4-7.So fuckin’ what?(で?)/篠崎 寧々
私はベッドにうつ伏せになって、スマホの画面を眺めながら、ため息をついた。
呉島くんは、電話に出なかった。折り返しもない。
枕に顔をうずめると、彼のマネージャー、柴田さんの言葉が、一層重く心にのしかかった。
──「あなたはおそらく、私の話の半分も理解しておられないでしょう。それが、あなたの立ち位置です」──
それは、私の心の奥の方でずっと引っかかっていたことだった。
女優は俳優かミュージシャンと、プロ野球選手は女子アナと、お笑い芸人はグラビアアイドルと──、彼らはそういうふうに、所属する芸能事務所や球団の就業規則か何かで、交際相手が定められているのではないだろうか。
芸能人が時々結婚する『一般の方』というのも、決して「一般的な交際範囲と平均的な給与収入をお持ちの方」を意味するのではない。そのくらいのことは、世間知らずの私だって知っている。
これはきっと、何も、時代錯誤の身分差別とか、階級意識なんて意地悪なことじゃなくて、きっと、分布の問題だ。
同じ空間を共有する機会があって、例えばテレビに映るだとか、人前で演じるだとかいった、仕事上の共通点があるから、互いの立場や環境が理解できて、もっと言えば、そこで感じる相手の悩みや、気持ちにまでも手が届く。
では、私はどうだろう。私は、彼の何を理解できるだろう。
私には、私のことを必死で心配してくれる両親と、理解してくれるお姉ちゃんがいて、親に売られるなんて想像も出来ない。
私は私なりに一生懸命剣道をやってきたけれど、それを上手くやるために自分の身体を傷つけようとしたことなんてなかった。
私は自分の身体を竹刀や防具の一部だとは思わないし、気持ちが試合に影響することはあっても、試合のために恋や友情を経験しようなんて考えたこともない。
せいぜい地区大会上位レベルの選手が、論争の的になることなんてないし、アンチに罵声を浴びせられたこともない。
そもそも、私は音楽について全然知らない。その世界で、どういう派閥が、どういう争いをしているのか。
その渦中で、呉島くんは、どういうふうに傷つけられるのか……。
そういうことを、あのマネージャー、柴田さんは、全部知っているのだろう。
彼女の態度や口振りは、終始、静かな怒りに満ちていた。
その怒りは、呉島くんに近付こうとする私に向けられているようでもあり、呉島くんを正当に扱わなかった楽壇に向けられているようでもあり、そして、これは何となく、勘に近いけれど、呉島くんその人に向けられているようでもあった。
しかし彼女の気持ちがどういうものであれ、彼女が、呉島くんの周辺に入り組んだ複雑な事情に、私なんかよりはるかに深く入り込んでいることだけは確かだ。
親のいない呉島くんの生活を支え、お客さんと彼の間を取り持ち、不審な女子高生が近辺をウロついていないか目を光らせる。
そうやって、陰日向に、彼を支えてきたはずだ。私なんかが、立ち入る隙もないくらい、深いところまで……。
私は、枕に強く顔を押し付けて、強く唸った。
そして、顔を上げる。
「……で?」
関係あるか、そんなこと。
私は呉島くんが好きで、呉島くんに傷付いてほしくない。しかし、それと同時に、彼の闘志を尊敬し、自分が傷付いてでも友だちの仇を討とうという、そういうところも、きっと好きなんだ。
私にとって、大切なのはそういうことだ。
そして私には、柴田さんと話して、一つ分かったことがある。私は、彼女が嫌いだということだ。
彼女がしきりに言った、「ウチの呉島」という言葉には、「ウチの事務所に所属するピアニスト」というのではなく、「私の所有物」という響きがあった。
私はそれが、ずっと気に入らなかった。
彼女がどれだけ彼のことを知っていようが、どれだけピアノや音楽の世界に詳しかろうが、呉島くんは、彼女のものなんかじゃない。
彼が好きで、大事に思う気持ちは、音楽や楽壇の知識が多いとか少ないとか、そんなことで決まりはしないはずだ。
私は彼について、確かに知りたいと思っている。でも、それは、彼を独占して、他人を排除するためじゃない。
彼が嬉しいと思うことをしたい、彼を辛いことから守りたい、彼の傷を理解して、彼と苦しみを分かち合いたいからだ。
「じゃあ、私にできることは何だ?」
私が考えるべきことは、そういうことだ。
一つだけ、ある。
私は、身体を起こしてベッドに座ると、スマホを開いて、始発の時間を調べた。
今まで乗ったことがないから知らなかったけど、意外に早い時間から電車が出ている。
これなら、間に合うかもしれない。
明日、私は竹刀を置いて行く。私は阿久津さんに竹刀を向けてしまった。これは、剣道家として恥ずべきことだ。竹刀は人を傷つけたり、脅したりするための道具ではない。
呉島くんを守る。そのためならば、誰とだって戦う。でも、そのために使うべきなのは、私の身体だけだ。
私は音楽を知らない。でも、『戦う』ということについては知っている。
きっと、あのマネージャーよりも。
音楽の世界で巻き起こる論争の渦が彼に負わせた傷を理解できなかったとしても、彼の中で燃え盛る闘志について理解することはできる。
私は、一緒に戦う。そして彼を守る。
そのためなら私は喜んで、リスクを負う。
彼はこう言うかもしれない。
──「ここまで俺の『戦う意志』を理解してくれる女はお前だけだ。付き合おう。結婚を前提に」──
「……でゅふっ!」
急に、変なところから変な笑いが変なタイミングでこみ上げて、変な声が出た。
不意にスマホからメッセージの受信を知らせる通知が鳴った。マユからだ。
「呉島くんを、止められなかった
止めるべきなのか、分からなくなっちゃった……」
私はそのメッセージに、すぐ返信を打った。
「分かった。大丈夫。私が何とかする」
「ネネ、アンタまで、無茶しないで」
「大丈夫」
私がそう送ったところで、少し時間を置いて、また返信があった。
「呉島くんに、コクった」
布団の上にポスっと落ちたスマホが、そこでまた鳴った。
「まだ付き合うとかなってないから
てか、返事とか聴いてないし
今聞いてもフられるだけだから」
私はそのことを、どう捉えていいか分からなかった。
ただ、とんでもないワイルドカードをきってきたということだけは分かる。
「分かった」
それだけ返して、またベッドにうつ伏せになった。
お腹の底の方が重い。胸とか、鎖骨のあたりとか、こめかみとかに、モヤモヤしたものを感じてじりじりする。
いろんな感情が、お腹の中でぐるぐる渦巻いている。これは焦りと、嫉妬だ、と私は思った。それに、ちょっとだけ、怒り。だけど、目をつむると、その奥の方に、マユに対する尊敬の気持ちがあるのを、私は発見した。
マユは、私を呉島くんの自宅に引きつけて、自分は彼が西区にいる可能性に賭けた。
呉島くんが、マユの予想に反して自宅にいれば、2人きりになっていたのは私だ。
しかし、マユの読みはあたった。
彼女は彼がいる場所を割り出し、押しかけて、そして、告白した。
「あなたが好きだ」と言ったのだ。
マユは真っ直ぐだ。照れも、ごまかしも、迷いもない。
その場でフラれる可能性は十分にあった。でも、彼女は怯まなかった。
いや、違う。怖かったはずだ。マユだって。でも、立ちすくんで、震えそうになる足を、それでも前に踏み出した。リスクを負って。
私はどうする?
再び枕に顔を押しつけて、唸った。
「うーっ! 全員ブチのめすっ!」
マユは私のライバルで、私たちは戦士だ。