5-6.心/篠崎 寧々
呉島くんをお父さんの車で送って行く時、私はずっと、後部座席で彼の手を握っていた。
親の見ている前(正確には後ろだけど)で、好きな人の手を握るなんて、普段の私からすると考えられないことだけど、その時は、なぜかそうすることに、少しの疑問も、後ろめたさもなかった。
ただ、そうしたかったし、そうあるべきだったし、そうすることが自然だった。
車を降りる時、呉島くんは、「また、学校で」と言った。
私も、「うん。またね」と返した。
指先が離れた瞬間から、月曜日が待ち遠しかった。
呉島くんは、今度、自分のピアノを聴きに来てくださいという意味のことを言った。
私はその時が、早く来れば良いと思った。私の家族にも、彼のピアノを聴いてほしかった。そうすれば、私の家族も、きっと、呉島くんのことが、もっと好きになる。
その帰り、お父さんは、車の進む先を見つめたまま、家に着くまで何も言わなかった。ただ、時々、深く考え込むようにうなったり、バック・ミラー越しに、「自分は、怒ってないよ」ということを示すように、私に優しい視線を向けたりした。
家に帰った時、入れ違いで帰っていたお姉ちゃんが、食卓テーブルに突っ伏しているお母さんの背中をなでていた。
私が驚いて、「どうしたの?」と尋ねると、お姉ちゃんは困ったように苦笑いした。
「あんたの彼氏、うちのママにはちょっと刺激が強すぎたみたい」
「まだ、彼氏じゃない」
どういうワケか、お父さんが反論した。
お母さんは、テーブルから顔を上げると、真っ赤に腫らした目をぬぐった。
「だって、悲しくて、健気すぎる……」
お父さんが、お母さんの隣に座ると、お母さんの肩に腕を回した。
「分かるよ。多分、彼がもっと、やさぐれていて、排他的で、乱暴で、礼儀知らずだったら、僕たちは、こんなにショックを受けなかった。勝手な話だ。
彼にはご両親がいないと寧々から聞かされた時、僕は、彼を不用意に傷付けないよう、あるいは、多少の無作法があっても寛容でいるよう、身構えたつもりだった。だけど僕を打ちのめしたのは、むしろ、彼が純粋で、そして、僕たちに対して精一杯真摯であろうとしたことだった」
お母さんは、お父さんの肩に頭をもたれた。
「あんなに純粋で、素直な子が、今までどれだけ傷つけられてきたのか、私には想像もできない……。あの子、『もっとマシな人間になる』って言ったのよ。信じられる? あの子は『マシな人間』じゃないって言うの? じゃあ、あの子より『マシな人間』って一体誰なのよ!」
「全くだ。彼は、自分に親がいなかったことで、人の心というものが分からないんだと思っている。
彼はまるで、自分を『人間になろうとしているロボット』だとでも思っているみたいだった。自分が心のある人間だって、知らないみたいに見えたよ。
彼の周りにいた大人たちは、一体今まで何をしていたのか、僕は、そのことがやりきれない」
お父さんの言葉を聞いた時、私はほとんど無意識につぶやいていた。
「マネージャー……」
彼女に対して私が感じた怒りの正体を、理解したような気がした。
✳︎
「今日は来てくれてありがとう
勉強はあんまり捗らなかったかもしれないけど、楽しかったよ
私の家族もお話できて嬉しかったって」
私は夜、自分の部屋に入ると、スマホの画面にそう打って、送信ボタンを押そうとしたが、途中で手を止めた。
打ち込んだメッセージを全て消して、代わりに通話ボタンを押す。
少し長めのコールの後で、呉島くんは、電話に出た。
「ごめんね、遅くに。ピアノ弾いてた?」
私がそう言うと、呉島くんは、少し間を置いて答えた。
「いや、大丈夫だ。どうした?」
「えと……何か、特別用があったわけじゃないんだけど、お話したいなって……」
「そうか。今日は、飯まで食わしてもらって、悪かったな。
俺は礼儀知らずだから、何か、お前や、お前の家族を、気付かねえうちに、怒らせたり傷付けたりしてなきゃいいんだが、どうだろう。俺は上手くやれてたか?」
私は、喉が震えそうになった。
「そんなふうに、思わなくていいよ。私の家族は、呉島くんのことを、大好きになったよ。
それは、呉島くんが、敬語で上手にお話できたからじゃなくて、心を込めてお話してくれる人だって、自分の大事な人を、ちゃんと大事にしてくれる人だって、伝わったからだよ。
だから、呉島くんは、今の呉島くんのままで、大丈夫なんだよ」
どれくらいの間だろう。電話の向こうから、沈黙が聞こえるように思った。
「俺は、お前とも、本当は2人で話したいことがあるんだ。でも、まだ、話がまとまってねえから、色々考えて、自分の気持ちを整理して、今分からねえことが分かるようになったら、そん時は、どっかで時間をくれよ」
心臓の音がうるさかった。
「そんなふうに言われたら、気になっちゃうよ」
呉島くんは、休符に意味を持たせるみたいに間を空けて、言った。
「端的に言うと、『お前が好きだ』って話だ」
ただでさえ強く脈打っていた心臓が、一層強く打つと、自分の中にこれほど激しい感情があったのかと私は驚いた。
「それって……」
「好きっつっても、いろんな種類があるからよ。俺が、お前をどういうふうに好きなのか、考えがまとまったら、それがちゃんと分かるように説明するつもりだ」
なんだか、上手くものを考えることができなかった。興奮と、落胆と、歓喜と、不安と、何か他にもいろんな感情がいっぺんに湧き上がってきて収拾がつかない。
私はスマホを口から離して、深呼吸した。
「私も、好きだよ。呉島くんの考えがまとまったら、私も、呉島くんをどういうふうに好きなのか、言うよ」
「そうか。じゃあ、早く考えをまとめねえとな。最近、俺の生活にピアノ以外のものが色々入り込んできて、頭ん中が、上手く整理できねえんだ。
心を込めてピアノを弾くにしても、心の方がこうコロコロ変わるんじゃ、俺は自分の演奏を制御できねえからな」
私は、その言葉をどう捉えるべきか、判断できなかった。
「今まで、そういうことはなかった?」
「ああ。腹が立ったり、イラついたりすることばかりで、逆に言うとその状態で安定してた。
でも、今になって思うんだが、もしかすると、俺は、敵意にばっかり感度が高くて、人の好意に鈍感だっただけなのかもな。そういうものがこの世にあるって知らなかったから、本当は近くにあったのに、気付かなかったのかも。景色が綺麗だって、知らなかったみたいに」
それを聞くと、私は、スマホを握る手に力がこもった。勇気を出す時だ。
「マネージャーさんは、どうだったの? 毎日顔を合わせてる彼女は、そういうことを、呉島くんに教えなかった?」
彼とマネージャーの関係は、最も警戒すべき事柄だったのと同時に、一番の謎だった。彼女が仮に、呉島くんをお金を稼ぐ道具としか考えてなかったとしても、例えば仕事を円滑に進めるために、その心の状態を管理しようとは思わなかったのだろうか。
スマホ越しに、呉島くんは複雑な響きでうなった。
「俺は、相手の敵意や、軽蔑に敏感だった。マネージャーの真樹からも、そういうものを感じたことは何度もある。だけど、あいつが俺に向ける感情は、なんつーか……複雑なんだ。
あいつは、俺を憎んでると思う。それも、なかなかの強さで。でもなんか、それだけじゃねえんだよな。俺とあいつはよくモメる割に、結局一番長く続いてる。それも、その憎しみ以外の何かを俺が感じてたからかもしれねえ」
私は、彼の言葉にどう返せばいいか分からなかった。でも、一方ではっきりと分かることもある。
私は彼女と、決着をつけなければならない。
それは、戦いという形をとるべきなのか、和解に向けた交渉という形になるべきなのか、いずれにせよ、なんらかの形で、彼女と対峙しなければならない。
必要なものはいくつもあるだろう。でも、結局行き着くところはシンプルだ。覚悟と闘志。私は彼を取り巻く入り組んだ事情の中で、それを捻り出すことができるだろうか。