5-4.私の家族はきっとあなたを嫌いにならない/篠崎 寧々
土曜の朝から、私は、緊張していた。
呉島くんが、家に来る。
昨日の出来事も、まだ上手く消化出来ていないというのに。
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マユの猛攻を食い止めようと身構えていた私は、まさかのタイミングで部長に呼び出しを喰らった。こういう場合、先輩の命令に逆らえないのは、体育会系女子の宿命だ。
用件自体は大したことではなかったが、その時にはすでに、マユは呉島くんと共に姿を消し、スマホには「先に行ってます」というメッセージがハート付きで送りつけられていた。
部長の呼び出し自体が、マユの謀略だったのか、それは分からないし、今となっては、深く問い詰めるつもりもない。
なぜなら、呉島くんの家の鍵が内側から開き、そこからマユが顔を出した瞬間、燃え上がるような嫉妬の炎にまかれて咽びそうな私に、マユはこっそり、こう言ったからだ。
「私、フラれたわ」
私はその時点でだいぶ混乱してしまったし、2人きりの部屋に内側から鍵がかかっていたことに酒井くんも混乱していて、多分、マユの猛攻を受けていたであろう呉島くんもどうやら混乱していたらしく、さらに言えばフラれたマユも混乱していたのかもしれない。
何となく全員が浮き足立った雰囲気のまま、勉強会がスタートすると、また呉島くんの勉強法というのが独特で、覚えるべきことを他人に読み上げてもらうと、耳で覚えてほとんど忘れないのだといい、実際その成果を目の当たりにすると、その不思議な光景に、私たちはさらなる混乱に陥った。
おそらくこの空気では勉強に身が入らないと、口に出さずとも全員が感じていたようで、誰が言い出すともなくその日の勉強会は早々に解散となった。
彼の家を出ると、酒井くんは「俺、ちょっと寄るとこあるから」と足早に立ち去った。
私とマユの間に、話すべきことがあると察したのが一目で分かった。ものすごくスマートな人だ。
マユと2人、駅に向かう途中で公園を見つけ、私が「そこで、ちょっと話さない?」と誘うと、マユは二つ返事でそれにこたえた。
ベンチに並んで座ると、マユは少し考えをまとめるような沈黙の後で、話し始めた。
「キスしようと思ったんだけどさぁ、断られちゃった」
「一撃が、重い……」
私が思わずそう呟くと、マユは笑った。
「それは、アンタがユーゴくんに抱きついたって聞いた時の私の心境だよ。私、あん時、嫉妬で狂いそうだったから。まあ、今もだけど」
「それで、呉島くんは、何て?」
「それは私とユーゴくんの秘密」
「えぇ……そんなぁ……」
そこまで言っておいて、と私は食い下がろうとしたが、マユの悲しそうな表情を見てやめた。
「私もそこまで突っ走るつもりはなかったんだけどさ。もう、2人きりになった時点で、無理だよね。『キスしたい』って気持ちが抑えられなくなっちゃった。で、暴走して、自爆」
「分かる。独特の、引力を持ってる」
「それ。2人きりの部屋でさぁ、その引力に引き寄せられた女がいて、それでもユーゴくんにはその衝動がわかなかったって時点で、もう詰んでるよね。
でも、不思議と晴れやかだわ。そういうフラれ方だった。あとは、アンタもフラれてみんなが不幸になってくれれば、言うことなし」
「みんなの幸せを願おうよ」
「無理に決まってんだろ。ぶっ殺すぞ」
「全然晴れやかじゃない……」
「コッチはフラれてんだぞ。ちったぁ気を使え」
「私なりに、使っているつもりなのですが……」
「全然足りないわ。もっと褒めそやせ。健闘を讃えろ」
「それは、本当に凄いと思う」と私は心から言った。
「マユには最初から、照れも躊躇も誤魔化しも、一切なかった。ずっと堂々としていて、私はそれに、少し、憧れた」
「だろうが! 常に全力! フルスロットル! 最初っから最後まで、出し惜しみなしの最大火力! そう、最初っから……最後まで……」
マユはうつむいて、私の手を握った。彼女の小さな手は震えていた。
「マユ……」
私が言葉に詰まると、マユはうつむいたまま、言った。
「自分に勝った相手がさ、次に進んでショボい試合したらムカつくって気持ち、アンタ分かる?」
「分かるよ。当然だよ」
「アンタ、私にそういう思いさせないでよね。まあ、私は決して、アンタに負けたわけではないけど。決して」
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これは、マユの弔い合戦だ。
昨日はあのマネージャーとエンカウントしなかったから、私には十分な余力が残っている。
お父さんにもお母さんにも、十分に趣旨を説明した。
意外だったのは、お父さんが私と同じくらい緊張しているということだったが、ちゃんと綺麗で、でも頑張り過ぎてないというレベルの服を、私が直接選んで、着てもらうようにお願いした。
部屋は片付けたし、掃除機もかけたし、床用ワイパーもかけて、カーペットもコロコロをやった。
姿見に自分の身体を写し、ファッションを確認する。ベージュのロングスカートに白いノースリーブのカットソー。本当に、これでいいのだろうか。
私くらいの身長になると、本当に、かわいい服がないのだ。
私だけトールサイズのお店に寄らなくちゃいけないから、友だちとお買い物に行くのも気が引けるし、背が高いというだけで、スタイリッシュでカッコいい系の服を着なくちゃいけないみたいな謎の圧力があるし、ちょっと間違えば妙な迫力が出てしまう。
私のクローゼットにあるのは、そんな中から血眼になって見つけ出した逸品揃いだけど、その中でも、「私こんなの部屋着にしてます」みたいな、「別に力入ってません」って感じのコーディネートを、お姉ちゃんに相談して(お姉ちゃんは5分で飽きて、あとはほとんど適当だったけど)決めたのだ。
時計に目をやると、ちょうど13時だった。
私は急いでリビングに降りる。
お父さんは、ソファの背もたれから拳一個分空けて、面接を受ける就活生みたいに背筋を伸ばしている。
「ねえ、お母さん、新聞とか、あった方がいいと思う?」
「要らないでしょ。なんでアナタがそんな固くなってんの」とお母さんは呆れたように言う。
そのお母さんも、かなりしっかりめにアイラインを引いている。
インターホンが鳴った。時計は、13時5分。
私たちは、揃って身構えると、恐る恐るインターホンの前に集まる。
モニターに映っているのは、他ならぬ呉島くんだった。
受話器をとって、声が裏返らないように、慎重に、声を出した。
「ハイ……」
「コンニチハ、クレシマといいマス」と上擦った声で言う。
それを聞くと、私は少し、緊張がほぐれた。呉島くんも、緊張しているのだ。
「私。寧々だよ。今行くね」
そう言うと、リビングを駆け出して、玄関のドアを開ける。
「いらっしゃい」
呉島くんは、白い無地のTシャツに、黒のパンツを履いていた。私服を見るのは初めてで、新鮮だった。清潔感があって、シンプルで、すごく良い。
「ああ、緊張した。約束の時間より、5分か10分遅れて行くのがマナーだって、ネットで調べたんだけど、本当かどうか、自信がなくてよ。遅刻だと思われたらどうしようとか、5分なのか? 10分なのか? とか、家の前で10分くらいずっと迷ってた」
リビングから、くすくす笑う声が聴こえて、少し決まりが悪そうに、呉島くんが肩をすくめると、お父さんがリビングから顔を出した。
「いらっしゃい。そんなに、気を使わなくてよかったのに。どうぞ、上がって」
「ああ、篠崎 寧々さんのお父サン、コンニチハ」
呉島くんは、小学生の劇みたいな調子でそう言うと、ぎこちない動作でお辞儀をした。
お母さんも、顔を出す。
「あらぁ、ハンサムじゃない。上がって上がって!」
「ハイ。オジャマしまス」
私は、お父さんとお母さんの目の前で抱きしめてしまおうかと思った。
私の家族に、呉島くんは、一生懸命、礼儀を尽くそうとしているのだ。
そして、ガチガチに緊張している。
「呉島くん、大丈夫だよ。私の家族は、きっと、呉島くんのことを、嫌いにならないよ」
私は、そのことには、本当に自信があった。