3-7.高みへの供物/呉島 勇吾
この学校の屋上というのは、俺にとっても居心地が良かった。
阿久津は購買で買ったパンを食い終えると、タバコの先に火をつける。
「あんまり、俺の経験はアテにならねえと思うぜ」と言いながら、阿久津はタバコをふかした。
「いや、いいんだよ。あんたの知ってる限りで」
何も、全部鵜呑みにするつもりはない。
つまり、背後から抱きついてくる女の心理とは、いったいどういうものかということについて。
「知ってる限りっつーか、俺の場合、『ヤレる女にしか興味ねえ』って空気を最初から出すワケ。場合によっちゃ、口でも言う。その上で抱きついてくる女ってのは、まあ、だいたい向こうもそのつもりだわな」
俺はうなった。
「マジで参考にならねえな」
「だから言ったろ。だいたい、同じ行動をとった2人の人間が同じ気持ちとは限らねえし、世の中にはベッドで添い寝までして本番NGなんて女もいるんだ。考えたところで分かりゃしねえよ」
「本人に聞くしかねえか」俺は立ち上がって、ズボンの埃を払った。
「何て?」
「俺に抱きついたのは、どういうワケだ? って」
「悪いことは言わねえ。やめとけ」
「何で?」
「どうせ、本人にも説明できねえから。今後お前に抱きつくたびに、その意味を説明しなきゃいけねえとしたら、二度とお前は、背中におっぱいの感触を味わえなくなる。で、どうだったんだ? 感触の方は」
「いや急なことで、よく分からなかったが、剣道着の分厚い布の感触しかなかったな」と俺は嘘をついた。
「剣道部か。お前また渋いとこ突くね」
「何にせよ、俺が考えたところで分からねえってことだけはよく分かった」
俺はそう言ってパンの袋をまとめる。
阿久津は缶コーヒーを一口あおると、その缶にタバコを入れて軽く振った。
じゅっ、と小気味良い音がする。
「まあ、臭えとか汚えとは思われてねえって程度のことしかな。つーか、重要なのは、その女がどういうつもりかってことより、お前がどうしたいかじゃねえのか?」
「俺が?」俺ははたと手を止めて、阿久津を見た。
「そりゃそうだろ。お前がその女とどうなるつもりもねえなら、女が死ぬほどヤリたがってたにせよ、痒いところを掻くのにお前の背中がちょうど良かったにせよ、別にお前にゃ何の関係もねえ話だ」
「痒いところを掻くのに、俺の背中が? そんな可能性もあんのか? 手で掻けよ」
「冗談にきまってんだろ。お前、怖えわそういうとこ。まあいい、明日はその女と昼飯食えよ」
✳︎
阿久津に言われたからというわけでもないが、とにかく篠崎と会って話さないことには、話が先に進まないと思えた。
思えば、アイツに初めて会って、鼻先に絆創膏を貼られたあたりから、何となく俺のペースは乱れ始めたように思える。
音色がイメージとズレ始め、これまで良いと思っていたものの価値が疑わしく思えたり、逆に関心のなかった曲や表現が気になり始めたり、とにかく変な感じなのだ。
かといって、俺はコソコソ逃げ回って、そういう変化からせせこましく自分を守るようなマネはまっぴらだし、アイツが俺に何がしかの変化をもたらすというのなら、俺はその変化もろとも、自分のコントロールを取り戻すつもりだ。
どっからでもかかって来い。
そういう気分で椅子の背もたれに身を預け、脚を組んで授業を受けていると、『逆・裏・対偶』の関係について話していた、髪の薄い気の弱そうな数学の担当教師が、「呉島くん、何か、怒ってる?」と尋ねてきた。
「いや、俺は何も怒ってはいねえ。考え事が多いんだ。思春期だからな」
俺の答えがよほど意外だったようで、教師は驚いたような、安心したような、変な顔をした。
「そうか。自分の心の状態を把握できるというのは、素晴らしいことだね。では続けてもいいかな?」
「ああ、そうしてくれ。話は聞いてる」
数学の教師は、「ええと……どこまで話したっけな……」と呟いてから、少し重複しながらも、話の続きを始めた。
しかし、俺には「pでないならばqでない」とかいう話よりも、彼の言った「自分の心の状態を把握する」というセリフの方が、よほどタイムリーで、かつ重要に思えた。
そしてそれと同時に、なるほど、と思った。
授業が終わると、俺は校長室を訪ねた。扉をノックすると、「どうぞ」と言うので、ノブをひねる。
「やあ、呉島くん。どうぞどうぞ」と校長はソファにかけるようにすすめる。
革のソファに身を沈め、コーヒーを入れようとする校長を「いや、別に長居するつもりはねえ」とさえぎったが、こだわりのコーヒーなのか、強くすすめてくるので、俺はやむなくコーヒーが飲めないことを明かさなければならなかった。
「いや、来てくれて嬉しいよ。校長なんてのはね、別に偉くもなんともないんだ。気軽に訪ねてほしいものだが、やはり肩書きがあると周りはどうしても気を使ってしまう。
さて、どういう御用向きだろう」
校長はそう言って、身を乗り出した。
「アンタの言っていた課題、『敬意』について、俺なりに思ったことがある」
「それは素晴らしい!」と校長は声をあげた。
まだ何も内容を話す前から、何がそんなに嬉しいのかと俺は怪訝に思ったが、それを感じ取ったのか、校長はこう付け足した。
「『敬意』とは何だろう、それを君は考え、その考えを聞かせるために、ここへ足を運んだ。それは私にとって、ほとんどこの上なく尊いことだよ」
俺はそれについて少し考えたが、とりあえず横に置いて話すことにした。
「俺が思うに、『敬意』ってのは、相手の話を聞くってことに近い」
「なるほど。興味深いね。何か、そう考える切っ掛けがあったのだろうか」
「そうだな。俺がこれまで聞いてきたのは、音楽と金についての話ばかりだった。音楽について、誰がどんな御託をほざいたところで、俺がピアノを弾けば結局そいつは黙ったし、金の話なんてのは高いか安いかしか話題がねえ」
「なるほど、そこには、君にとって発見はなかった。しかし、そうではない出来事が、君に起こった」
「ふとした拍子にな、何か、『コイツは俺と一緒だ』と気付かされることだとか、『これは、どういうことなんだ?』と思わされるようなことがあった。
それは必ずしも、相手が俺に、重要なトピックとして語ったことじゃなかった。言葉の端の方に、引っかかるような何かを感じることがあったんだ」
「そういうものは、君にとって、価値があった?」
「それはまだ分からねえ。ただ、その可能性があると感じた。だから、『敬意』ってのは、もしかしたら、誰の言葉の中にも、そういう“引っかかり”があるかもしれねえと思って話を聞くことなんじゃねえかと思ったんだが……」俺はそこまで言って、何か、自分の考えやその表現に不足があるように感じてためらったが、それ以上付け足すべき言葉を持っていなかった。
「素晴らしい“気付き”だ。課題を出しておいて、こういうことを言うと、君は怒るかもしれないが、この課題に、明確な回答はない。
君が考え、そして一つの答えにたどり着いたこと、そして、もしかすると、さらにその先、あるいは別の方向性があるかもしれないと言い淀んだこと、それ自体が、正解だと言って差し支えない。私はそう思うよ」
「そうか。スッキリはしねえが、そういうもんか」
「そう。スッキリとはしない物事というのも、それはそれでアジなものさ。物語のラストがハッピーエンドとは限らないが、人はそういうものに惹かれることもある。
ところで、一つ、聞いてもいいかね?」
「何だ?」
「君は、私の課題など他所において、突かれればまあ、『考え中』とか何とか、適当にあしらうことだってできたはずだ。
君がこの課題に、少なくとも私の目から見れば、真剣に取り組もうとしてくれた、その動機は何だろう」
「俺のピアノの音色に、変化があった」
「ほう」と校長は興味深そうに声をあげた。
「俺は与えられた譜面を正確に弾くということについて、誰にも負けねえ自信がある。だが、ピアノを弾くということが、88個の鍵盤を、作曲者の指定通りに押すってだけのスポーツだとしたら、そりゃ競技としてはいくぶん退屈だ。
音楽には、多分それ以上の何かがあって、審査員はそれに『YES』か『NO』の審査を下す。
今のままでは、俺はコンクールの2次審査あたりでハネられるだろう。俺よりずっとテクのねえヤツに負けて。俺にはそれが我慢ならねえ」
「そして、私の課題を考えることが、その克服につながると」
「分からねえが、俺の変化の正体は、人間同士の関わりの中にあるように思えるんだ。これを掴めば、俺のピアノは多分、もう一段階上の次元に跳ねる。そうなった時、もう、誰も、俺の足元に寄り付くヤツぁいなくなるだろう。俺は、そうなりたい」
俺がそう言うと、校長は深くうなずいた。
「変化を楽しむことだ。例えば、君は、驚くほど強い人間だが、誰かに弱さを見せてみるといい。世界が、違って見えるかもしれないよ」
俺はその言葉を頭の中で反芻してから、言った。
「明日、昼に音楽室を貸してくれ」