4-9.あなたが戦わなくてはいけない時は/篠崎 寧々
呉島くんの姿を見た時、私は、怒りと、悲しみと、焦りと、それから何かよく分からない色々な激情に突き動かされて駆け出した。
呉島くんは、鼻と唇の端から血を垂らして、右目の上まぶたを赤く腫らしている。出会った時の彼も怪我をしていたけど、その時よりずっと酷い。
制服の白いシャツは、血と、泥と、草の汁でマダラに汚れて、袖をまくった腕の擦り傷にも血が滲んでいる。
間に合わなかった。間に合わなかった!
私はまだ立っている詰襟の4人を睨んで足を速める。ぶっ殺してやる!
彼のマネージャーがどうだとか、学校の処分だとか、親が心配するだとか、そういうことがいっぺんにどこかへ吹き飛んで、私は一個の激しい害意の塊になった。
しかし、その私の目の前で、長髪の大柄な男の人が、あっという間に2人を叩き伏せた。阿久津さんだ。
もう1人に呉島くんが飛びかかる。
残る1人は少し離れた所にいて、どうやら一足先に打ちのめされ、戦意を失っているようだ。
手を伸ばせば呉島くんに届くところまで来た時、阿久津さんは呉島くんの手を取って、「お前の勝ちだ」と言った。
呉島くんはそのまま横にゴロリと倒れ込むと、馬乗りになっていた詰襟の男を、「どけコラ」と蹴った。
詰襟の人は、決まりが悪そうに、這いずりながらその場を譲った。敗北を認めて縄張りを譲る、傷ついた野生動物みたいだった。
「呉島くん!」私はそう声をあげてから、今日はそれしか喋っていないような気がしてきまりが悪かったが、そんなことには構っていられない。呉島くんに駆け寄る。
彼は仰向けになって、首だけを動かしてこちらに顔を向けた。
「篠崎……」
私は呉島くんの隣、地べたに膝を折って座った。
「ああ……ひどい! 顔が……目も腫れて……鼻も、ほっぺも……!」
思ったことが全部、とめどなく口から溢れる。
「お前……マジで、何しに来た?」
そう聞かれて、私は答えるべきか迷った。だって、全然間に合ってない。あまりに役立たずだ。でも、彼には胡魔化したり、嘘を吐いたりしたくなかった。
「一緒に、戦おうと思ったの。それで呉島くんを、守ろうと……」
と、言い終わるか終わらない内に、阿久津さんが大きな声で笑った。
私は真剣だったし、面白いことなんて何も言ったつもりはなかったから、少しムッとしたけど、阿久津さんはよほど可笑しいみたいで、腹を抱えて、仕舞いにはその場にうずくまってヒーヒー言い出した。
「勇吾! マジでイカレてるわ、お前の女!」
私は阿久津さんの言った「お前の女」という言葉を変に意識してしまって、顔が熱くなったが、そんな私をよそに、呉島くんまでつられたみたいに肩をふるわせて、「ふふっ……」と弱々しい声で笑うと、こちらも大分ひどく顔を腫らして横たわっていた酒井くんまで「はははっ……」と声を出して笑った。
阿久津さんは、転がっている黒い詰襟の学生服を着た人たちに向かって、高らかに言った。
「良かったな、俺らにヤラレといて。この女が相手だったら、お前ら全員息してねえぞ」
阿久津さんが、1人1人、足で蹴ったり頭を平手で叩いたりして起き上がらせ、「オラ、失せろ。ここはもう、俺らの領土だ」と告げると、詰襟の人たちは不承不承に立ち上がり、よろよろとした頼りない足取りで去って行った。
私はそれを横目に見ながら、呉島くんの手をそっと握った。
「大丈夫……?」
手の甲も傷が酷い。人差し指と中指の付け根の皮が裂けて、血をにじませている。
私と一瞬目が合うと、呉島くんは恥ずかしそうに逸らした目で、阿久津さんを睨んだ。
「阿久津……てめぇ、結局美味しいとこ全部持ってきやがって……これぁ酒井と俺のケンカだ。余計な横槍入れてんじゃねえよ」
「あ? だから言ったろ。ヤツらは俺の臣民に手ぇ出した。これは正当な報復だ。俺も当事者なんだよ」
「てめぇ……誰が臣民だ。かかって来いや……いつでもやってやんぞ」
呉島くんは口がうまく開かないみたいで、仰向けのまま、ぼそぼそと言った。
「ハハッ! 立って言えよ」
阿久津さんはそう笑うと、近くにいた酒井くんを引っ張り起こして肩に担いだ。
「ユーゴ、ごめん、俺、1人も倒せなかった……」
酒井くんは、阿久津さんの肩の上で、パンクした自転車のタイヤから空気が漏れるような声で言った。
呉島くんは、仰向けのまま手をかざして、それに応えた。
「俺たちは、戦った。一歩も退かなかった。そうだろ? 相棒」
阿久津さんは担いだ酒井くんを、荷物みたいにバイクに乗せる。
「ケンカっつーのは慣れが要るんだよ。勇吾は無駄にケンカ慣れしてっからな。だが、お前にはそんなもん必要ねえだろ。次、バスケで西高と当たった時は、倍の点差をつけろ。それがお前の戦いだ」
「阿久津さん……ありがとうございました」と酒井くんが言った。
阿久津さんは、ただうなずくと、自分もバイクにまたがり、お腹に響くようなエンジン音を轟かせた。
「俺ぁコイツを家まで送る。勇吾、お前も今日は休め。そのツラで学校行っても面倒くせえだけだぜ」
2人取り残された公園で、私は呉島くんの額に手を置いた。
下草が膝に触れてチクチクする。
「お前、何で来た?」
仰向けに寝転がったまま、顔だけをこちらに向けて、呉島くんは言った。
「えと……電車で」
「手段じゃねえよ。理由だ。危ねえだろ。怪我したらどうする」
これほどコテンパンに打ちのめされて、顔中をあべこべに腫らした人から、まさか怪我の心配をされるとは、と私は驚いた。それと同時に、ある種の怒りにも近い感情で、呉島くんに抗議した。
「私も同じ気持ちだよ。呉島くんに、怪我して欲しくなかった。呉島くんが傷つくくらいなら、自分が傷ついた方がずっとマシだった。だから来たんだよ」
呉島くんは、空を見上げて、「そうか……」と呟いた。
「もう、ケンカしないで」
私は、たったこれだけのことを言うのに、声が震えた。
彼にとって、『戦うこと』がどれくらい重い価値を持つものか、知っていたから。でも、彼のすべき戦いは、これではないはずだ。
「呉島くんの手は、人を殴るための手じゃない。私は、剣道で戦うから、呉島くんは、ピアノで戦って。それでも、どうしても、こういうふうに戦わなくちゃいけない時は、私に言って。その時は、私も一緒に行って、一緒に戦う。次は絶対あなたを守る。だから、簡単に、自分の身体を賭けないで」
「……ああ。悪かったよ」
呉島くんは、そっぽを向きながら、でも確かにそう言った。
私が彼を好きだと気づいたその時みたいに、呉島くんの中でも、世界のルールが切り替わるスイッチが押された、そんな音を聴いた気がした。
それから、私たちは、一緒に電車に乗って、学校の最寄り駅で別れた。
私も学校を休んで家まで送ると言ったが、呉島くんは、頑なにこれを拒んだ。どうやら、この騒ぎに私が巻き込まれることを嫌ったようだった。
当然、呉島くんは、その日、マネージャーさんにこってり怒られたそうだが、幸い怪我は打撲とすり傷程度だったそうだ。
そして、どういうわけか、「西高裏手の公園に、『互恵院の汎用人型決戦兵器』と呼ばれる『女』が現れて、そこにタムロしていた不良たちを一人残らず殲滅した」という、ほとんど怪談に近い噂を、私は数日後、人づてに聞いた。





