3-8.急襲/篠崎 寧々
格技室に、何の前触れもなく呉島くんがやって来て、騒然とするかと思いきや、みんな借りてきた猫のようになってしまった。
呉島くんは格技室の入り口にある下駄箱のところで、少し考え込むように、じっと床を見た後、「ここで、靴を脱ぐのか……?」と小さく呟いた。
この剣道部の部員たちは基本、女同士ではヤイヤイ言うけれども、男の子がいると途端に大人しくなってしまう。
男女で部を分けているわけでもないのに、どういうわけか、代々強い選手が女子に集中したせいで、女子剣道部の名門みたいに扱われるようになった結果、この10年、剣道部の女子率は100パーセント、部員は伝統的に男慣れしていないのだそうだ。
そんな中でマユだけが、すかさず彼に駆け寄り、靴はここで脱いで、格技室に入る時は一礼して、と教えて世話を焼く。その動作の端々に、さりげないボディタッチを欠かさない。こういう技術を、彼女は一体どこで身につけるのだろう。
部員たちは、揃って、やや俯きがちに、横目でチラチラと呉島くんを見たり、目を逸らしたりする。
呉島くんは、マユに「ああ、悪いな、俺はこういうところに来るのは初めてだから」と言うと、私を呼んだ。
部の仲間たちが、聴こえるか聴こえないかというひそひそ声で、「ソイヤ……」「ソイヤ……」と呟く。
「あ?『ソイヤ』って何だ?」と呉島くんが顔をしかめる。音楽家の聴力を見くびるべきではない。
「剣道部の、掛け声みたいな……みんな、恥ずかしがり屋だから。私もだけど」と私は説明した。
「そうか。俺にはあんまり、そういう感覚はねえな。ところで、明日の昼休み、暇か?」
遠慮がちだった部員たちの視線が、呉島くんに集まる。
「うん……予定はないけど……」
綿の道着の衣擦れの音が、一斉にザッと鳴った。視線が私に集まっている。
「じゃあ、昼飯を一緒に食おう。音楽室を押さえてある」
呉島くんはそう言った。学校でお昼を食べるのに、『部屋を押さえる』ということがあるのだろうか……?
でも、そういう発想自体が、何か大人っぽいというか、プロっぽくも感じられる。
「分かった。じゃあ、明日お昼休み、音楽室に行くね?」
「ああ。じゃあな」
呉島くんが背中を向け、格技室を出て行くと、私はハッと思い出して、彼に追いすがった。
「あの、連絡先を、教えてほしくて……」
後ろから抱きついた女が今さら何をという感じだけど、心臓が飛び出そうだった。
「ああ。そうだな。IDでいいか?」
「うん……」
呉島くんのスマホに表示されたQRコードを読み込むと、彼のアカウントがポンと表示された。
──『Kureshima Yugo』──
「私の携帯に……呉島くんがいる……」
私は思わず口走った。
「いや、いねえぞ、そこには」
呉島くんは、不思議そうに首をかしげた。
しまった。変な女だと思われてしまったかもしれない。
「あ、その、比喩的な意味で、その、気分的には……」
私がそう弁解すると、呉島くんは、ああ……と呟いて、少し考え込むように視線を上の方へ向けた。
「スマホに俺の名前があるから、一緒にいるような気分か……」
「その、もちろん、まるまるご本人とまではいかないけど……呉島くんの一部が、そばにいるというか、つながってる、みたいな……」
「確かに、これでいつでも、連絡がつくからな」
「いつでも……連絡していいの? その、忙しい時間帯とか……」
彼はまた、少し考え込むように、視線を泳がす。私はその顔が、かわいいと思った。
「俺は、四六時中スマホを覗いてるような人間じゃねえから、いつでもすぐ電話に出たり、返事を返すとは限らねえけど、気付いたら返すよ」
「分かった。ありがとう。連絡するね。週末のこととか……」
私がそう言うと、呉島くんは「ああ」とうなずいて、ポケットに、スマホをしまった手を突っ込んだまま、私に背を向けて歩き出した。
その背中を見送りながら、私は自分の心臓の音を聴いた。
✳︎
──呉島 勇吾(くれしま ゆうご、生年20⚪︎⚪︎年、月日非公表)は、日本のピアニスト、作曲家。──
ウィキペディアにはそうあった。
家に帰る途中、電車の中で、今日教えてもらったIDに、早速メッセージを送ろうとしたが、何と書くべきか悩んでいるうちに、私の指はついに、『呉島 勇吾』の名前を検索ボックスに入力してしまった。
念のため、自分の名前も同じように検索をかけてみたが、同姓同名のSNSアカウントと、姓名判断のサイトがいくつか見つかった以外には、収穫はなかった。
私はおずおずと彼の記事を読み進めたが、彼が通った学校と、優勝したコンクールが列挙されている以外、目新しい情報は特になかった。
一度聴いた、あるいは楽譜を読んだ音楽は、ピアノで完全に再現できる(とされている)こと、5歳の時にブダペストでデビューしたこと、6歳でバルトーク音楽学校に入学、11歳でパリの国立音楽院というところに入学して、これも飛び級で卒業したこと、そして、10歳の時にステージ上で椅子を蹴倒して以来、公の場には姿を見せていないこと……。
ネットの情報というのはいつもそうだけど、本当に知りたいことはどこにも書いていない。例えば、彼はどういう気持ちで、私をお昼に誘ってくれたのか、とか。
彼は3歳の時に両親からピアノの偉い先生に売られた。これは人身売買だろう。立派な犯罪だ。彼の生い立ちを、公にできるはずがない。
それでも、優勝したコンクールや、出演したコンサート、入学した学校には名前が残る。しかも彼はおそらくそこで、ずば抜けた演奏をして、メディアや音楽関係者の関心を引いたはずだ。
そういう人生を歩んだ人が、どういう気持ちなのか、私は想像することが出来なかった。
ただ、その一部について、知っているだけだ。
彼の口から直接聞いて、彼の傷に触れて、彼の音楽を聴き、それを弾く彼の姿をこの目で見て、私は彼について、メディアやネットが知っている以上のことを、すでに知っているのだ。
たとえ、無責任なネットの人や、意地悪な評論家が、彼について、勝手な印象やデタラメな評判を流したとしても、私は彼が、実物の血が流れる本当の人間だということを知っている。
そう考えると、少し勇気が湧いた。
駅に着くと、私は走って家に帰った。
そして、部屋に上がると、ラインの画面を開いて、剣道部や友だちからのメッセージをチェックし、一度リビングに降りてご飯を食べ、また部屋に戻って友だちに返信し、また下に降りてお風呂に入り、宿題をやって……──。
もう少し勇気が必要だ。
私は立ち上がると、竹刀袋から、呉島くんのくれた、古刀型の竹刀を引っ張り出し、大上段に構えた。
「よし……」
ベッドに寝転がって、スマホを握った。『友だち』のリストから『Kureshima Yugo』のアカウントをタップして、トーク画面を開く。
勇気を出して、文字を打ち込む。
──「私はいつも、呉島くんを見ています」──
「いや、何だコレ。気持ち悪い」
私は慌ててその文字を消した。
うーん……とベッドの上で一人唸って、考える。出来るだけ、自然な感じで。そして、一つのアイデアが浮かんだ。
「お姉ちゃぁん!」と大きな声で呼ぶ。
こういう時は、お姉ちゃんに聞けばいいのだ。
「お前が来い!」と隣の部屋から怒鳴り声が聞こえた。
渋々、お姉ちゃんの部屋へ行く。
シンプルな部屋だ。ベッドがあって、ローテーブルの上にパソコン、後は本棚に大学で使う本がある以外は、ほとんど何もない。
服はクローゼットに収まる分しか持っていないし、読んだ本はすぐ売るからだ。
「お姉ちゃん、初めてラインする人に、何て送ったらいいか教えて」と私は頼んだ。
「『こんばんは。寧々です。よろしくね』以上」
お姉ちゃんは即答する。
「えー、普通すぎる」
私は口を尖らす。だって、もっと真剣に考えてほしい。
「どうして悩むか教えてあげようか?」
まるで下らないことをいちいち聞きに来るなというふうに、お姉ちゃんは言った。
「うん」
「挨拶をしてないから。だから続きが出てこないんだよ。こっちが先に挨拶すれば向こうが勝手に何か言ってくる。よほど偏屈な人じゃなければね。あとはそれにリアクションしとけばいい」
「なるほど! 分かった。お姉ちゃん、ありがとう!」
さすがお姉ちゃんだ、一瞬で解決してくれた。早速呉島くんにメッセージを打とうとドアノブに手をかけた瞬間、お姉ちゃんは私を呼び止めた。
「ヘイヘイヘイ! 手ぶらで済むと思うなよ? 私はその男の子について、何の説明も受けてないんですがねぇ」
「男の子って、言ってないもん」
私はそう反論したが、それで煙に巻ける相手ではなさそうだ。