3-9. Très calme et doucement expressif (とても静かに、やさしい表現で)/呉島 勇吾
昨日の晩、篠崎からメッセージが来た時、俺はピアノを弾いていた手を止めて、スマホを取った。
それは俺にとって、とても珍しいことだった。
マドリードのホテルで爆破テロがあった時も、近くのスタジオにいた俺は、誰かから引きずり出されるまでピアノを弾く手を止めなかった。
「こんばんは。篠崎です。よろしくね」
俺はこういう場合、何と返事を送るべきか知識がなかったが、考えた挙句、同じように「こんばんは」と送った。
「何してた? 迷惑じゃない?」
篠崎からすぐにそう送られてきたことに、俺は少し怯んだが、質問に答えること自体は簡単だった。
「ピアノを弾いてた。俺は家にいる時、だいたいピアノを弾いてる」
「すごい。さすがプロだね。練習は大変?」
「あまり大変だと思ったことはない。
日本ではスマホをずっといじってる奴が多いが、
それと似たようなものだと思う。
手が疲れたら少し休む。
剣道の練習は大変なのか?」
「体力を使うから少し大変かも。
相手がいないとあんまり練習にならないけど、
家では竹刀を素振りするよ」
「天井にあたりそうだ」
「この前、天井にあたって、
家族が慌てて部屋に駆け込んで来たよ。
私が暴れたと思ったのかも」
「よく暴れるのか?」
「暴れないよ! 暴れそうに見える?」
「あまり見えないから、もしそうだとしたら意外だと思ったんだ」
俺と篠崎は、こういう取り留めもないやり取りを続けた。
「お話できて、楽しい」
篠崎がそう言ってきた時、俺は、自分の心の動きについて考えた。そして、返事を打った。
「そうだな。楽しい」
結局その夜12時頃までやりとりが続いて、最後は互いに「おやすみ」と言い合って会話を締めくくった。
俺は、スマホの画面上に浮かぶ、そのたった4文字の文字列に、何とも言えない温もりを感じて、自分の手のひらを見つめた。
そして、篠崎に何を弾いて聴かせるべきか、考えた。
どういうメロディが、アイツは気に入るだろう。俺もアイツも甘党だが、だからといって、俺が得意なリストやプロコフィエフが、アイツも好きとは限らない。
アイツの好きな音はどんなだろう。色や、匂いは? どんな言葉に心を動かすのだろう──
✳︎
その日、昼休みになるまで、ずっと落ち着かない気分だった。
俺は穏やかな気持ちでいることよりイライラしていることの方がずっと多いが、それとはまた違う感じだ。
頭の中にある膨大なレパートリーから、いくつかの楽曲をピックアップしていたが、その選曲が果たして正しいのか、自信が持てない。
4時限目の世界史の授業が終盤に差し掛かった時、俺の尻は、もう椅子から浮いていた。
チャイムが鳴るのと同時に、席を立つ。
日本の学校では、授業の終わりに頭を下げる習わしがあるようだったが、そんなものを待っていられなかった。歴史の教諭がとがめるのも構わず、俺は廊下に出ると、隣の教室へ向かった。
教室の後ろの引き戸のガラスから中を覗く。そこでは、ちょうど俺のクラスの連中がそうしていたように、生徒たちがあまり真剣とはいえない態度で頭を下げていた。
一番後ろの廊下側にいた篠崎が、頭を上げたのと同時にこちらを見て、目が合った。一瞬の出来事だったが、何か、秘密を共有しているみたいだった。
人形に魂が吹き込まれたみたいに、生徒たちが、急に生き生きとそれぞれ思いのままに動きだすと、篠崎は教室の引き戸を開けて、俺に小さく手を振った。頬に赤みが指している。
「呉島くん、今日は、ご飯買ってない?」
「ああ、そう言えば、あんまり考えてなかったな。いつもは購買で買うから……」
今から買ってくるわ、と言おうとしたのを、篠崎は遮った。
「よかった。私、実はお弁当を作ってきてて……昨日、言えば良かったんだけど」と照れ臭そうに言う。
「それはつまり、俺が食う分も、お前が作ったってことか?」
「うん。お口に合うと、いいんだけど……」
篠崎が控えめに言うと、俺もどういうわけか照れ臭いような気持ちになった。
音楽室に向かう途中、たびたび視線を感じて、さすがに居心地が悪かったが、腹は立たなかった。
音楽室の防音扉を開けて、篠崎と中に入ると、その扉を閉めるなり、俺は口を開いた。
「その……俺はだなあ……」変に突っかかって、上手く言葉が出てこなかった。
先に入った篠崎が、3歩先で振り返る。
「ゆっくりでいいよ。聞くから」
射抜くように真っ直ぐ見つめられて、俺は思わず頭を掻いた。
「なあ、ピアノ弾いても、いいか?」
俺がそう言うと、篠崎はうなずいた。椅子の高さを調節して、そこに腰を下ろすと、やっとまともに呼吸が出来た。
「変だな……千何百人って客が入ったステージでピアノを弾くのは、何ともねえのにな。なんか、緊張してる」
鍵盤の上に、指を置く。
「私のため?」篠崎が聞く。
「どうだろう。『お前に聴いてほしい』という意味ではお前のためだが、聴いてほしいのは俺だから、そういう意味では俺のためだ」
そう言って、88鍵隙間なく並んだ鍵盤の一つを、そっと、押し込む。とても脆く、傷つきやすい大切なものを、優しく撫でるように。
クロード・ドビュッシー前奏曲集第1集より、8番『亜麻色の髪の乙女』
フランスの詩人、ルコント・ド・リールの『古代詩集』におさめられた同名の詩を、ドビュッシーは歌曲にしようと試みたが、それは結局出版されず、この前奏曲集にメロディーが引き継がれた。
ドビュッシーの音楽の中でも、もっとも広く親しまれているものの一つと言っていい。
分かりやすいメロディーと、刺激の少ない和声、緩やかなテンポで、最強音もmfととても優しい。
だが、音楽の構造自体は決して単純でなく、また緩やかでデリケートで微細な変化を、それと分かるようにはっきり表現しなければいけない。
少し寝かせた指の腹で鍵盤を押すと、ハンマーのフェルトが優しく弦を叩いていく。
柔らかく、少し曇った響きが、音楽室の中に漂っていった。
「すごく、素敵……」
およそ2分30秒ほどの間、神経をすり減らすように短い音楽を一曲弾き終えると、篠崎はため息のような声で言った。
「本当か? 色々、考えたんだ。『マゼッパ』みたいなガチャガチャした音楽は、昼飯時には合わねえとか、あんまり湿っぽいのも趣味じゃねえかもとか……」
安心した時、人間ってのは本当に胸を撫で下ろすんだな、とか、俺はそんなことを考えた。
「私のために……?」
「ああ、そうだな。俺は、お前に出会うまで、こういう曲を、こんなふうには弾けなかった。だから、それを聴いてほしかった」
「呉島くんにも、弾けない曲が?」
「もちろん、譜面に書いてある音を、指で押さえることは出来る。そういう意味じゃ、それほど難しい曲じゃねえ。でも、こんなふうに、水彩絵具が薄く混ざるみたいに弾こうと思ったことは、そもそも俺にはなかった」
「水彩絵具が、薄く混ざるみたいに」篠崎は俺の言葉を、確かめるように繰り返した。
「お前が、何の損得勘定もなしに、俺の鼻に絆創膏を貼ってくれたこと、あれは、それまでの俺の人生の中で、一番優しい出来事だった。そんなちっぽけなことでって、お前は笑うかもしれねえが、そのことを考えていたら、俺はな、こういうふうに弾けるようになったんだ。
きっとこれは、『心を込めて弾く』ってことなんじゃねえかな」
「心を込めて、弾いてくれたんだ」
「ああ。俺はこれまで、そういうのが全然分からなかった。心なんて込めなくたって、俺は誰よりも難しい曲を、誰よりも簡単に弾いたから。
フランスの学校にいた時、ピアノの主任とかいうヤツにな、『ショパンを弾くなら、恋をしなさい』って言われたんだ。俺はその時、『は? 何言ってんだコイツ、キモっ』って思った。でも今なら、少し分かるな。
俺は自分が恋をしてるかっつーと、それはよく分からねえけど、楽しいとか、優しいとか、そういう気持ちになった時、誰かにこういうふうに聴いてもらいたいっていう音が、俺の中にもあったんだ」
俺はそこまで言うと、篠崎から目を逸らした。どういうわけか、見ていられなくなったのだ。
それから、2人で向かい合って、篠崎の作ってくれた弁当を食べながら、他愛のない話をした。
篠崎の弁当は、唐揚げだとか、トマトだとか、カボチャのサラダだとかいうのが彩りよく詰めてあって、普通に美味かった。
「篠崎は、料理が上手だな」
「出来合いのヤツも、結構入ってて……」と篠崎は申し訳なさそうに言った。
「この、カボチャのサラダが美味い」
「あ、それは、私が作ったよ」
「そうか。これが一番美味い」
篠崎が嬉しそうに笑うのを、俺は、可愛いと思った。
「心を込めて作ったよ」
「お前もか」
「きっと、みんなそうだよ。誰かに何かをする時、その人が喜んでくれたらいいなって、きっと、みんな心を込めるよ」
俺は、人が心を込めて作ったものを、美味いと感じる心が自分の中にもあったのだということが、なんだか不思議に感じた。