4-2.西高/呉島 勇吾
ここの所、週末の予定をことごとく仕事で埋められた俺は、いささか不機嫌だった。
篠崎からの食事の誘いは断らざるを得なかったし、埋め合わせの目処も立っていない。
活動拠点をヨーロッパに置いていた俺は、まだ公のステージに出ていたガキの頃にこそ、何度かメディアに取り上げられもしたらしいが、この国では『消えた神童』であり、つまり『過去の人』だ。
だから、この国に飛ばされた時点で、しばらくの間は仕事がないものと、てっきりそう考えていたのが、ヤリ手と讃えればいいのか、金の亡者と罵ればいいのか、真樹はわずか1ヶ月やそこらで、向こうの金持ちと遜色ない客を、何人も引っ張ってきたのだ。
真樹が目をつけたのは、軽井沢やニセコといった、ロングステイ向きのリゾート地に別荘を構えるような連中の中でも、さらに別格と言える、一流コンドミニアムの分譲レジデンスだとか、景観協定を無視して6600坪の豪邸だとかいったものをブチ建てるような、海外の超富裕層だった。
たかが1ヶ月やそこらのバカンスのために、200頭分の牛革を壁紙に貼るような連中だ。
ヤツらが牛に謝るべきかどうかはさておき、集客コストは少なく、ホール代もかからず、宿や食事も向こうが一流のものを勝手に用意する。
俺はフラリと手ぶらで赴いて、そこにあるピアノを弾き、また手ぶらでフラリと帰ればいい。
ただ俺を辟易させたのは、とにかく移動時間が長いということだった。極限まで快適性を求めるそうした金持ちは、よほど喧騒から逃れたいと見えて、臆病な野生動物みたいに、電車の音が少しでも耳に入るような場所には別荘を構えない。
そのため、国内にも関わらず、仕事のたびに駅や空港から車に乗り換え、ほとんど丸1日を移動に費やさなければならなかった。これは俺にとって、かなりの苦痛だった。
移動中、クラスメイトの酒井や平坂 マユ、そして篠崎といった学校の連中とメッセージのやり取りをして気を紛らわしていなければ、俺はとっくにブチ切れて、車を飛び出し家に帰っていたに違いない。
彼らは、よく旅先での写真を要求したが、酒井は景色、マユはホテルやレストラン、篠崎はその日俺が食った飯だとかといった具合に、求める写真の内容が微妙に違っていたので、行く先々で俺は頻繁にスマホのカメラを向けることになったが、ある意味それが気晴らしになっていた。
そんな中、北海道で食った、レーズン入りのバタークリームを挟んだビスケット、『バターサンド』という菓子が死ぬほど旨かったので、それを土産に週明けの朝、教室に入ると、酒井が顔に、アザを作っているのに気がついた。
酒井は俺と違って社交的なヤツだ。身体こそ大きくはないが、バスケ部の1年レギュラーで、脚が速く、体力もある。
トラブルに巻き込まれて一方的にボコられるということは、あまり想像出来ない。
「よう、どうしたお前」
俺がそう尋ねると、酒井は愛想笑いでそれに応えた。
「転んだんだよ」
それは、俺が登校初日に上級生と揉めてできた傷をごまかしたのと同じ言い訳だった。転んでそんな傷のつき方はしない。
俺は少し考えたが、まずは土産を渡した。
「まあ、これ食って元気出せ」
酒井はそれがよほど意外だったらしく、大きく目を見開いて俺を見た。
「マジで? ユーゴ、そういう気回すタイプじゃねえじゃん」
喜ぶ演技をしているように、俺には見えた。
酒井は、基本的に素直で率直な人間だと俺は思う。その酒井が、俺に気を使って嬉しそうに土産を受け取るフリをした。
顔にアザができたばかりのヤツはだいたいそうだろうが、本当は大分落ち込んでいるようだ。それも、おそらく誰かに殴られて。
「で、いつ、どこで『転んだ』んだ?」と聞く。
酒井はまた驚いたような顔をする。
「いやいや、別に、そんな大したことじゃないから」
俺は酒井の前、自分の椅子に後ろ向きにまたがった。酒井の頬には、薄くだが泥がついている。
「今朝か? 顔汚れてんぞ」と俺が言うと、酒井は「マジで?」と慌てて顔を手でぬぐった。
ちょうどその頃、教室の後ろの入り口から、竹刀袋をかついだマユが入って来て、酒井を見るなり声をあげた。
「どうしたの、その顔! 西高の?」
酒井は肯定とも否定ともつかない曖昧な返事をする。
「西校?」俺が代わりに聞き返す。
「ああ、ユーゴくん、おはよう」とマユが言うので、俺はそれに返事をして、土産のバターサンドを渡した。
「え? 仕事のお土産? 超嬉しい! 北海道だっけ?」マユは水を得た魚のように生き生きと歓声をあげる。
「まあ、そうなんだけどよ、それより西高ってのは?」
マユが俺の質問に答えようと、話をまとめるような間をとると、それをさえぎって、酒井が口を挟んだ。
「いや、マユ」
マユは、その短い言葉を承諾するように、「なんか、タチの悪いのがいるらしいのね。私もよく知らないけど」とお茶を濁した。
彼らには、これ以上説明する気がないように見えた。
俺は、酒井とマユから事情を聞くのは諦めて、とりあえず、土産に買ってきたバターサンドについて、一通り説明した。そのビスケットの、口の中でホロホロ崩れるような食感と、濃厚な味わいなどについて。
そうするうちに、担任の及川が教室に入って、「定期テストが近いので勉強するように」という意味の話を、よくそれだけのモチーフをここまで膨らませるものだと感心するくらい長々と話して去って行った。
✳︎
あれこれと考えている間に、午前中の授業が終わると、俺は購買でパンを買って屋上に向かった。
阿久津が屋上の柵に手をかけて、グラウンドを見下ろしている。
「よう」と声をかけると、阿久津は振り向いて、それに応えた。
土産のバターサンドを渡す。
「あ? どうしたコレ」
首を傾げる阿久津に、俺は土産だと説明した。
そのバタークリームのもったりとした味わいと、レーズンの酸味が、いかに有機的に調和しているかということなどについて。
阿久津は包みを破ると、箱から個包装のバターサンドを取り出して、一口食べた。
「おお。なるほど」
「だろ?」
「うん。美味いわ。確かに」
この阿久津という3年生は、2年の時にはすでに学校中の不良(といっても、進学校のそれなどタカが知れていたそうだが)を一掃し、屋上を占領した、この学校に残る唯一の武闘派で、生徒のほとんどから敬遠されているようだった。
ただ、こういうタイプの男が往々にしてそうであるように、彼もやはり女にはモテるらしく、関係した複数の女から、思いもよらぬ情報を得ていたりする。
「なあ、朝、西高のヤツにボコられたって話があったら、何か思い当たることあるか?」
俺がそう尋ねると、阿久津は新しくバターサンドの包みを破り、口に放り込んだ。阿久津の口には、2口で食うにはやや小さく、1口で食うにはやや大きすぎたと見えて、困ったように口をモゴモゴさせた。
情報料のつもりで買っておいた缶コーヒーを阿久津に放る。
阿久津は缶コーヒーを片手で受け取ると、缶を空けて、口の中のバターサンドと一緒に飲み下した。
「お前、気が利くね。そうだなあ……」と、タバコに火をつける。「ここは私立の進学校だが、西は公立の進学校だ。ここと一緒で、一目でそれとわかる不良みてえなのは少ねえが、それは残りが善良だってことを意味するわけでもねえ」
「そりゃそうだ」と俺はうなずく。
「それしか情報がねえってことは、ヤラレた本人も話したがってねえってことだろうが……ソイツの家は、西高に近えのか?」
阿久津に聞かれて、俺は記憶を辿った。
「最寄りの駅が西高前だ」
「ヤラレたのはウチのバスケ部で1年レギュラー。どうだ? 合ってる?」と阿久津が聞く。
「うわ、アンタ、マジで? 何で分かった?」
俺が驚いてそう言うと、阿久津も驚いた顔をした。
お互いに、そこまで期待はしていなかったという様子だ。
「マジか。いや、ほとんど偶然だな。西高のバスケ部マネージャーが、セフレだ」
「またかよ」
呆れて、頭の後ろに手を組む。
「『持つべきものは友』ってことだな。どういう種類の友かはさておき。
西高とウチのバスケ部が、公式戦で当たって、ウチがボロ勝ちしたらしい。
その1年レギュラーが、西校をガタガタに引っかき回した。
西高ってのは、それほど部活の強い学校じゃねえが、バスケだけはそこそこだった。それがウチに負けて、県大会だか全国だか知らねえが、先に進む道を絶たれたってとこだな」
「それで相手の1年殴るか、普通」
「さあな。当然進めると思ってた次の試合が無くなって、持て余してたんじゃねえのか?
マネージャーが言うには、西高バスケ部の雰囲気は最悪、朝練サボってタバコの臭いさせてくるヤツが数人いるっつー話だ。
要は、わざわざ朝練の時間に家を出て、どっかに溜まってタバコ吸ってんだろ。元は進学校に通って部活でも活躍って連中だ。大っぴらにグレるつもりもねえが、ちょっとした憂さ晴らしは必要だ。そこに丁度、そうなった原因が現れた」
「へぇ……なるほどな」
「で、お前はどうするつもりだ?」
「俺もこのところ、あっちこっち連れ回されてイラついてる。ちょっとソイツらに付き合ってもらうさ」
「出たよ。一応言うけど、おそらく相手は1人や2人じゃねえぞ。それも、そこそこのスポーツマンだ」
「関係ねえよ。俺はな、負けるのも大っ嫌いだが、それより我慢ならねえのは、負けるのが怖くて戦わねえことだ」
阿久津は声を出して笑った。
「西高の裏手にな、広い公園がある。その中に、ずっと使ってねえだろう朽ちかけの小屋みてえなのがあってな、人目を避けるなら、その陰だ」
「なんでアンタは詳しいんだよ」
「言ったろ。西高バスケ部のマネは俺のセフレだ。そこで2、3回ヤった」
俺は顔をしかめた。
「蚊に刺されろ」