表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪童ピアニストと内気な剣道女子のための叙情的組曲【書籍2巻発売中】  作者: 福太郎
第4曲「荒々しく、そして迷いなく、まっすぐに」
32/144

4-5.「それが、あなたの立ち位置です」と、女は言った/篠崎 寧々

 やられた……と私は思った。


「友だちと勉強して帰ります」とお母さんに嘘の連絡をして、北区の小さな繁華街のある駅で降りると、廃業したピアノ・バー、『メフィスト』というのは、思ったより簡単に見つかった。阿久津さんの言う通り、ネットの地図にまだ残っていて、駅から5分も歩かない位置に、ほとんど写真と同じ店構えがあった。


 ネットの写真と違うのは、かつて、その入り口に掲げられていた看板は外され、機嫌を損ねたように固くシャッターが閉ざされていることだ。


 きらびやかな飲食店の並ぶ表通りから、一本裏手に入ったところで、表通りの大きなお店にいじめられたみたいに、多くのお店が無念そうにシャッターを下ろしていた。


 中には、少しイカガワシげなお店もあって、私は居心地悪くきょろきょろしなければならなかった。


 とても人の住むようなところではない。


 けれど、阿久津さんが、私に嘘を教えたとも思えなかった。


 潰れたピアノ・バーに住みついているというのは、何となく、彼らしくもある。


 その浮世離れした感じに、妙なリアリティがあったし、一日中ピアノを弾いても文句を言われないということを考えれば、案外、現実的な選択に思えたのだ。


 それに、阿久津さんという人は、噂ほど悪い人ではないようにも思えた。多分、私や、普通の人とは、生き方のルールが違うだけなのだ。


 では、今私の目の前で、誰とも話したくないみたいに閉じているシャッターについて、私はどう解釈すべきだろう。


 試しにシャッターを持ち上げてみたが、鍵がかかって開かなかった。インターホンもない。


 つまり、呉島くんは、留守だ。


 しばらくしたら、帰ってくるだろうか。私は、そうではないと思った。


 酒井くんに怪我をさせた西高の人たちは、朝、公園をたまり場にしていた。夕方に彼らを探そうとするのは効率的じゃない。呉島くんは、多分彼らの顔を知らないから。


 彼らと戦うなら、朝。だから、今日の夜は家にいるはずだ。と、そう思って私はここへ来たわけだけれど、今となっては、まず、これがあやしい。


 呉島くんはほとんど毎日、マネージャーさんに送り迎えしてもらっているわけで、「今日は互恵院じゃなく、西高裏手の公園に行くわ」ということになった時、理由を説明できない。


 そうなると私のような庶民なら、南北線で中央区に出てから、東西線に乗り換え、1時間くらいかけて、現地へ向かわなくてはならないわけだけど、朝練が始まるような時間に間に合うかどうか、微妙なところだ。


 そして厄介なことに、呉島くんには財力がある。だから私はてっきり、自宅から早朝にタクシーなんかで現地に向かうのでは、と考えたが、今、呉島くんが留守にしているということを考えると、別の可能性が浮かび上がる。


 現地近くに泊まってしまうことだ。


 阿久津さんは、もしかして、そのことが分かっていたのではないだろうか。呉島くんが、西高の人たちと喧嘩することについて、阿久津さんははっきりそう明言したわけではないけど、多分肯定的だったと思う。


 だから、私たちの邪魔が入らないように、呉島くんの自宅をエサにして、無駄足を踏ませたのではないか。


 そう考えると、マユもだ。彼女は、「考えがある」と言った。だから「手分けしよう」と。そして、わざわざ、呉島くんを譲るつもりはないことを、確認さえした。


 マユは読んでいたのだ。呉島くんは、自宅に帰らない。多分、マユの家にも近い西高周辺、西区にいる。それを見抜いて、がっつり抜け駆けするつもりだ。


「やりやがった、あの女っ!」

 私は思わず声をあげる。通り過ぎていく人たちが、驚いた顔でこちらを見た。


 私はハッとして、その場を立ち去ろうとしたが、その時、路地の向こうの交差点を、こちらに向かって左折してきた一台の車が目に入って、足を止めた。


 白のレクサスだ。


 運転席にいるのは、案の定、呉島くんのマネージャーだった。お父さんが、名刺を持っていた。名前は、柴田 真樹。


 柴田さんの車が減速し、サイドミラーが当たるくらい私に接近して、停まる。運転席の窓が開いた。


「何か、御用ですか?」

 マネージャーの柴田さんは、怪訝そうにそう言った。


 そりゃそうだ。彼女からすれば、私は今、不審者以外の何者でもない。


「えっとー、そのー……」と完全に口ごもってしまう。


「互恵院の剣道部、篠崎さんですね」

 彼女は私を威嚇するように、鋭くそう言った。敬語の中にも敵意がこもっている。


「え……なぜ……」

 お父さんに名刺を渡したとは聞いたが、なぜ私のことまで知っているのか。焦りと驚きと恐れがいっぺんに来て、血の気が引く。


「失礼ですが、背格好で。ウチの呉島が、あなたに竹刀を渡した。その時、私も同伴しておりました。ちなみに、その日のあなたの試合、私も呉島と一緒に観戦させて頂いております」


 そうだ、私は、自分を大多数の生徒の1人と思っていたけれど、思い返せば、あの時は結構目立っていた。しかも、女にしては、やや背が高い。決して極端とまでいえる程度ではないけれども。平均と比べれば、ほんの少し(23.5センチ)だけ……。


「ああ、えと……その節は……?」私はその言葉の使い方に自信が持てなかったが、とにかく頭を下げた。


「しかし、困りますね。この場所は、呉島本人から?」

 柴田さんは私を睨む。言葉使いこそ慇懃(いんぎん)だが、瞳の奥にある獰猛な光が、呉島くんと似ていた。音楽の世界を生き抜くには、こういう攻撃性が必要なのだろうか。


「あ……いえ……」

 私が言葉に窮すると、柴田さんは車を降りた。


「乗って下さい。ご自宅までお送りします」


「いえ……そこまで、お世話になるわけには……」と断ろうとしたが、相手は聞き入れなかった。


 後部座席のドアを開ける。


「こちらも、どういう経緯でこの場所を特定されたのか、うかがわなければなりませんので」

 有無を言わさぬ態度でそう言われると、この世の終わりみたいな気持ちになった。


 私はこのまま、家族にお別れの挨拶をさせられて、ストーカーとして牢屋にブチ込まれてしまうのだろうか……。


  ✳︎


 白のレクサスは、裏通りを抜けると、国道に出た。


「住所を教えてください。あまり土地勘がありませんので」


 言われるがまま私が告げた住所を、カーナビに入力して、柴田さんはハンドルを指先でトントンと叩いた。とても不思議な、指の動かし方だった。


 国道はまだ帰宅ラッシュで混んでいた。


 街灯の、オレンジ色の光が、私を検分するように、何度もゆっくりと車内を這って通り過ぎていった。


「あの……柴田さんも、ピアノを弾かれるのですか?」

 私は沈黙に耐えきれなくなって、尋ねた。


「なぜ?」

 バックミラー越しの彼女の目が、一瞬、私を射抜くように見た。


「いえ……間違いだったら、すみません……その、指の動かし方が、呉島くんと、似てた気がして……」


「そうですか」と言うと、柴田さんは、私の問いには答えず、ハンドルを握り直した。


「あの、呉島くんのお家は、秘密だったんでしょうか。私は、結構、仲良くしてもらってて……友だちの家に、ちょっと寄るくらいの感覚で……」


 私がそうやって慎重に選んだ言葉を、注意深く並べている途中、本当に、聴こえるか聴こえないかというくらい小さく、チッ……と音が聞こえた。それは、本当に鳴ったのかということさえ疑われるような、微かな音だったが、私にははっきりと、それが彼女の舌打ちだと分かった。


「1970年代……」彼女の口から出た言葉に、私は眉を寄せた。何の話が始まるのだ?

 しかし、彼女は私に頓着する様子もなく続ける。

「ポリーニ、アルゲリッチ、ベルマンといった天才ピアニストが相次いで現れ、『プロのピアニスト』に要求される技術的な水準を、一段階引き上げてしまいました。

 それまでのピアニストが努力で積み上げてきた技巧の頂きを、軽く飛び越えてしまった」


「呉島くんも、そういうことを、起こすと?」


「ウチの呉島は、10歳の頃には名高いプロのピアニストが『演奏不可能』とした難曲を簡単に弾きこなし、『俺の指がもう少し長ければ5歳の時には弾けた』と言いました。それは誇張ではないと私は考えています。

 現存するどんなに高名なピアニストも、『いい演奏をするが、呉島 勇吾よりは下手』、そう思っている方たちが、今の我々のお客様です。

 あなたが友だちだと言っているのは、我々の世界では、不世出の、そして掛け値なしの天才なのです」


「つまり、住む世界が違うと?」


 私は反感を込めて、声を低めた。


「いいえ。ご覧の通り、あなたと呉島は同じ世界に住んでいる。それが問題なのです。

 違う世界に住んでいたなら、自宅周辺を無断でウロつかれることもなかった」

 こう言われてしまうと、返す言葉もない。

 

「それは、その……すみません」


 柴田さんが、ハンドルを握る手に力を込めたのが、そこに巻かれた革の軋む音で分かった。


「1970年代に起きた技術革新は、複数のピアニストによってもたらされました。だから、それは、ピアニスト全体の問題になった。

 ピアニストたちがプロになるためには、そのレベルに達することを強いられ、そうでない者は淘汰されていった。

 しかし、呉島は一人です。彼はその世界で、さらにメカニカルな安定度を競い合っているピアニストたちの、はるか頭上を、たった一人で飛び越えてしまった。

 すると、1970年代の技術革新とは、全く違うことが起こりました。

 決して小さくない、ある派閥の音楽家、教育者、音大生といったドメスティックな専門家たちは、『ああいう演奏は良くない』ということにした(・・・・・・・・)のです。

 音楽という曖昧な価値に、一定の評価ができるという権威を、彼らはそのように行使して、呉島の突出した才能から、自分たちの利権を守ろうとした。

 しかし、呉島の演奏は、そんな連中の手に負えるようなものでありません。

 音楽界では激しい論争が繰り広げられ、呉島 勇吾はその渦中にいます」


 私は、雑誌の記事を思い出した。呉島くんは、10歳の時、公のステージから姿を消した。

「強烈なアンチ……」


「クラシックの楽壇で起きていることなど、普通の女子高生はご存知ないでしょう。

 テレビに出るようなアイドルでもない呉島が、なぜこんなに脇を固められているのか、あなたの目には、我々が自意識過剰に見えるかもしれませんね。

 しかし、そういう反感をこじらせて極端な行動に出る人物というのは、いつ、どこで現れるか分からない。分かっているのは、必ず現れるということだけです」


 車がいつの間にか、私の家のすぐそばにまで来ていたことを、カーナビの無機質な音声が告げた。


「ここです」と家を指して、礼を言いながら、停車した車のドアを降りる。


「本日はこれで失礼します」と柴田さんは言った。


「あの、私の親には……」


「今日のところは。しかし次はありません。あなたはおそらく、私の話の半分も理解しておられないでしょう。それが、あなたの立ち位置です。それだけ申し上げたくて、お送りしました」

 柴田さんは冷然とそう言って、車を出した。


 夜風がいやに冷たかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  ▼▼▼ 書籍版はこちら ▼▼▼  
表紙絵
  ▲▲▲ 書籍版はこちら ▲▲▲  
― 新着の感想 ―
[良い点] 勇吾とマユのことも気になるけれど、真樹の話を怖いと感じてしまいました。 天才だから当然やっかみもあるだろうけれど、「極端な行動に出る人も」……言われてみれば確かにそうですね(;´・ω・)怖…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ