3-6.変更された世界の、新しいルール/篠崎 寧々
やってしまった。
もう、顔を赤らめればいいのか、青ざめればいいのか分からない。
何の脈絡もなく呉島くんに抱きついてしまった私は、とりあえずその場は謝って、それから「ご飯を食べに行きましょう」とだけ言うと、返事も聞かず、逃げるように音楽室を立ち去ってしまった。
何て失礼な痴女だろう。
道着袴のまま、駅まで走って電車に乗り、降りた駅からまた家まで走る。いそいそと玄関に入ると、ただいま、とだけ言って、自分の部屋に駆け込んだ。
「アンタ、部活どうしたの!」とお母さんが階下から言う。
「休んだ! その……いろいろあって!」私はドア越しにも聞こえるように大きな声で答えた。
「大丈夫なの?」
「大丈夫! 心配するようなことは、本当に何もないから!」
「具合が悪いとかじゃなくて?」
「いえ! すこぶる快調であります!」
道着を脱いで部屋着に着替えると、ベッドにうつ伏せになって、枕に顔をうずめた。
意味もなく足をバタバタさせる。
鞄の中のスマホが、メッセージアプリの受信を示すリズムで鳴った。
私はベッドの上から手を伸ばして鞄をまさぐり、スマホを取り出す。剣道部のグループラインだ。
未読メッセージの一番上は、部長からだった。
「ネネ、君には、報告の義務がある」
その下に、マユや他の部員たちのメッセージとスタンプが並ぶ。
「ソイヤッ!」
「ソイヤッ!」
「ソイヤッ!」
私は、何て返事をしようか本気で悩んだ。部活を休んでまで、彼に会って来たのだ。確かに、私には報告の義務がある、とまでは思わないけれど、お茶を濁すような返答は不誠実な気がする。
考えた末、私は「とりあえず、お食事には誘えました」と書いた。
すぐに返信がつく。
「ソ……ソイヤッ」
「ソイヤ……」
「ソイヤ……ッ」
ソイヤッの感じで態度を表現しようとするのはやめてほしい。続報を待ってこちらをうかがう様子が、不思議と伝わってくる。
「ちょっと、変なテンションになってしまって、抱きついてしまいました……」
私がそう打ち込むと、一瞬の間があって、そこから怒涛の勢いでコメントが殺到した。
「出た!」
「kwsk!」
「描写しろっ!」
「ソイヤーッ!」
「はぁはぁ……ねえちゃん今日のパンツ何色やねん」
「真性の痴女!」
「ッソーイーヤァ!」
「ハッ! ハッ!」
「一撃が重い!」
「ッソイーヤイーヤササァ!」
「ソイヤッ! ソイヤッ!」──
玄関のドアが開く音がして、お父さんとお姉ちゃんが「ただいま」と言うのが聞こえると、程なく、「寧々ー!」とお父さんが私を呼んだ。
前髪を手ぐしでとかすようなフリをして、顔が赤くなっているのを隠しながら階段を降りると、廊下に立っているお父さんの脇に抱えられた雑誌が目に留まって思わず声をあげそうになった。
呉島くんが表紙の、音楽雑誌だ。
「呉島さん、同級生なんだろ? 彼、すごいな」とお父さんは言った。
「そうなんだ……? あんまり、知りませんのですけどぉ……?」
ごまかそうとするあまり、何か変な感じになってしまった。
なぜ、お父さんが呉島くんを知っているのか。
「まあ、座って話そう。お前が彼からもらった、竹刀についての話なんかを」お父さんはそう言うと、リビングへ向かった。
✳︎
翌朝、ほとんどすがるような声でお父さんは言った。
「寧々、行ってらっしゃい。早く帰って来るんだよ。寄り道しないで。夜、遅いと心配だから。暗くなる前に。出来るだけ早く。出来れば、ダッシュとは言わないまでも、小走りくらいで……」
「分かったから。お父さん」私はお父さんをなだめて、家を出る。
その前の晩、仕事から帰ったお父さんの手には、私がこの前買ったのと同じ、呉島くんが表紙のクラシック雑誌があった。
うろたえる私の様子を見たお父さんはピンときたみたいで、私が終電で帰って来た日のことを問い詰められ、呉島くんとスイーツを食べ歩きした上、遅くまで公園でおしゃべりしていたことを(もちろん、その内容は言わなかったけど)、ほとんど洗いざらい話すことになってしまった。
親の立場からすれば、甘いものを何軒もご馳走になった上、竹刀まで買ってもらったとなっては、挨拶もなしとはいかないワケで、そういうことに思いが至らなかった私は、まだ子どもだなと反省した。
「本当に、他に寄ったところはないんだな」と、お父さんがかなりしつこく聞いてくるのに呆れたお姉ちゃんが、「あっても言うわけないじゃん」と、また余計なことを言うと、お母さんまで、「まあ、年頃の女の子には秘密が多いから」と、からかうように言って、結果、お父さんはとうとう、この日仕事を休んでしまった。
昨日の晩はそんな調子で、部活の仲間や家族からヤイヤイ言われたのもあって、なんだかその日の出来事を自分の中できちんと整理するのが難しかった。
けれども、スマホを開いて昨日のやり取りを見返すと、そこには動かぬ証拠のように、自分の気持ちが書いてあって、私は通学の電車の中で、何度も赤面しなければならなかった。
「で? 結局、アンタは好きなの?」
そう聞いてきたのはマユで、私はそれにしっかり答えていた。
「好きです」
グループが更なるカオスに陥ったのは言うまでもない。
いったい、どういう顔で部活の仲間と会えばいいのか、呉島くんには何と話しかけたらいいのか、何も分からなくなってしまった。
しかし、1つだけはっきりしたことがある。私が、呉島くんを好きだということだ。
その美しい楽器と、美しい佇まいと、美しい音楽とが一体になった彼の姿を見た昨日の夕暮れ、その瞬間に彼のことを好きになったのか、それとも、元々好きだったのを、あの瞬間に自覚したのか、それは自分でも分からない。
ただ、今この時、私は間違いなく彼が好きだ。
あの時、その悲しい音楽の、最後の和音の響きと一緒に、ふっと消えてしまいそうに見えた彼を、どうにかしてこの世界につなぎ止めておきたいと思った私の気持ちは、そういうふうにしか表現できない。
そう自覚すると、まるで、世界のスイッチが切りかわってしまったみたいに思えた。
通りの街並みや、駅の人混み、目に入る風景は、いつもと変わりがなかった。校門はいつもと同じ幅と高さで私を迎え入れたし、校舎の壁の色も、昨日と違うところはない。
しかし、その中で交わされる人との関わりは、昨日とはまるで違うものになる予感がした。
変更された世界の、新しいルールで、私は生きていかなければならない。
望むところだ。
私は、あの呉島くんが認めた『戦う女』なのだから。
玄関に入ったところで、ばったりマユに会った。
おはよう、とも何とも言う前に、マユは聞いてきた。
「ユーゴくんと、ラインした?」
私はハッとした。
「まだ、連絡先交換してない……」
「バカヤロウ! 遊びでやってんじゃないんだよ!」
それからチャイムが鳴るまで、私はマユにこっぴどく叱られた。