4-3.屋上/篠崎 寧々
「ちょっと、ヤバいかも……」
テスト期間で部活がないので、帰り支度を整えていると、マユが教室に入ってきて、そう切り出した。
こういう入りは、大体、肩すかしがオチだと特に気負いもなく先を聞いたが、これが予想に反して剣呑な話で、私は思わず口を覆う。
マユは酒井くんと同じ西中の出身で、それなりに仲が良かった。帰りの電車も同じ路線で、会えば世間話をしながら一緒に帰ったりもしたそうだが、その中で話題になったのが、どうやら最近、西高の生徒が、通学路沿いの公園に朝からタムロしているらしいということだった。
しかもその中には、以前、1年レギュラーの酒井くんを含むバスケ部が、試合で大勝した、西高バスケ部の部員も含まれているという。
そこにきて、今朝、酒井くんが顔にアザを作ってきた。マユは思わず「西高」という言葉を口走った。
そこにいたのが呉島くんだ。
彼は、酒井くんやマユに、二、三、ものを尋ねたが、これが知れるとコトが大きくなりそうだと考えた2人はお茶を濁した。
酒井くんやマユがそれに答えるつもりがないと見ると、呉島くんは自分の買ってきたお土産の話なんかをして、それっきりそのことについては触れなかった。
呉島くんは、お昼休み、屋上に向かった。
そこにいるのは、最近仲のいい阿久津さんという3年生で、会ったことのない私は、てっきり、下級生に親切な優しい人だと思っていたが、マユによると、この互恵院学園高校唯一の不良で、この学校に他の不良がいないのは、みんなこの人がやっつけてしまったからなのだという。
そういう好戦的な人のところに、好戦的な呉島くんが、このタイミングで会うということは、当然、何らかの意図が疑われる。
つまり、酒井くんの仇を討とうとしているのでは?
例えば、不良特有のネットワークで、情報を集めようとか、戦力を補充しようとか……。
「どうしよう……私のせいだ。私が余計なこと言ったから……」
マユが、今にも泣き出しそうな声でそう漏らす。彼女が私に弱気な態度を見せるのは初めてだ。
「マユのせいじゃないよ。そこからワンステップで報復に行くなんて、普通は誰も思わない。大丈夫。私がなんとかする」
あとで連絡する、とマユに言い残して、私は教室を飛び出した。
✳︎
「ごめんなさい」「失礼します」と上階を行き交う上級生の間を、謝りながらすり抜けて、階段を駆け上がる。
屋上へ続く階段を上り、重い鉄のドアを押し開けると、私と同じくらい背の高い男の人が、折からの風に、肩まで伸ばした長い髪をそよがせて、柵の間から外を見下ろしていた。
タバコの臭いが、鼻についた。
「あの……阿久津さん、ですか?」と私は聞く。
「そうだけど」と返事をした阿久津さんは、はじめの一瞬こそ、急な来訪者に驚いたみたいに目を丸くしたが、すぐに平静を取り戻して、私を値踏みするように見た。
「あの、呉島くんは……」
「いや、知らねえな」
タバコを一口吸って、缶コーヒーの空き缶に入れる。
「お昼休み、呉島くんと会いましたよね」
阿久津さんは、それに答えず、代わりにポンと手を打った。
「ああ、なるほど。剣道部の。音楽室で勇吾の背中におっぱいを押し付けた」
「おっぱ……! いや、そんなことは……なくもないけど……それが目的では……」
急な話題の転換に、慌てて言い訳を探す。
呉島くんは、あの日の出来事を、そんなふうに伝えたのだろうか。
「ああ。目的じゃなくて手段だ」
「いえ! そういうことではなくてっ……」
「じゃあ何だ? 言ってみろよ」と阿久津さんは真っ直ぐに言う。不思議と、からかっているような感じでもない。ただ、真実を知って納得したいみたいな言い方だった。
「ええ……その、色々と、感情の機微が……」
「へぇ。そういう感じなのか。意外だな」
私には何も説明できていない自覚があったのに、何について、どういう感じと受け取ったのか知らないが、阿久津さんは不思議と納得したみたいだった。
「いや、そうではなくてですね……」
話題を戻そうと私が続く言葉を選ぶ間に、阿久津さんは、また新しいタバコに火をつけた。
「まあ、分かるよ。アイツが喧嘩しに行くんじゃねえかって、心配したんだろ?」
「何か、知っていることがあったら、教えてもらえませんか」
「いやいや、それで、どうする気だ? アイツが、お前らに言わずにそうするつもりだってんなら、それはつまり、そういうことなんだろう。アイツが言うつもりのねえことを、俺が言う道理はねえな」
タバコの煙を吐き出しながら、阿久津さんはそう言う。
「私たちを、巻き込まないために……?」
「さあ。どうだろうな。単に横槍入るのが気に入らねえだけかもよ。アイツはちょっとイカレてっからなぁ。勝つとか負けるとか、痛い目見るとか、そういうことは一切考えねえ。ブチのめすと決めたらそれだけだ」
私はその言い草に反感を覚えて、語気を強める。
「あなたは、どうなんですか? 友だちでしょ? 呉島くんが怪我しても平気なの?」
「お前は『棒切れで頭を叩かれるのが気の毒だから、剣道なんかやめなさい』って言われて喜ぶのか?」
「剣道は、ちゃんとルールのある競技だから!」
「じゃあ、お前はルールがあるってことに惹かれて、剣道をやってるワケか? 違えだろ。『戦って勝ちてえ』からだ。そして、どう戦いてえかというお前のビジョンに、剣道という競技が一番近かった。そこにルールがあったのは偶然だ」
「勝手に決めないで!」と私は声を荒げた。しかし、それを否定する言葉は出てこなかった。
「まあ、どうあれ、戦いたがってるのはアイツ自身だ。その本人の怪我が心配なんて、的外れだろ」
「でも、私は、あの人が心配なの! 痛い思いをして欲しくない、辛い思いをして欲しくない、私がそう思うのだって、私の勝手でしょ!」
「なるほど。確かにな。そりゃお前の勝手だわ。俺が誰に肩入れするかも、俺の勝手だっつーのと一緒でな」
その時、背後で、ドアの開く音がした。後ろを振り返ると、そこにいたのはマユだった。不安そうに、竹刀袋を抱えている。
「ネネ……!」
「マユ、竹刀貸して」私がそう言うと、マユは一瞬躊躇したが、竹刀袋から、一本の竹刀を抜き出し、私に投げた。
私はそれを受け取ると、阿久津さんを睨む。
「男と女だし、このくらいのハンデはあったっていいでしょ?」
「ネネ、アンタが無茶する必要ない!」
マユはこの段になって私の意図を理解したらしく、慌てたように声を上げた。
「あるよ。私にとっては」竹刀を高くふりかぶり、上段に構える。
「阿久津さん、あなたは、呉島くんが、ただ暴れたいだけの戦闘狂だと思ってるのかもしれないけど、私はそうは思わない。
彼は、繊細で傷つきやすいだけだ。友だちが傷ついたことで、きっと自分も同じように傷ついた。本当は、そういう優しい人なんだ。お願い。あの人が、いつ、どこで、何をしようとしているのか教えて」
亜久津さんは、持っていたタバコを投げ捨てると、私の方へ歩み寄った。竹刀に怯む様子もない。
逆に怯んだのは、私の方だった。生身の相手に、竹刀を振り下ろすきっかけがない。
阿久津さんは、もう手の届くところまで近付いている。と思うと、そのまま何の気負いもなく、私の手元に手を伸ばして、竹刀の柄を押さえた。
私は動けなかった。
「喧嘩じゃ俺には勝てねえよ。こういうのはな、慣れが必要だ。お前らは、相手も自分も怪我しねえっつー安心感の上で打ち合ってる。そこが俺や勇吾とは決定的に違うんだ。
別にお前らを悪く言うわけじゃねえ。競技が違えば常識も違うってだけさ。
だが、俺を相手に啖呵を切るその度胸は気に入った」
「じゃあ……」と私は竹刀を下ろす。
「アイツの家を教えてやる。他には教えてねえっつー話だから、お前らも知らねえだろ。行って説得してこいよ。それでアイツが止まるなら、それもアイツの意志だ」
「呉島くんの、家……」
私は心臓が一拍強く脈打つのを感じた。これまで、何度もお昼を一緒に食べて、いろんな話をしたつもりだったが、彼の家については、北区に住んでいるということ以上は知らなかった。
私も家は北区だが、彼にはマネージャーの送迎がついているから、電車で乗り合わせることもない。
「ピアノ・バー『メフィスト』で検索しろ。もう潰れた店だが、ネットの地図にはまだ残ってる。アイツはその潰れた店を、ピアノごと居抜きで買い取って住んでるそうだ」
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学校を出て駅へ向かう途中、マユはため息混じりに言った。
「アンタ本当、ここ一番の闘志ヤバいわ」
「でも、結局竹刀を振れなかった……」
私はそのことを引け目に感じていた。
「覚悟が足りなかったんだ」
マユは私の背中を叩く。
「それは私らがすべき覚悟じゃない。竹刀は生身の人を叩くためのものじゃないから。それでも、あんな歳上の男に刃向かう勇気を、私は尊敬する」
そう言われると、私は何だかむず痒かった。
「呉島くんちに、一緒に行く?」
そう聞くと、マユは横に首を振った。
「手分けしよう。ネネはユーゴくんちに直接行って。私は、西高のヤツらがタムロしてる公園近くに行く。ちょっと、考えがあって。それと、こんな流れで言うのもなんだけど、私、ユーゴくんのこと、アンタに譲るつもりはないから」
「うん。それとこれとは、話が別。抜け駆け上等。何でも有りだ。私たちは、ライバルだから」
「それ聞いて安心したよ」
マユが不敵に笑うと、私は少し大きく出過ぎただろうかと不安になった。