1-3.侮蔑/呉島 勇吾
朝、俺が登校すると、教室にいたクラスメイトたちの間にどよめきが起こった。
「どうしたの、その顔!」
男子生徒の一人が俺の顔を指して声をかけて来たので、俺は色々と考えた挙句、「転んだ」と答えた。
一晩で腫れはほとんど引いたが、アザや擦り傷まではそうもいかない。
一日の大半を学校という狭い社会で暮らす彼らにとって、ここでの安全は重要な関心事に違いない。身近に暴力沙汰を起こすような癇癪持ちがいてはたまらんだろう。その気持ちは理解出来る。安心させてやりたいと思わないでもない。まあ、うわべだけでも。
「いや、転んでそうはならんでしょ」と男子生徒は言う。
確かに、鼻や頬や耳にまで擦り傷をつくっている。
「階段を踏み外して、こう、回転しながらまんべんなくぶつけたワケ」自分でも、どういうワケだ? と内心首を傾げながら、俺は説明した。
「わんぱくが過ぎるでしょ」男子生徒はそう言って笑った。
快活な男だ。俺の後ろの席にいる、確か、名前は酒井 駿という。昨日、俺が初めて登校した時も話しかけてきた。
むき出しの好奇心をぶつけてくるわりに、コイツに限っては不思議とイヤな感じがしない。俺は自分の席につくと、昨日の上級生や、遠巻きにジロジロと見てきたクラスメイトと、彼との間にある、不快感の差異について考えた。
その間にも、酒井は「なあ、それって、大丈夫なの? ほら、人前に出る仕事だろ?」と質問を重ねてくる。
「ああ、マネージャーに死ぬほどキレられた」と俺が答えると、周囲の生徒がそれに興味を示したらしく、にわかに人だかりが出来た。
「マネージャー! それっぽい!」「それって昨日、校門にレクサス乗り付けてたお姉さん?」「つか、そもそも何で日本の高校に?」などと、口々にまくし立てる。
「いや、俺は聖徳太子か」困惑してそう漏らすと、周りはドッと沸いた。
帰国子女の口から日本の古い偉人の名前が出たことが滑稽だったと見える。
彼らの質問に答える間も無く、教室に担任の教師が入って来て、話はそこで打ち切りになった。
「さすが、ツッコミもアカデミックだわ」と酒井が言う。
「正直、そこまでウケるとは思わなかった」
妙な疲労を感じつつ、俺がそう答えると、酒井は腕を組んで、唸った。
「みんな、ユーゴに興味があるんだよ。それなのにお前、話しかけんなオーラがエグいからさ。その落差だよね。みんなきっかけ待ちだったんだよ」
俺はその言葉を反芻した。なるほど。俺は多分、この学校では異物だ。その感じが、俺を居心地悪くさせるのだ。
では、この酒井や、さっき俺の周りに群がってあれこれ聞いてきたヤツらが、俺にとってそれほどイヤな感じがしなかったのはなぜだろう……?
教壇で、担任が咳払いをした。及川という中年の女だ。自分の話に傾聴を求めるような仕草だったが、その割に話の内容は大したことではなかった。
話が終わると、女教師は俺に、「この後、生徒指導室まで来なさい」と言った。
「何でだよ」と尋ねたが、「聞きたいことがあります」としか答えない。
「そうだろうな。『聞きたいこと』か『言いたいこと』がなけりゃ、わざわざ呼び出さねえ。だったらここで聞きゃいいだろ」
俺が抗議すると、担任の及川は顔をしかめた。「教員の指導上の指示には従ってもらいます。ここは学校ですよ」
俺は後ろの酒井を振り返って、「おい、何だよアイツ。偉そうだぞ?」とたずねた。どうしてわざわざ、あんな仰々しい言い方をするのかが本当に分からない。
「偉そうじゃなくて、偉いんだよ。学校の先生は。外国じゃどうか知らないけど、日本では」酒井は小声で解説した。
「なぜ……?」俺は首を傾げた。
及川の方に向き直ると、もう暴れだす寸前みたいな怒りの色を、顔中に浮き上がらせている。
「あなたの疑問には、後でゆっくり答えます。まずはついて来なさい」
「いや、人前で話せないようなことを聞かれても、多分俺は答えねえぞ。アンタとは別に仲良くねえし」
「そういうことではない!」及川は手に持った名簿か何かを、教壇に叩きつけた。
「やべえよアイツ、超キレてるじゃん……」俺は酒井に助けを求める。意味が分からない。
「とにかく、こういう時は、黙って従っとくのが賢いやり方だ」と酒井は言う。気まずそうに声をひそめてはいるが、多分、丸聞こえだろう。
「マジかよ……」と俺は思わず呟いた。「後で、みんなの質問に答えようと思ったのに……」
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『生徒指導室』と札のついた部屋は、照明をつけても何となく薄暗かった。北向きの窓からは日も入らず、壁紙の色がくすんでいるせいもあるだろう。とにかく陰気で、いかにも、これからの会話があまり楽しいものではないと暗示するみたいだった。
「まず、あなたは『敬意を払う』ということを覚えなさい」
担任の及川は、自分の向かいの席を俺にすすめると、俺がそこに尻をつけるかつけないかという絶妙なタイミングでそう言った。
「それは、自分から求めるもんなのか?」と俺は尋ねた。俺にはそうは思えない。
「私とあなたの関係においての話ではありません。誰に対してもということです」
及川はそう答える。
俺はそれについて考えた。
「よく分からねえな」
「『敬意』の意味が?」
「おい、ナメるんじゃねえ。俺は海外にいる間も、ずっと日本の事務所とやり取りしてたんだ。日本語は普通に喋れるし、細かいニュアンスも分かる」
「だったら、私の言うことが分かるでしょう」
及川は苛立ち気味に語気を強めた。
「アンタは日本語で説明さえすりゃ、俺の音楽観が理解出来るのか?」
及川はいよいよ腹にすえかねたというふうに、「屁理屈に付き合うつもりはない!」と声を荒げた。
始業のチャイムが鳴る。
「いいのか? 授業が始まるけどよ」
「では、これだけ答えなさい。顔の傷は、どうしたの」
「転んだんだよ。階段で」
「そんなワケないでしょう。普通に転んでそんな傷のつき方はしない」
俺はウンザリしてため息をついた。
「なあ、これは尋問か? 俺は何の容疑でこんな目にあってるワケ?」
「昨日何があったか、あなたが素直にしゃべってくれれば、私もこんなことに時間を使う必要はないの」
「時間が惜しいなら、アンタは俺の言った通り報告すりゃいい。『本当かどうかはともくかく、本人は転んだと言ってます』とかなんとか」
俺はおどけて見せたが、及川はそれを無視して、吐き捨てるように言った。
「特別な才能を持っていると、周りの人間が下らなく見えますか」
俺は舌打ちをした。
「周りの人間が下らねえかどうかは知らねえが、アンタの言うことが俺にとっては下らねえことだけは確かだ。俺の顔に多少の傷がついていることも。
下らねえ連中が、下らねえことを理由に、いつも俺の足を引っ張ってきた。俺はそういうヤツらを、ピアノの腕一本で捻じ伏せながら生きてきた」
「音楽というのは、そういうものなの?」
及川は、非難と侮蔑を煮詰めたような声色で言った。
「俺にとってはな」
椅子を立ち上がって、その中年女がにわかに怯むのを見下すと、俺は背を向けてその部屋を出た。
北向きの窓から生垣の向こうにかろうじて見えた空には、薄く雲がかかっていた。