5-5.温もりの余韻がある内に/呉島 勇吾
ガチガチに緊張して、自分でも驚いた。
俺は何千人の前で、他のどんなヤツより上手く、ピアノを弾く男だぞ、と、どれだけ自分に言い聞かせても、ロボットみたいな声しか出なかった。
そのことがさらに緊張を高める。
「呉島くん、大丈夫だよ。私の家族は、きっと、呉島くんのことを、嫌いにならないよ」
篠崎が──いや、この家にいるのは全員篠崎だが──そう言ってくれなければ、俺はこの場に固まって、この家のインテリアとして生涯を終えていたかもしれない。
だが、俺は逃げない男だ。
深く息を吸って、靴を脱ぎ、それを揃えて、篠崎の後をついて行った。
玄関を上がると短い廊下の先にリビングがあって、大きな窓際にテレビがあり、その前にローテーブルを挟んで3人掛けのソファが2つ向かい合っていた。
「呉島さん、どうぞ、座って下さい」と篠崎の父は、自分の向かいのソファを勧めた。
テーブルの上、篠崎の父の前にはアイスコーヒーと、その向かい側に2つ、麦茶と見える褐色の液体が入ったグラスが、すでに置かれていた。
「ドウモ、ありがとうゴザイマス」
俺はしどろもどろになりながらそのソファに尻を下ろしたが、隣に篠崎(娘)が座ってくれたので、少し落ち着きを取り戻すことが出来た。
篠崎の父はニッコリと笑った。
「実は、僕も緊張していました。ウチには娘が2人いて、お姉ちゃんの方は時々男の子を連れてくることがあったんだけど、寧々は初めてだったし、プロのピアニストという方と接した経験もないものですから」
「そう、なのですか……」
「でも、こうやって話すと、娘と同じ年頃の、男の子なんだなと思って、僕は安心しています」
「俺、いや……僕には……」
「『俺』でいいですよ。僕は別に、偉くもなんともない」
俺は、この父が、篠崎に似ていると思った。
「はい。俺には、篠崎さんのお父さんと、話したいことが、実はたくさんありました。それと、お母さんにも」
やっと、スムーズに言葉を並べることが出来て、俺はホッとした。
「あら、なんでしょう」
篠崎の母は、明るい人みたいだ。それに、娘と比べて、ずいぶんリラックスしている。
俺の座っているソファの左手、リビングの奥の方には食卓テーブルがあり、その奥の対面キッチンから、篠崎の母は大皿に菓子を盛り付けたのを運ぶと、俺たちの前のローテーブルの上に置き、父の隣に腰掛けた。
俺は、深呼吸をして、口を開いた。まず、何よりも先に話さなければならないことがある。
「俺には、親がいません。有り体に言うと、捨てられました。だから、俺は礼儀とか、そういうものを全然知りません。それに、短気で、強くもないのにケンカばかりしてきました。
だけど、寧々さんや、学校の友だちが俺に良くしてくれたので、俺は、そういう人たちが、俺のせいで危ない目に遭わないように生きていこうと思っています。
だから、俺はこんなだけど、これから、もっとマシな人間になれるように、頑張るので、どうか、俺を、寧々さんの、友だちのままでいさせてほしいのです」
篠崎の両親は、驚いたように、顔を見合わせた。
隣にいた篠崎(娘)も、同じ角度で俺を見ている。
「呉島くん、もしかして、今日は、それを言いに来たの?」
「俺は、この高校に来てから、初めて、ピアノ弾きじゃなく、ただ普通の人間として扱われたような気がしてるんだ。だから、ここで出来た友だちは、俺にとって大切だ。でも、その中でも、篠崎は、やっぱり、俺にとって、特別なんだ。だから、どうしても、俺みたいな奴が、友だちでいることを、家族の人にも、認めてもらいたかった」
俺がそう言うと、篠崎の両親は、まるで同じ工場で造られた置き物みたいに、両手で顔を覆った。似た者夫婦ということなのだろうか。肘や指の角度まで、ぴったり同じだった。
「何ていうか……」と篠崎の父が顔を覆った手のひらの隙間からそう言った。
「やめてよ……」と母も同じ調子でそう言う。
「私は、誰が認めなくても……」と篠崎(娘)が言うのを、その父は遮った。
「『男子三日会わざれば』というのは本当ですね。僕が呉島さんと初めて会ってから、2ヶ月くらいでしょうか。
初めて会った時、あなたは今よりもっと、荒削りで剥き身でした。
あなたは、本当に、変わろうとしているんですね。そして、そのことを、我々に伝えに来てくれた」
胸の内側が熱くなって、俺は思わず顔を伏せた。声が震えそうだった。俺はそのまま大きく息を吐いて、それから顔を上げ、篠崎の父と母を、順に真っ直ぐ見据えた。
「俺は、『ヴィルトゥオーゾ』と呼ばれるタイプのピアノ弾きです。難しい曲を弾いて、技巧を見せるタイプの。だから、音楽で人をリラックスさせたり、感動させることを、もっと言えば、人の感情について、あまり考えてこなかった。
でも、寧々さんは、俺に、『心を込める』っていうことを、教えてくれました。
心を込めて弾けば、俺の音楽はきっと伝わるし、心を込めて話せば、俺の気持ちはきっと伝わる」
「確かに、伝わりました」と篠崎の父はそう言うと、アイスコーヒーのグラスに口をつけた。
「僕は僕なりに、あなたに敬意を払っているつもりです。自分の力でお金を稼ぎ、生活をする、その意味において、あなたは大人だと思うからです。
だから、1人の大人として、僕と、対等に約束して下さい。娘を危険に巻き込まないことを。
僕と妻は、2人の娘のことを、とても大切に思っています。あなた以上に。
しかし、その約束と、その……節度を……守ってくれる限り、僕は、娘とあなたの関係に──それが、まあ、多少、発展したとしても──口を出さないつもりです。……できる限りは」
ちょっと言い澱んだりする時の話し方が、娘とそっくりだった。
俺はうなずいた。
「約束します。そして、俺はこの約束を、男として、必ず守ります」
それを聴くと、篠崎の父は深いため息をついて、ソファの背もたれに沈み込んだ。
「はぁーっ! 緊張した。まさか、こんな話になるとは」
篠崎の母は反対に、好奇心を刺激されたようで、テーブルに身を乗り出した。
「海外でも活躍されたんですって? どの国に?」
「3歳でハンガリーに行ってから、ビザとかパスポートとかの手続き以外、ほとんど日本にいませんでした。学校は、10歳まではブダペストで、それから、フランスのパリに行きましたけど、コンクールとか演奏会で、ヨーロッパ中、色んな国に行ったと思います」
「言葉を覚えるのは、大変だったでしょう」と篠崎父も、興味を示した。
「音楽家には多いそうですが、俺はその中でも特別耳がいいみたいなんです。音と意味を結びつけるのが得意らしくて、3日も人と話せば、日常会話くらいは出来るようになります。一番難しいのは日本語です。敬語のニュアンスとか」
俺がそう話している途中、篠崎の母は、「信じられない……」と呟いた。「敬語でお話しするのが、だんだん上手になってる」
「ああ……そうかもしれません。慣れてきたかも」
そう言うと、俺は、やはり、今日、ここに来て良かったと思った。他人の目は、俺も知らない、俺自身を気付かせてくれる。
「今まで行った国で、思い出に残っているのは?」
篠崎の父が間を埋めるように聞いた。
「俺は本当にピアノ以外のことに関心がなくて、ホテルとスタジオとホールの移動くらいしか出歩かなかったので、自分が今どこにいるのか分からないようなこともしょっちゅうでした。だから、あんまり思い出が無いんです。
いい思い出じゃないけど、強いて言うなら、スペインのマドリードにいた時、俺がいたスタジオの近くで爆破テロがあって、引きずり出されたとか、そんなのしか」
「引きずり出されたって……建物が崩壊したとか?」
隣の篠崎が恐る恐る聞く。
「いや、俺がピアノ弾くのをやめねえから、そこにいると危ないって」
「はぁ……それは、何と言っていいか……」
篠崎父がため息混じりに言った。
「今では少し、後悔しています。最近、北海道とか、軽井沢とか、そういうところでピアノを弾く仕事があるんですが、友だちが景色の写真を送ってくれって言うんです。俺はその時初めて、景色っていうものに、価値があることに気付きました。
色んな国を渡り歩いてた時、そのことに気付いていたらと思うと、もったいなかったような気がします」
「それは、確かに……」と篠崎の父はうなった。
「俺も、実は聞きたかったことがあるんです」
俺がそう切り出すと、篠崎の両親は、その優しげな視線を俺に向けた。
「僕たちに答えられることなら」
「家族がいるって、どういう感じですか? 俺はずっと、誰かにそれを聞いてみたかった」
不意に、隣にいた篠崎が、俺の手を握った。
篠崎の父が目頭を押さえた時、母の方は「ちょっと、ごめんなさい……」と席を立って、キッチンへ向かった。
俺は、悪いことを聞いたのかと不安になった。
「あ……いえ、言いにくいことであれば、無理には……」
篠崎の父が、首を横に振って、口を開いた。そして、慎重に言葉を選ぶように話した。
「大変なこともたくさんありますよ。いい時ばかりではないしね。でも、僕には、この家族がいなくなるなんて、考えられない。上手く説明出来なくて申し訳ないけど、僕にとっては、そういうものです」
「そうかぁ……」
俺は背もたれに寄りかかると、天井を見上げて、想像した。
「呉島くん……」
隣に目をやると、篠崎は俺を見つめていた。
「羨ましいなぁ……」
✳︎
その日夕方まで、俺と篠崎はそもそもの趣旨を思い出したように勉強した。
篠崎の父は、夕飯を、どこか店をとって食いに行こうと考えていたらしいが、途中で考えを変えたらしく、16時ころ夫婦揃って買い出しに出かけると、キッチンに並んで料理をし、夕飯を食わせてくれた。
今までに俺が食った、どんなものより美味かった、と伝えると、篠崎の母は、少し泣いた。
俺には、それがなぜだか分からなかった。
帰りは、篠崎の父が運転する車で、家まで送ってくれた。
その間、篠崎は、俺の手を握っていてくれた。
「俺の家には、ピアノが2台あります。お礼になるか分からないけど、時間のある時にでも、来てくれたら、なんでも弾きます」
俺は別れ際、そう言った。
地下へ続く階段を降り、防音扉を開けると、そこにはいつも通りのソファやテーブルやバーカウンターが並んでいたが、これだけ物があるのに、どうしようもなくがらんどうだった。
俺は、ピアノに向かい、一晩中それを弾いた。
優しい人たちに囲まれた、温もりの余韻がある内に。