5-2.女の勘/篠崎 寧々
この世には、『女の勘』というのがあるらしい。
昼休み、校庭のベンチで呉島くんとお昼ご飯を食べている時、私は、ああ、これがそうか、と、完全にピンときた。
昨日の夜、「お弁当を作るので、一緒にお昼を食べましょう」と私が誘うと、呉島くんは快諾してくれた。呉島くんと出会ってから2ヶ月半くらい経ち、私はこのくらいのことは自然に誘えるようになっていた。その点は進歩と言っていい。
さて、呉島くんはその日の朝、何の前触れもなく、クラスの女子から、期末試験での勝負を持ちかけられたそうだ。
「何せ、いきなりだからよ。俺も売られたケンカは買ってやるっつー心理が働いてだな……」と言い訳するように、呉島くんは言う。
怪しい。
呉島くんは、マユから告白されたことを、私には話さなかった。
私は呉島くんと付き合っているわけじゃないし、彼にはそんなことを私に報告する義務はない。
でも、2人でお昼を食べたり、私のためにピアノを弾いてくれたり、ただの友だちというには、もう少し親密だよね、という自負もあったりする。
そう考えると、私としてはとても複雑だった。
「誰それにコクられてさぁ」などと、鵜飼の鵜みたいにペロッと喋ってしまう口の軽い人も、それはそれでイヤな気はするし、かといって、秘密にされているのもモヤモヤするのだ。
そこにきて、また新たな刺客が現れた。
先の中間テストでは学年5位につける秀才にして、呉島くんに勝負を仕掛ける闘争心を持っている。
これは、初めはいがみ合いながらも、ふとしたきっかけで互いの長所に気がついたり、誤解が解けたりして、次第に絆が深まっていく系の、中・長期的恋愛戦略を立てていると見ていい。
しかも、マユの話では、オシャレに気を使うタイプではないが、素材は悪くないそうだ。
これも、あえて最初は垢抜けない印象で登場し、関係が深まっていくにつれ、相手の好みに合わせつつ、素材の良さを活かして変身していくことで、呉島くんに育成の楽しさを植え付けながら、ギャップで魅了し、かつ未開の地へ漕ぎ出して行く冒険心をも刺激しようという、幾重にも張り巡らされた巧妙な戦略に違いない。
私は息を飲んだ。強敵だ。
そして、呉島くんの慌てようを見るに、彼女はすでに、何らかの具体的な行動に出ているのではないか。
しかも、呉島くんはマユから告白されたのを隠すくらいのことではこんなふうに慌てない。
つまり、何かもう一歩踏み込んだ、影響力の強い行為があったと考えるのが自然ではないだろうか。
例えば……と考えて身震いした私の顔を、呉島くんは不思議そうに覗き込んでいた。
「聞いてるか?」
「ごめん、なんか、その笹森さんって子が不思議で、いろいろ想像が……」と、私は慌てて取りつくろう。「でも、そういう戦いは、別にいいと思う。誰も怪我をしないし」
「だろ? だよな。怪我しねえなら別に、悪いことは何もねえよな」
呉島くんは、ホッとしたように言う。
私はその様子を見ると、あれ? と思った。
呉島くんは、もしかして、西高裏の公園で私と交わした約束のことを考えていたのではないだろうか。その解釈について。
私は「ケンカをしないで」「ピアノで戦って」と言った。字義通りにとった時、呉島くんと笹森さんの争いは、ピアノ以外の闘争だから、その約束に抵触するのでは? とか、そういうことを。
そう考えると、私は、呉島くんを疑ったことを恥じた。
「それにしても、後から気付いたんだけど、勝ったらどうとか、負けたらどうとか、何もねえんだわ。これ、わざわざ勝負吹っかける意味あるか? 普通に勉強頑張って、順位表見て勝手に一喜一憂してりゃいいだろ」
それは、私も不思議に思った。
「確かに……」
しかし、彼女はそのアプローチで、良くも悪くも自分の存在を強烈に印象付けることに成功した。ちょっとズレているようで、しっかり結果を残している。いかにも頭のいい人の恋愛戦略という感じだ。
「まあ、とにかく、そんなわけで、今日の放課後、俺んちで勉強会をすることにしたんだ」
「えっ?」衝撃の新事実に思わず声をあげる。「それはつまり、呉島くんのお家で、勉強会をすることにしたっていうことですか?」
「そう言ったつもりだが」
「参加資格とかは?」
「ねえよ。酒井とマユが来るから、お前もどうかと思って」
私は思わず身を乗り出した。
「手足がちぎれても行きます!」
すでに『告白』というワイルド・カードを切っているマユを、好きに暴れさせておくわけにはいかない。
「いやだから、俺んちへの道のりは、そんな険しくねえんだわ」と呉島くんが言った時、彼のスマホがブブッと鳴った。「あ、笹森だ」
私は思わず目を見開いた。
「連絡先交換したの?」
私がそれを聞くのに、どれだけの時間と勇気を費やしたか。
「ああ。休み時間に聞かれてな。見るか?」と呉島くんは画面を見せる。
「あなたを学年3位の座から引きずり下ろす女
笹森です
よろしく」
「お前の吠え面をスマホの背景にするのが楽しみだ
せいぜい鏡の前で練習しておけ」
「私もあなたが惨めったらしく這いつくばる様を想像すると心温まる思いです
いつでも土下座出来るように、床に敷く毛布でも用意しておきなさい」
──こういう罵り合いが、休み時間のたびに交わされている。
「ムカつくぜ、この女」
呉島くんは顔をしかめる。
私は、逆に仲良しなんじゃ? と思ったが、言わないでおいた。
「それで、今の連絡は、何て?」
「ああ、そうだった」と呉島くんは、画面をスクロールする。
「勝負がついた時の話だけど、
負けた方が勝った方の言うことを
何でも一つきくこと
あなたが怖気付いて勝負を降りるなら無理強いはしないけど」
「ありがちだな」
呉島くんは鼻で笑うと、スマホを持ち直して、画面に指を滑らせる。
「じょ、う、と、う、だ、わ、ク、ソ、が……っと。もう少し、何かねえかな」
「もうちょっと、優しく言ってあげて」と私は言った。
「そうか。あえてな。『あんまり強い言葉を吐かない方がいいよ。あとで恥をかくのは自分だから』とか、どう?」
「いや、そういうことじゃなくて……『お互いベストを尽くしましょう』とか」
呉島くんは珍しいものでも見るように私を見つめる。
「独特のセンスだな……」
「ええ……? そうかなあ……」
私は自分の感覚に自信がなくなってしまったが、呉島くんは言った通りに返信して、それを私に見せると、スマホをポケットにしまい、私の作った卵焼きを口に運んだ。
「んー!」と口を押さえて唸ってから、それを飲み込んで「美味え!」と声をあげる。
呉島くんは、いつも美味しそうに食べてくれるので、私もこのところ料理に熱が入っていた。
「しかし、こうやって度々、弁当作ってもらって悪いな。材料だってタダじゃねえだろ。俺も料理ができりゃいいんだけど、全然だからな」
私は首を横に振る。呉島くんは、知らない人や嫌いな人には攻撃的な反面、好意的だと感じた人には、意外なほど、相手の負担だとか、都合だとかということについて、よく考える人だ。
「だって、私もご馳走してもらったり、お土産もらったりしてるから。本当は、ちゃんとしたお店とかでお返し出来ればよかったんだけど」
呉島くんは、思い出したように口を開いた。
「そうそう、これからコンクールまで、仕事減らすらしいんだ。さすがにそろそろショパン弾けっつって。土日空く日も出てくると思う。早速、今週末も空いてる」
試合中、不意に相手が集中を切らして打突の好機が訪れた、みたいな感覚があった。
「じゃあ!」思わず声が上ずる。
「ん?」
呉島くんは首を傾げた。
「明日! 土曜は、2人で、勉強をしませんか!」
私は、意を決して相手の懐に飛び込む。リスクを取るなら、今だ。
「俺んちでか?」
「それは、ご都合のよろしい方で……」
呉島くんは、視線を上に泳がせて、少し考えるようなそぶりをした後、口を開いた。
「お前と家族がよければ、お前んちに行きたい。俺は3歳以来、家族に囲まれて育ったことがねえから、普通の家族ってのがどういうもんか、見てみたい」
この人は……と、私は一瞬言葉に詰まる。
急に、こういう切ないことを言い出すのだ。その度に、私は彼を抱きしめたくなってしまうということを、知っているのだろうか。
「分かった。親に聞いてみる」
私がそう言うと、呉島くんはうなずいて、ポケットのスマホを取り出し画面を見た。
「そういや、笹森から全然返事がこねえな。これ、お前の煽り文句が相当効いたんじゃねえ?」
「いや、煽ったつもりは全然なくて……」と私が弁解しようとした丁度そのタイミングで、呉島くんのスマホはブブッと鳴った。
「くそ、来やがった」
呉島くんは画面を私に見せようと、肩を寄せる。
彼と触れ合った二の腕だけが、だんだん熱を帯びていくように思った。傷だらけの、華奢で長い指が視界に入ると、画面の文字に意識を集中できなかった。私は、この指が好きだ。
呉島くんが、読み上げる。
「何?『酒井くんには、彼女がいるのか、教えなさい』
おい、何で偉そうなんだコイツ。知らねえし」
私はその瞬間、自分の『女の勘』が、全部外れていたことを知った。と同時に、呉島くんのマネージャーと、マユの存在を、強く意識した。
私は、この程度の女子力で、あの2人を相手取って戦わなければならない。おそらく、そう遠くない将来。