4-5.「それが、あなたの立ち位置です」と、女は言った/篠崎 寧々
やられた……と私は思った。
「友だちと勉強して帰ります」とお母さんに嘘の連絡をして、北区の小さな繁華街のある駅で降りると、廃業したピアノ・バー、『メフィスト』というのは、思ったより簡単に見つかった。阿久津さんの言う通り、ネットの地図にまだ残っていて、駅から5分も歩かない位置に、ほとんど写真と同じ店構えがあった。
ネットの写真と違うのは、かつて、その入り口に掲げられていた看板は外され、機嫌を損ねたように固くシャッターが閉ざされていることだ。
きらびやかな飲食店の並ぶ表通りから、一本裏手に入ったところで、表通りの大きなお店にいじめられたみたいに、多くのお店が無念そうにシャッターを下ろしていた。
中には、少しイカガワシげなお店もあって、私は居心地悪くきょろきょろしなければならなかった。
とても人の住むようなところではない。
けれど、阿久津さんが、私に嘘を教えたとも思えなかった。
潰れたピアノ・バーに住みついているというのは、何となく、彼らしくもある。
その浮世離れした感じに、妙なリアリティがあったし、一日中ピアノを弾いても文句を言われないということを考えれば、案外、現実的な選択に思えたのだ。
それに、阿久津さんという人は、噂ほど悪い人ではないようにも思えた。多分、私や、普通の人とは、生き方のルールが違うだけなのだ。
では、今私の目の前で、誰とも話したくないみたいに閉じているシャッターについて、私はどう解釈すべきだろう。
試しにシャッターを持ち上げてみたが、鍵がかかって開かなかった。インターホンもない。
つまり、呉島くんは、留守だ。
しばらくしたら、帰ってくるだろうか。私は、そうではないと思った。
酒井くんに怪我をさせた西高の人たちは、朝、公園をたまり場にしていた。夕方に彼らを探そうとするのは効率的じゃない。呉島くんは、多分彼らの顔を知らないから。
彼らと戦うなら、朝。だから、今日の夜は家にいるはずだ。と、そう思って私はここへ来たわけだけれど、今となっては、まず、これがあやしい。
呉島くんはほとんど毎日、マネージャーさんに送り迎えしてもらっているわけで、「今日は互恵院じゃなく、西高裏手の公園に行くわ」ということになった時、理由を説明できない。
そうなると私のような庶民なら、南北線で中央区に出てから、東西線に乗り換え、1時間くらいかけて、現地へ向かわなくてはならないわけだけど、朝練が始まるような時間に間に合うかどうか、微妙なところだ。
そして厄介なことに、呉島くんには財力がある。だから私はてっきり、自宅から早朝にタクシーなんかで現地に向かうのでは、と考えたが、今、呉島くんが留守にしているということを考えると、別の可能性が浮かび上がる。
現地近くに泊まってしまうことだ。
阿久津さんは、もしかして、そのことが分かっていたのではないだろうか。呉島くんが、西高の人たちと喧嘩することについて、阿久津さんははっきりそう明言したわけではないけど、多分肯定的だったと思う。
だから、私たちの邪魔が入らないように、呉島くんの自宅をエサにして、無駄足を踏ませたのではないか。
そう考えると、マユもだ。彼女は、「考えがある」と言った。だから「手分けしよう」と。そして、わざわざ、呉島くんを譲るつもりはないことを、確認さえした。
マユは読んでいたのだ。呉島くんは、自宅に帰らない。多分、マユの家にも近い西高周辺、西区にいる。それを見抜いて、がっつり抜け駆けするつもりだ。
「やりやがった、あの女っ!」
私は思わず声をあげる。通り過ぎていく人たちが、驚いた顔でこちらを見た。
私はハッとして、その場を立ち去ろうとしたが、その時、路地の向こうの交差点を、こちらに向かって左折してきた一台の車が目に入って、足を止めた。
白のレクサスだ。
運転席にいるのは、案の定、呉島くんのマネージャーだった。お父さんが、名刺を持っていた。名前は、柴田 真樹。
柴田さんの車が減速し、サイドミラーが当たるくらい私に接近して、停まる。運転席の窓が開いた。
「何か、御用ですか?」
マネージャーの柴田さんは、怪訝そうにそう言った。
そりゃそうだ。彼女からすれば、私は今、不審者以外の何者でもない。
「えっとー、そのー……」と完全に口ごもってしまう。
「互恵院の剣道部、篠崎さんですね」
彼女は私を威嚇するように、鋭くそう言った。敬語の中にも敵意がこもっている。
「え……なぜ……」
お父さんに名刺を渡したとは聞いたが、なぜ私のことまで知っているのか。焦りと驚きと恐れがいっぺんに来て、血の気が引く。
「失礼ですが、背格好で。ウチの呉島が、あなたに竹刀を渡した。その時、私も同伴しておりました。ちなみに、その日のあなたの試合、私も呉島と一緒に観戦させて頂いております」
そうだ、私は、自分を大多数の生徒の1人と思っていたけれど、思い返せば、あの時は結構目立っていた。しかも、女にしては、やや背が高い。決して極端とまでいえる程度ではないけれども。平均と比べれば、ほんの少し(23.5センチ)だけ……。
「ああ、えと……その節は……?」私はその言葉の使い方に自信が持てなかったが、とにかく頭を下げた。
「しかし、困りますね。この場所は、呉島本人から?」
柴田さんは私を睨む。言葉使いこそ慇懃だが、瞳の奥にある獰猛な光が、呉島くんと似ていた。音楽の世界を生き抜くには、こういう攻撃性が必要なのだろうか。
「あ……いえ……」
私が言葉に窮すると、柴田さんは車を降りた。
「乗って下さい。ご自宅までお送りします」
「いえ……そこまで、お世話になるわけには……」と断ろうとしたが、相手は聞き入れなかった。
後部座席のドアを開ける。
「こちらも、どういう経緯でこの場所を特定されたのか、うかがわなければなりませんので」
有無を言わさぬ態度でそう言われると、この世の終わりみたいな気持ちになった。
私はこのまま、家族にお別れの挨拶をさせられて、ストーカーとして牢屋にブチ込まれてしまうのだろうか……。
✳︎
白のレクサスは、裏通りを抜けると、国道に出た。
「住所を教えてください。あまり土地勘がありませんので」
言われるがまま私が告げた住所を、カーナビに入力して、柴田さんはハンドルを指先でトントンと叩いた。とても不思議な、指の動かし方だった。
国道はまだ帰宅ラッシュで混んでいた。
街灯の、オレンジ色の光が、私を検分するように、何度もゆっくりと車内を這って通り過ぎていった。
「あの……柴田さんも、ピアノを弾かれるのですか?」
私は沈黙に耐えきれなくなって、尋ねた。
「なぜ?」
バックミラー越しの彼女の目が、一瞬、私を射抜くように見た。
「いえ……間違いだったら、すみません……その、指の動かし方が、呉島くんと、似てた気がして……」
「そうですか」と言うと、柴田さんは、私の問いには答えず、ハンドルを握り直した。
「あの、呉島くんのお家は、秘密だったんでしょうか。私は、結構、仲良くしてもらってて……友だちの家に、ちょっと寄るくらいの感覚で……」
私がそうやって慎重に選んだ言葉を、注意深く並べている途中、本当に、聴こえるか聴こえないかというくらい小さく、チッ……と音が聞こえた。それは、本当に鳴ったのかということさえ疑われるような、微かな音だったが、私にははっきりと、それが彼女の舌打ちだと分かった。
「1970年代……」彼女の口から出た言葉に、私は眉を寄せた。何の話が始まるのだ?
しかし、彼女は私に頓着する様子もなく続ける。
「ポリーニ、アルゲリッチ、ベルマンといった天才ピアニストが相次いで現れ、『プロのピアニスト』に要求される技術的な水準を、一段階引き上げてしまいました。
それまでのピアニストが努力で積み上げてきた技巧の頂きを、軽く飛び越えてしまった」
「呉島くんも、そういうことを、起こすと?」
「ウチの呉島は、10歳の頃には名高いプロのピアニストが『演奏不可能』とした難曲を簡単に弾きこなし、『俺の指がもう少し長ければ5歳の時には弾けた』と言いました。それは誇張ではないと私は考えています。
現存するどんなに高名なピアニストも、『いい演奏をするが、呉島 勇吾よりは下手』、そう思っている方たちが、今の我々のお客様です。
あなたが友だちだと言っているのは、我々の世界では、不世出の、そして掛け値なしの天才なのです」
「つまり、住む世界が違うと?」
私は反感を込めて、声を低めた。
「いいえ。ご覧の通り、あなたと呉島は同じ世界に住んでいる。それが問題なのです。
違う世界に住んでいたなら、自宅周辺を無断でウロつかれることもなかった」
こう言われてしまうと、返す言葉もない。
「それは、その……すみません」
柴田さんが、ハンドルを握る手に力を込めたのが、そこに巻かれた革の軋む音で分かった。
「1970年代に起きた技術革新は、複数のピアニストによってもたらされました。だから、それは、ピアニスト全体の問題になった。
ピアニストたちがプロになるためには、そのレベルに達することを強いられ、そうでない者は淘汰されていった。
しかし、呉島は一人です。彼はその世界で、さらにメカニカルな安定度を競い合っているピアニストたちの、はるか頭上を、たった一人で飛び越えてしまった。
すると、1970年代の技術革新とは、全く違うことが起こりました。
決して小さくない、ある派閥の音楽家、教育者、音大生といったドメスティックな専門家たちは、『ああいう演奏は良くない』ということにしたのです。
音楽という曖昧な価値に、一定の評価ができるという権威を、彼らはそのように行使して、呉島の突出した才能から、自分たちの利権を守ろうとした。
しかし、呉島の演奏は、そんな連中の手に負えるようなものでありません。
音楽界では激しい論争が繰り広げられ、呉島 勇吾はその渦中にいます」
私は、雑誌の記事を思い出した。呉島くんは、10歳の時、公のステージから姿を消した。
「強烈なアンチ……」
「クラシックの楽壇で起きていることなど、普通の女子高生はご存知ないでしょう。
テレビに出るようなアイドルでもない呉島が、なぜこんなに脇を固められているのか、あなたの目には、我々が自意識過剰に見えるかもしれませんね。
しかし、そういう反感をこじらせて極端な行動に出る人物というのは、いつ、どこで現れるか分からない。分かっているのは、必ず現れるということだけです」
車がいつの間にか、私の家のすぐそばにまで来ていたことを、カーナビの無機質な音声が告げた。
「ここです」と家を指して、礼を言いながら、停車した車のドアを降りる。
「本日はこれで失礼します」と柴田さんは言った。
「あの、私の親には……」
「今日のところは。しかし次はありません。あなたはおそらく、私の話の半分も理解しておられないでしょう。それが、あなたの立ち位置です。それだけ申し上げたくて、お送りしました」
柴田さんは冷然とそう言って、車を出した。
夜風がいやに冷たかった。