5-1.強制エンカウント/呉島 勇吾
「おい、昔の不良」
朝、学校へ向かう車に乗り込もうとするタイミングで、真樹がそう呼んだ。
「それ、やめろっつーの。もう謝ったろ」
俺は後部座席に乗り込んでドアを閉める。
西高の連中とケンカしてから3日も経った頃には、顔の腫れもほとんど引いたが、それ以来、真樹は俺をずっとこう呼んでいた。
「謝って済むかボケ。テメェ、定期テストとか、大丈夫なんだろうな」
真樹はそう言いながら、レクサスのエンジンを回す。
「定期テスト? まあ、大丈夫だろ。入試も中間も何とかなったし」
「それはアタシが対策打ったからだろ。学校の休みが補習で潰れるとか、シャレにならねえからな」
確かに、前回のテストでは、試験範囲を真樹に見せて、要点やなんかを口頭で説明されたので、聴覚記憶のエゲツない俺は試験を突破できたが、今回は真樹も営業だなんだと忙しく、俺の試験勉強に付き合っている暇はなかった。
「仕事減らすんじゃねえのかよ」
ショパン・コンクールが近づいているということで、さすがに今年の夏から秋にかけては、仕事を減らしてそちらに向けた練習に集中させろと社長から指示があったらしかった。
「だから、ただでさえ少ねえ仕事を、下らねえことで潰すなっつってんだよ」
俺は少し、頭をひねった。「テストは大丈夫なのか」と聞かれれば、正直なところ、よく分からなかった。
「まあ、なんとかやるわ」とだけ答えたが、俺はその手段について何も知らなかった。
✳︎
朝、教室に入ると、期末試験の話題がちらほら耳に入った。
「なあ、テストって、いつ?」
俺が聞くと、酒井は目を丸くした。
「いや、週明けじゃん」と当たり前のように言う。
「は? 聞いてねえぞ」
俺は愕然とした。今日は金曜日だ。3日後ということか?
「プリント出てたじゃん」
「誰が見んだよあんなもん。大体、プリントが多すぎて、俺に関係あるのかないのか分からねえから、俺はたいがい読まねえんだ」
「自分に関係あるのかないのか、読んで判断しようよ」
俺は酒井の言葉を反芻した。
「なるほど、一理ある」
「一理じゃねえだろ。もっとあるわ」
「いや、何となく、『テストが近いらしい』ってのは肌で感じてたが……」
「感じるな。考えろ」
「いや、てか、やべぇぞこれは。俺は別に、赤点さえ取らなきゃいいんだが、こうなってくると全くの未知数だ」
などと話していると、そこに一人の女が割って入った。
「呉島君!」
俺は自分に向けられる敵意に敏感だったが、そうでなくとも分かるくらい、女の声は敵意に満ちていた。
気が強そうというわけでもないが、頑固そうな目つきをした女だ。
「あ?」
俺が女を睨むと、彼女は怯んだように生唾を飲んだ。
膝が隠れるより少し長い丈のスカートだとか、肩幅の余ったブラウスだとか、制服のサイズ感が身体のどの部分にも合っていなくて、何となく野暮ったい。
女は、何か決意を改めるような間をとって、俺を人差し指で差す。
「期末テストで、私と勝負しなさい!」
酒井が慌てたように間に入った。
「いやいや、笹森さん、どうした?」
彼女は笹森というらしい。
「ちょっと、酒井くんは黙ってて」
「はい……」
酒井は笹森の強い口調に、いともたやすく屈した。
「呉島くん、あなた、前の中間テスト、学年3位でしょ」と笹森が言う。
「そうなの?」
俺は酒井に尋ねた。
「いや、知らないわ。逆に、なんでユーゴは自分の順位知らねえの?」
「どうやって知るのかも知らねえわ」
俺が言うと、笹森は思うように話が進まないことにうろたえて、目を泳がせた。
「順位が貼り出されるでしょ。上位50名は。成績票も配ってるし。見てないの?」
俺は説明を求めた。
酒井と笹森の話を総合すると、この学校では、定期テストの上位50名を廊下に貼り出すらしい。また、各教科の得点と平均点、学年順位、クラス順位なんかが記載された『個人成績票』というカードが配られ、学力的に自分がどのくらいの位置にいるかを確認出来るようになっているそうだ。
言われてみると、何か色付きの厚紙に数字が並んだのを、受け取ったような気もする。そして、それによれば、俺は前回の中間テストで学年3位の成績だったらしい。
「いや、じゃあ、ユーゴは何を悩んでたの?」と呆れたように言う。
「俺も知らなかったし、今回はマジで何も対策してねえ」
笹森はそのやり取りを見ると、余計に腹を立てたらしかった。
「私は前回、学年5位だった。今回は絶対負けない!」
「いやお前、1位の奴と勝負しろよ」
わざわざ3位のヤツに突っかかるというのは、志が高いのか低いのか分からない。
「私は段階を踏むタイプなの」
「いや知らねえし」
笹森は、今にも噛みつかんばかりに俺を睨んで、机の天板を平手で叩いた。
「私は、授業にも勉強にも真剣に取り組んでる。ピアノがすごいか知らないけど、あなたみたいに反抗的で、授業を抜けたり、ケンカしてくるような不良に、勉強で負けるのは我慢出来ない」
「笹森さん、そういうのは、心の中で思っておけば……」
酒井がなだめようとするのを、俺はさえぎった。
何が彼女をかき立てるのか知らないが、ここまで言われて黙っているほど、俺は温厚なタチではない。
「いいぜ。やってやるよ笹森。俺はな、お前みたいな負けず嫌いを、ボロクソにブチ負かすのが大好きだ」
「性格がクソ……」
酒井がため息を漏らす。
笹森は顔を真っ赤にして、ふんっ! と鼻から短く息を吐くと、踏み鳴らすように自分の席へ帰って行った。
静まり返っていた教室の中に、どよめきが起こった。
「え……今の何?」
話の途中から教室に入ったマユが、尋ねてきた。
「テストだよ。笹森さんが、急に勝負仕掛けてきた」と酒井が簡潔に説明した。
「やべぇな。赤点さえ取らなきゃいいやと思ってたのに、いきなり吹っかけてくるから、思いっきり啖呵切っちまった。全く勉強してねえんだけど」
俺は頭を掻く。
「お前も大概だよな」と酒井は笑った。
「日本の学校のテストとか、ユーゴくん、あんまり慣れてないもんね。アタシ、教えてあげよっか?」
急に天啓が舞い降りたように感じた。
「マユは、テストが得意なのか?」
「得意ではないけど、半分よりは上くらい。赤点を回避する程度なら教えられると思う」
「いや、ユーゴ学年3位だから」
酒井が残念そうに言うと、マユは目を丸くした。
「うそ……驚愕すぎる。じゃあ、アタシらにできることなんて、何もないじゃん」
俺は少し考えた。
「そうとも言えねえんだが……お前らだって自分の勉強あるしな」
「え? 全然良いよ。手伝えることがあるなら、何でも言ってよ」とマユがここぞとばかりに前のめりになる。
酒井もうなずく。
「俺も、逆に興味あるわ。どうやったらその感じで学年3位が取れるのか」
「じゃあ、放課後、勉強会ね。どこでやる? 図書室?」
マユはぐいぐい話を進めていこうとする。
「いや、図書室って、喋ったらダメなんだろ? 声を出しても問題ねえとこがいいんだが……」と考えて、俺はふと思いついた。「俺んち、来るか?」
「手足がちぎれても行く!」
マユは喰いついた。
「いや、そんな険しい道のりじゃねえよ」