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悪童ピアニストと内気な剣道女子のための叙情的組曲【書籍2巻発売中】  作者: 福太郎
第1曲「重苦しく、ときに激情をもって」
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1-4.誤解を受けやすい日/篠崎 寧々

「ネネ、今日は? 部活出る?」


 3時間目の授業が終わり、廊下に出ると、隣のクラスで同じ剣道部の平坂 マユが声をかけてきた。


 私と違って、とてもサッパリした性格の、ちょっと茶色く染めたポニーテールが似合う、明るい女の子だ。


「うん……多分、行く……と、思う」私は曖昧に返事をする。


 マユちゃんは呆れたようにため息をつく。「アンタさぁ、どういう気持ちなわけ?」


「気持ち?」質問の意図が分からず聞き返すと、マユちゃんは念を押すように、改めてもう一度ため息をついた。


「いや、もう中1から勝ちまくりで、県内の剣道女子を恐怖のドン底に叩き落とした『北中の巨神兵』がさぁ」


「えっ……? 恐怖、とか、私は別に、そんなのじゃ……」私はマユちゃんの言葉にショックを受ける。『北中の巨神兵』……そんなふうに呼ばれていたのか。


「部活に来ても見取り稽古ばっかりで、面もつけずに帰るってのは、さすがに印象悪いよ。脚はもう、いいんでしょ?」


「うん……もう、大丈夫」


「何さ。じゃあ、手の内を隠してるわけ? 団体メンバーの選抜戦に向けて。でも、あんまり休みがちだと、選抜で勝ってもチームが納得しないよ?」


「うん。分かった」と私は返事をしたが、マユちゃんは納得していないみたいだった。


 彼女は、県内の大会では上位の常連だった。私も、もう何回か数えていないくらい対戦したが、素早く、力強く、粘り強い剣道で、何より勝利に対する執念が強い。


「私とアンタで、団体の一年レギュラー獲ったら、もう全国だって見えてんだからさぁ……」と、働かない娘に母親が言い聞かせるような調子でそう言うと、マユちゃんは突然話題を変えた。「それよりさぁ、見た? ピアニスト」


 私はそれを聴くと、なぜかドキッとした。「呉島 勇吾くん?」


 呉島くんは、マユちゃんと同じクラスのはずだ。


「そう。何アンタ、イケメンの名前はちゃっかりひかえてるワケ? このどスケベ女剣士!」


「いや! そんな……どスケベ?」私は必死に否定する。ひどい誤解だ。


 廊下にいた他の生徒たちが、一瞬こっちに視線を集めた。


 やだぁ、あのデカい女、どスケベなんだって……とでも言わんばかりに。


「いやぁ、彼、カッコいいわ。なんかさぁ、孤高の天才? 媚びない男っていうかさぁ」


 確かに、マユちゃんは、ちょっと変わった好みというか、悪っぽい子が好きなような気はしていた。だが、そんなことより、私はこの誤解を解いておかなければならない。


「あの、私は、どスケベじゃないから……」


「それが、朝から顔にキズ作ってきて、みんなちょっと引いてたわけ。アンタ、なんか知らない? あれ絶対ケンカでしょ」


「あの、私は、どスケベとかではなくて……」


 マユちゃんは全然こちらの話を聞いてくれない。


「朝、酒井くんが聞いたのね。『顔どうしたの』って。そしたら『転んだ』だって。もう、ツボなんだよね、そういうの。ケンカしたこと隠してる感じ。で、酒井くんキッカケでみんな何となく打ち解けてきてさぁ、質問攻め」


「だから、その、どスケベでは……」


「それで、ウチの担任いるじゃん。ヒスばばぁ。朝、早速もめてさぁ。そりゃ、世界的なピアニスト? 預かってて怪我させたんじゃ、アレじゃん? そういうことだと思うんだけど、生徒指導室に来なさいってなって、何て言ったと思う?」


「いや、私、どスケベじゃないし……」


「『後で、みんなの質問に答えようと思ったのに……』だって。ちょっと、カワイ過ぎない? 母乳出るかと思ったわ。母性本能刺激され過ぎて。まじヤバい!」


「あの、私は、『どスケベではない』という、そのことだけは、どうしても、分かってほしくて……」


 私が食い下がると、マユちゃんは私の肩を叩いた。


「アンタ、自分の話ばっかりかよ!」


 私はびっくりしてしまって、返す言葉が見つからなかった。


 次の授業の開始を告げる鐘が鳴る。


「あ……」と思わず声を漏らす私に、マユちゃんは「じゃあ、部活でね!」と明るく言って、教室へ戻って行った。


 トイレに行きそびれた。しかも、尿意はなかなか高い水準にまで達している。


 ちょうどそこへ、次の授業の担当である数学の先生が通りかかった。中年の男性教諭だ。


「どうした? 早く教室に入りなさい」と先生は言う。


 私は、男性にこういうことを言うのが恥ずかしくてためらったが、今トイレに行かなかった場合のことを想像し、そこで起こりうるリスクと天秤にかけると、意を決して口を開いた。


「あの、トイレに行きたいです」


 私がそう言うと、先生は驚いた顔をした。「行ったらいいと思うよ?」


「私も、そう思います」


「ただ、休み時間は十分あったはずだから、その間に行くべきだったよね」と予想に反して先生がしゃべり始めたので、私は思わず(おぅふ……)と意味の分からない言葉を心の中で呟いた。


 まさかここで、お説教が始まるとは。


 社会に出ると、時間を守ることは大切だ、とか、信用というのは、時に些細なきっかけで失ってしまうものだ、とか、失った信用を取り戻すのは、失った時の何倍も大変だ、とか、大事ではあるだろうけれども今じゃなくても……という話を一通り聞き終わると、私は会釈をしてトイレに急いだ。


 窓の外の空は、朝の日差しが嘘のように、いつの間にか雲も厚くなって、今にも雨がこぼれ落ちそうだった。


(やめて! 私の膀胱を象徴するのは!)と心の中で叫びながら、私はトイレに駆け込んだ。

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