4-6.告白/呉島 勇吾
西区に24時間営業のピアノ・スタジオがあるというのは、俺にとってかなりの僥倖だった。
ピアノの調律が甘いのは気に入らなかったが、まあ、我慢できる範囲だ。
さあ、これからという時に、同級生の女が入って来るようなことさえなければ。
『戦争ソナタ』の中でも最高傑作の呼び声高い、プロコフィエフのピアノ・ソナタ7番を引き終え、大分アゲアゲになっていた俺が、いよいよ3部作の最後を飾る8番の冒頭に指を落とそうと気炎を吐いた、よりにもよって、その時だ。
プロコフィエフは、この3作のソナタを、1939年の同時期に書き始めている。つまり、これらの作品は一まとまりの成り立ちを持って書かれた3部作であり、6番7番を弾いて8番を弾かないなどということは、俺にとってみれば、贔屓の球団の試合を、同点で迎えた6回表までしか観ないとか、そういうことに近い。
これが平坂 マユでなかったら、かなり強めに罵倒して追い返していたかもしれない。
「ごめんね。練習中に……」
マユは、普段の態度からは想像できないくらい遠慮がちに言った。
白のジャージを着て、スポーツ用のショルダーバッグを担いでいる。
「いや、練習ってわけじゃねえ。それより、どうやって入った?」
椅子の背もたれに体重を預けてのけ反った。
「普通に、お金を払って」
「ピアノも弾けねえのにか」
「うん……」
マユはうつむく。
「ちょっとピアノに挑戦してみようって気になったワケでもねえだろう。俺に用があったとして、どうやってここが分かった?」
俺がそうたずねると、マユは俺の後ろに余っていたベンチタイプのピアノ椅子を指して、
「座っていい?」と聞いた。
俺は無言でその椅子を、隣へ運んだ。
マユはそこにチョコンと腰掛け、「えへへ……」と照れ臭そうに笑う。
「大丈夫なのか? 日本は、夜中に女が出歩ける唯一の先進国だって話は聞いたが、こんな夜中に出歩けば、普通は親に怒られるとも聞いたぞ」
壁掛けの時計は夜の11時半を回っていた。
「信用を得てるんですよ。家ではいい子なので。親には、ちょっと走ってくるって言って」
「そうか……」と返事をしてからハッとした。「いやだから、どうやってここが分かったんだって、聞いたよな俺」
「調べたら、この辺で夜中までピアノ弾けるとこなんて、ここしかないし」
当たり前のことのように答える。
「つまりお前には、俺がこの辺に来ることが分かっていた」
「私のせいだ」
マユは潤んだ目で、俺を見つめた。
「お前の? 何が?」
別にシラを切っているわけじゃなく、本当に分からなかった。
確かに、マユや酒井に黙って、俺は西高の連中をとっちめに行こうとは思っていたが、きっかけになった酒井ならまだしも、マユは全く関係がない。
「私が、『西高』なんて言わなければ、呉島くんがここに来ることもなかった」
それは『せい』というよりは『おかげ』だな、と思いつつ、俺はここで初めてシラを切った。
「西高? いや、よく覚えてねえが、俺は、夜中にピアノが弾けるところがあるって聞いたから、どんなもんかと思って来ただけだ。俺んちは、隣に飲み屋があるんだが、家で弾いてるとそこのババァが乗り込んできて、俺のピアノよりデケェ声で喚くんだ」
もちろん、そんなババァが存在しないから今のピアノ・バーに住んでいるわけだが、その話の真偽を争っても水掛け論だ。
納得するかどうかは別として、それ以上のことを話すつもりがないということさえ伝わればいい。
「分かった。ユーゴくんは、ただピアノを弾くためにここに来た。じゃあ、私は、お願いするね。明日、西高には行かないで。その裏手の公園にも。約束して」
急に決然とした調子でそう言うので、俺は少し驚いた。
「約束してもいい。守るとは限らねえが」
俺はそう言って、マユから目を逸らす。
その約束をした場合、俺は必ずそれを破ることになる。
マユは俺の両頬を手のひらで挟み、強引に自分の方を向かせて俺の目を覗き込んだ。
「約束破ったら、許さないから」
「仮に、俺が西高の連中を叩きに行くと決めたなら、それはお前に許されねえと覚悟してのことだ。それだけの重さがあるから、俺はそうするんだ」
マユは、ショルダーバッグをごそごそやると、そこから携帯を取り出して俺に見せた。
「ユーゴくんが言うこと聞いてくれないなら、私はここで警察に通報する」
「そうすりゃお前だって、『どうしてこんな夜中に出歩いてんだ』って話になるんじゃねえのか? 親にも嘘がバレる」
俺は少し戸惑いながら言った。何なんだコイツは。
「私は、ユーゴくんに怪我して欲しくない。そのためなら、別に、親や先生や、警察の人に怒られたっていいよ。私の想いにだって、それくらいの重さがあるんだ」
俺は、少し考えてから、口を開いた。
「お前も、ごまかしの通じねえタイプの人間か。適当に流しときゃよさそうなもんを、何だってそう、俺みてえなのにこだわるかね」
「何か、弾いて」とマユは言った。「それに答えるには、少しだけ、勇気が必要だから」
俺はピアノの弦を見つめて、うーん、と唸った。
「難しいな。お前は、どういう気持ちだ? 最近な、俺はよく、そういうことを考えるんだ。どういうリズムやメロディが、お前の気持ちに響くのか……」
肩に柔らかい重みがあって、見るとマユは俺の右肩に頭を乗せていた。
爽やかなシトラスの匂いが鼻腔に届くころ、シャツ越しにマユの体温が伝わって、妙な気分になった。
「ハイなやつ。それで、ネネには聴かせたことのない曲」
俺は左手でマユの頭に触れると、そっと押して、彼女を遠ざけた。
マユは少し椅子を引いた。
両手を頭上に組んで伸びをしてから、マユに顔を向けた。緊張しているように見えた。
鍵盤に指を落とす。
バルトーク・ベーラ『舞踏組曲』BB 86bより第3曲「Allegro Vivace」
バルトーク初期における最後の大作、オーケストラ作品『舞踏組曲』を、本人がピアノ版に編曲したもので、ルーマニア、ハンガリー、アラブの民族的リズムと旋律を駆使し、民族音楽の収集と保存を生涯のライフワークとしたバルトークの真髄が込められた力作だ。
俺はこの第3曲冒頭の旋律を、触れれば切れるほど鋭く、硬質にリズムを利かせて弾く。
狭いスタジオの中で、吐息が触れるような距離にいたマユが息を飲む。
最初は小さく、軽快な旋律の上下を、鋭い伴奏が跳ね回る。同じ音形が、急激に厚みと広がりを持って、早くも1度目の絶頂に達すると、度重なる変拍子と小節を跨ぐリズムで聴く者の拍子感覚を裏切りながら、さらにその上の絶頂へと向かう。
すると次の瞬間には急に場面が変わり、さらに素早く、しかし滑らかでエキゾチックなメロディが軽やかに流れる。
そのメロディがやがて少しずつ遠く、小さく、速度を減じると、右手のトリルの終わりに左手の下降グリッサンドを入れたところで、マユが「わぁ……!」と歓声を上げた。
ジェットコースターのように景色が移り変わっては、色を変えながら同じ音形に戻ってくるロンドの締めくくりに、曲中最速のヴィヴァーチッシモから挑発するように急激な減速を経て、華々しく、そして強く終始すると、その残響も鳴り止まぬうちに、マユは立ち上がって、一人けたたましく手を叩いた。
「気に入ったか?」
椅子の背もたれにのけ反って振り向き、俺が聞くと、マユは強くうなずいた。
「うん! 好き!」
「そうか。良かった」
「そうじゃなくて、ユーゴくんが好き!」
それをどう捉えればいいのか、「あー……」と曖昧な声を出して、天井に目をやり態度を保留していると、マユはその視線を遮るように上から俺を見下ろした。
「引き延ばしに入ったラブコメみたいに、誤解でダラダラ長引くのは嫌だ。だから、ハッキリ言うね。『友だちとして』とか、『ピアニストとして』とか、そういうことじゃなくて、『男として』私はユーゴくんが好き。初めて会った時から」
俺は、こんな時に、何て返事をしたらいいのか知らなかった。
経緯や理由はさっぱり分からない。だが意味だけは、これ以上なく明確に理解できた。
「俺は、お前の気持ちにどう応えていいのか分からねえ。そういうことを、よく考えたことがねえからだ。だが、まあ、納得はできたよ。それがどういう種類の『好き』かはさておき、好きなヤツには傷ついて欲しくねえよな。それは俺も一緒だよ」
マユはうなずいた。
「だから、分かって。私は、ユーゴくんに傷ついて欲しくないんだ」
俺は椅子から立ち上がると、スタジオの防音ドアを開けた。
「ああ。理解はした。だが、酒井が傷つけられたことは、俺の中では何も決着してねえ。
ここで戦わねえような男をお前が好きだって言うなら、お前は、俺じゃなく、俺の形をした別の誰かが好きだったんだ」
「ズルいよ……」
マユはそう言って手を伸ばし、俺の頬に触れた。
「分かった。ユーゴくんにとって、それが大事なことなら、私はもう止めない。でも、私がユーゴくんを好きで、傷ついて欲しくないと思ってることだけは覚えてて」
マユが帰る時、コンビニにでも寄るついでに送ると言ったが、彼女はそれを断った。
防音扉が閉まると、俺は一度振り上げた手を、思い直して膝の上に落とした。
『戦争ソナタ』という気分でも無くなってしまった。
俺のこれは、どういう気持ちだろう?
手を広げて、その表裏に刻まれた傷痕を、見るともなく眺めた。
酒井は、今朝どういう気持ちで、俺と話していたのだろう。
俺のことを好きだと言ったマユは、今どういう気持ちで家路につくのだろう。
篠崎は、今どういう気持ちで、何をしているのだろう。