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5-3.「キスしようよ」/呉島 勇吾

 このところ、マネージャーの真樹は俺のスケジュールが重なっていた時期よりよほど忙しいらしかった。


 なんでも、ショパン・コンクールの予選を通過した時点で、「ウチはその時から目をつけていた」と先見の明をアピールしたいメディアがいくつかあり、また依然寄せられる出演依頼を断りつつ、客が離れないよう繋がなければならないという、微妙な調整に気を揉んでいるらしい。


「それもこれも、アンタが『いい子ちゃん』だったら何の苦労もなかったんだけどね」

 真樹は仕事の話になるたび、そういうような意味のことを繰り返し言ったが、俺にとってはアイツが忙しく飛び回るのは大変結構なことだ。


 おかげで、家に友だちを呼んでも口喧(くちやかま)しく文句を垂れる奴はいない。


 放課後、俺は真樹に電話をかけ、迎えは要らないこと、今日は男1人、女2人、友だちを家に呼ぶことなどを告げると、真樹はこう答えた。


「アタシがアンタのピアノのために、キリキリやってる裏で、合コンまがいの『勉強会』とは恐れ入ったが、生憎マジで忙しくって、文句言ってる暇もないんだわ。

 とりあえず、酒、タバコ、マリファナ、ヘロイン、覚醒剤なんかにゃ手を出すな。

 それと、こないだみてぇなケンカはもちろん、放火や乱交、連続殺人もな。

 とにかく、トラブルさえ起こさなきゃ、ある程度のことは目をつむってやる。いいか、今だけだぞ」


 といった具合に、ある程度の自由を許されたようだ。


  ✳︎


「なーんでネネを呼んじゃうかなぁ……」

 電車の座席に座ったマユが、そう言った時、俺は明日の予定について考えていた。

 明日は篠崎の家に行って彼女の家族に会う予定で、敬語を上手く使えるだろうか、とか、手土産は必要だろうか、とか、そういうことを。


 マユは吊り革を掴む俺を上目遣いに睨んだが、その睨み方は、抗議の意思は伝わるが、敵意は感じないという微妙な力加減だった。


 篠崎と酒井はそれぞれ放課後に少し用があり、俺はそれを待つつもりだったが、マユは人が来る前に部屋を片付けるべきで、それを自分が手伝うと強く主張するので、俺はそれに屈したのだった。


「家に友だち呼ぶのは初めてだから、加減が分かんねえんだわ。良くなかったか?」


 俺がそう言うと、マユはこれも、こちらが不快に思うほどではなく、しかし責任は感じる程度の、絶妙な音色のため息をついた。


「だって、言ってるじゃん。好きだって。まさか他の女を呼ぶとはねぇ」

 他の乗客の遠慮がちな視線が、俺とマユに集まったが、彼女はそういうことに頓着しないらしかった。


 地下鉄の駅を出ると、5分も歩かない位置にある俺の家、というか、潰れたピアノ・バーの前で、俺はシャッターの鍵を挿して、それをガラガラと引き上げた。


 地下へ続く階段を降り、音楽ホールを意識したらしい防音扉を押し開けて、中に入る。


「へぇ……すごい……。本当に、こんなところに住んでるんだ……」

 マユはフロアを見渡しながら、感慨深げに呟いた。


『こんなところ』というのをマユがどう評価したのか分からないが、俺は曖昧に「ああ。そうだな。俺はピアノが弾けりゃ、他のことはたいがい、どうでもいいって人間だから」と答えた。


「そこのドア、鍵は?」

 入口の防音扉を指して、マユが聞く。


「下の方」と俺が言うと、マユはそれを見つけ、サムターンを回した。


「なんで鍵かけんだよ」


 マユはそれに答えず、「全然、片付いてるね」と、きょろきょろ辺りを見回しながら、3人がけのソファに腰を下ろして、その隣に座れと指示するように、手のひらで軽くクッションをたたいた。


「ああ。マネージャーが毎朝片付けてく。つっても、俺もたいして物を持ってねえから、飯食った食器と、脱いだ服とか、毛布とか、そんくらいのもんだけどな」

 俺はマユに促されるまま、彼女の隣に腰をおろした。


「じゃあ、片付けなんて、要らなかったね」


「まあ、薄々俺もそう思ってたんだが……」

 俺がそう言う途中で、マユは俺の膝に手を置き、身体をひねって俺の顔を覗き込んだ。


「ねえ、ユーゴくん、キスしようよ」


 俺はその唐突な提案に、答えるべき言葉を持っていなかった。


「イヤ?」

 マユは、責めるような、慈しむような、そういう、本来混じり合わないものが、不思議と混じり合ったような声と眼差しで、俺の答えを待つ。


「イヤではねえな」


「じゃあ……」

 マユは俺の顔に手を伸ばした。


 俺はその手を掴む。

「俺は、自分の気持ちを人に話すのが、あんまり得意じゃねえ」


「でも、言ってくれなきゃ、分からないよ」


「だろうな。だから、これから、一生懸命説明しようと思う」


 マユは、俺の瞳の奥行きを測るように、少し間を置いてから、「うん。そういう所も、好きだよ」と言った。


「俺は、本当に、金と音楽以外のことは何も考えずに生きてきた人間だ。そして、俺がそういう人間だから、周りの奴らもそういう連中ばっかりだった。

 俺がどれだけピアノを弾くか、それがどれだけ金になるか、俺はそういう目でしか見られたことがねえ」


「私はそういう人たちとは違う」

 マユは、怒るのとも慰めるのとも違う、中立的な言い方で、そう言った。


「ああ。俺が日本の高校に来たのは、事務所の指示だったんだが、それを聞いた時、俺は社長の脳味噌には治療が必要なんじゃねえかと思った。日本の、それも音楽科でもねえ高校に俺を入れて、3年間歴史や数学を勉強することに何の意味があるんだってな。

 だけど、今は、まあ、感謝まではしてねえが、納得はしてる。

 お前や、篠崎や、酒井と会えたからだ。俺には、そういう出会いが必要だった」


 マユはうなずく。

「それは、私にとっても」


「お前は、どうしてそう思うんだ?」と俺は聞いた。

 思えば、マユが俺を好きだと言い出すまで、俺とマユとの間には、これといったエピソードもなかった。


 マユは、真っ直ぐに俺の目を見据えて、そして整然と話し始めた。

「私は時々、自分が少しずつ、大人に近付いてるって感じるんだ。

 小学校の高学年とか、中学生とか、もうそのくらいの頃には、友だち付き合いはだんだん打算的になっていって、恋だって、相手は学校でどんな地位にいるか、競合は多いか、その人を狙ってグループの輪は乱れないか、そんなことばかり考えてた。

 でも、ユーゴくんを初めて見たとき、私は何の理由もなく、ユーゴくんを好きになった。顔とか、声とか、雰囲気とか、そういうことなのかもしれないけど、でも、それだけのことで人を好きになるなんて、これからの人生でどれだけあるのかな。

 私たちは、きっとこれからも、どんどんズルくなって、効率的になって、人と人とが付き合うことも、都合や条件のすり合わせになっていく。そう思うと、たまらなく心細くなる。

 だから、ただ純粋に『この人が好きだ』って思えたことが、私にはとても大切なんだ」

 マユはそう言うと、俺の胸に額をあてた。


 俺は、「ああ……」と声を漏らした。俺にはそれが、痛いほど理解できた。

 そして、俺は自分の本当の思いを、本当の言葉で伝えなければならないと、そう思った。


「俺はな、お前も、酒井も、篠崎も、何なら阿久津も好きだ。それぞれ種類は違うかもしれねえが。あの学校に通うようになってから、そういう人らがいっぺんに現れて、俺は未だに、少し混乱してる。

 俺は最近、そういう人たちが、俺のせいで傷つかねえためにはどうしたらいいかということを、時々考えるんだ。

 俺がお前とキスしたら、何かが決定的に変わるように思う。逆に、そうじゃなきゃならねえようにも。

 俺は、お前のことが、どういうふうに好きなのか、まだよく分かってねえ。だけど、俺にとって大事な人間だってことは間違いねえから、いい加減に扱いたくねえんだ」


 マユは、俺の胸から顔を離して、ほんの一瞬、それこそ瞬くような短い間、顔を歪めた。俺にはその顔が、笑っているようにも泣いているようにも見えた。

「『キス断り選手権』があったら、ユーゴくんの優勝だよ」


「多分、ねえけどな」


 その時、入り口のドアが、不意にガタガタと音をたてた。


「あれ……」

 外から酒井の声がする。


 マユはソファから立ち上がって、「今日のことは秘密ね」と言うと、防音扉の方へ小走りに駆け出した。


「俺の言ったこともな」


 マユはこちらを向いて、からかうように笑うと、扉の鍵を開けた。


 扉の外には、酒井と篠崎とが、並んで待っていた。

 俺はそれを見た途端、何か薄暗い感情が腹の底に重く淀むのを感じて顔をしかめた。


「いや、ちょっと……え……」

 酒井は戸惑いながら、言葉を探しているようだった。


「酒井くん、ちょっとシーして」とマユは人差し指を口の前に立てて見せた。


「いや、何コレ、大丈夫?」と不安そうに言う酒井を、「いいから……」と招き入れると、篠崎に、何か耳打ちした。


 それは、耳に自信のある俺にも聴き取れないくらいの小さな声だった。

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