹森は電話越しに、深く長いため息をついた。
「あなたはもう、自分というものを確立してる。仮に私がテストで勝ったとしても、私は自分をあなたより上に置くことはできない」
「お前は俺よりピアノが下手だから、俺より下か?」
「そんなワケないでしょ」
「だとしたら、お前の話は最初から破綻してるだろ。俺はな、ピアノに限って言えば自分が全人類の頂点だと思ってる。お前は俺よりはるか下。虫ケラ以下だ」
「性格が悪すぎる。比べる意味がないでしょ。ピアノなんか弾いたこともない人間と」
「いいや、あるね。お前が隠れた名手だとしたら、俺はお前とピアノで戦わなくちゃいけねえ。逆に、お前が俺にテストで勝ったとしたら、学校の勉強に限っちゃ俺より上だろ。今、お前は5位。3位の俺からすりゃあチンパンジーと同程度だが、せいぜい頑張って文明レベルに達することだな」
「あんた、本当に性格がクソだわ。その減らず口を必ず後悔させてやる!」
「そうじゃなくちゃ、面白くねえ」
そうして俺たちは、互いに「くたばれ!」「地獄に堕ちろ!」と言い合って、電話を切った。
コンロの上の小さな鍋は、もうすっかり冷たかった。
俺はそれを再び火にかけながら、ふぅん……と鼻の奥から声を出した。
笹森のように気性の荒い女が、どういうふうに人を好きになるのか、そしてそれが叶わぬものと諦めるのはどういう気持ちか、自分の中の怒りや憎しみと、誰かを好きな気持ちは、共存し得るのか、俺は笹森の話を思い返しながら、そういうことについて、考えた。
真樹の作った味噌汁の匂いがした。
✳︎
テストは月曜日から2日間に渡って行われ、その翌日から各授業で採点されたものが返却されると、金曜日には順位が貼り出された。
「2位:笹森 朱音」
…………
「15位:呉島 勇吾」
俺は昼休みの廊下でそれを見ると、思わず「クソッ!」と声をあげた。
「あらぁ! 15位の呉島 勇吾くん。ピアノじゃ全人類の頂点らしいけど、学校の勉強じゃピグミーマーモセットと同程度ね。2位の私にとっては」
笹森が、嬉々として嘲笑う。
俺は悔しさのあまり天井を仰いで、ブチ折れるほど強く奥歯を噛んだ。
「クソがっ……!」
思い返せば、テスト前の週末、結局俺は、ほとんどマトモに勉強していなかった。